この世ならざるものを見る #7

物置部屋からダイニングへと戻り、アイリシアが淹れてくれた温かい紅茶に口をつける。


「ところで、君は全く違う世界から来たんだろう? 元の世界に帰りたいとは思わないのかい?」


僕はカップをソーサーに戻す。


「僕は、元の世界で死んでこちらに来たんです。だから、帰れる可能性はないと考えています」


城壁の上で星空を見たあの時から、ずっと考えていたことだ。


僕はまだ二十五歳で、人生のほんの触りを生きたにすぎない。

大学を出て、就職して、それなりに仕事も頑張ってきたつもりだ。

こちらに来る前は彼女はいなかったけれど、友人もいたし、家族との仲も良かった。


短いけれど、振り返れば満たされた人生だったと思う。

だから、名残惜しくはあるけれど、元の世界に心残りはない。


取り戻したい過去も、見返したい相手も、掴みたい栄光もない。

異世界転生者としては、あまりに不向きな人間かもしれない。


「だから僕は、この世界で、自分にできることをやっていこうと思います」


僕の言葉を、アイリシアは静かに聞いている。


「僕は突然この世界に放り出され、本当に幸運にもアイリシアさんに助けていただき、こうしてお世話になっています。先ほどは面倒を見るとおっしゃってくださいましたが、僕としては、このままご厚意に甘え続けるわけにはいかないと思うんです」


エルフは不老だ。

彼女の言葉に甘えれば、僕はこのまま一生を安楽に過ごすことさえできるのかもしれない。


でも、それではここで生きる意味が、本当になくなってしまう。


「なので、まずは何か仕事を探そうと思っています。そして、いずれは自分の力だけで生きていくつもりです」


「うん。君の気持ちは、なんとなくわかるよ」


アイリシアは窓の外に広がる夜の景色に視線を送り、どこか遠い目をする。


「ただ、君のやる気を削ぐつもりはないけどね。この街は廃れていく一方なんだ。仕事がそう簡単に見つかるわけじゃない。それに残念ながら、私には仕事を紹介するつてもない。なかなか大変だと思うよ」


「だとしても、やってみます」


アイリシアは「うん、わかったよ」と小さく微笑む。


そう言って姿勢を正すと、自分のカップを手に取り、紅茶を一口飲む。


「まあ、繰り返しになるけど、君の面倒は私が見る。焦る必要はない。全く違う世界から来たというなら、まずはこの街と、この世界そのものに慣れる必要があるだろう。好きな時に出かけて、この世界のことをじっくり知るといい」


これ以上ない申し出に、胸が熱くなる。


目に見えるチート能力こそないけれど、僕のラックはカンストしているのかもしれない。


「君は焦らず、自由に生きればいい」


「……ありがとうございます」


やはり僕には、感謝することしかできない。


その話のすぐ後、紅茶をゆっくりと味わううちに、僕の身体を猛烈な眠気が襲う。


死ぬところから始まり、森でモンスターに喰われかけ、エルフに助けられ、アストラル・オーブの物語を語り、買い物に行き、満天の星を見て、信じられないほど美味しいステーキを味わい、そして、この世ならざるものを見る。


目まぐるしい一日が、今になって一気に僕の身体にのしかかってくる。


「すいません……なんだか、もう……。今日は、寝かせてもらってもよろしいですか?」


「ああ、もちろんだよ。疲れただろう。ゆっくり寝るといい」


アイリシアに買ってもらったばかりの服を抱え、ふらつく足取りで二階へと上がる。


与えられた部屋に入るなり、抱えていた服を机の上に放り出し、そのままベッドへと倒れ込む。


「……異世界転生、したんだよな……」


枕に顔を埋め、僕はぽつりと独り言をこぼす。


いつの間にかこの状況になんとなく順応してしまっているが、僕の身に起きていることは、紛れもなく現実離れした出来事だ。


エルフがいる。


それだけでも、とんでもないことだ。


この世界で、僕はどうすべきなのか。

何をすべきなのか。

そして、どう生きていくのか。


考えなければならないことは山積みのはずなのに、無慈悲な眠りの手が、僕の意識を静かな虚無へと引きずり込んでいく。

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