第10話 『静かな夜空』



 季節が一つ、変わった。


 実家があった場所は今、さらさらとした土が広がるだけの更地になっている。


 不動産屋からの報告によれば、土地はすぐに買い手がつき、売却益で兄の借金も綺麗に完済できたという。

 残ったわずかなお金を持って、母は遠く離れた北関東の小さなアパートへと越していった。


 私の「警告」が効いているのか、あれから一度も連絡はない。


 兄の方はと言えば――更生施設から定期報告が届いていた。


『入所当初は暴れていたが、現在は観念して農作業に従事している。逃亡の恐れなし』


 添付されていた写真には、丸刈りにされ、げっそりと痩せて真っ黒に日焼けした男が、泥まみれで大根を引き抜いている姿が写っていた。


 その目は死んだ魚のようで、かつての傲慢な光は微塵もない。

 私はそのメールをゴミ箱に入れ、完全に削除した。


 これで、本当にすべてが終わったのだ。


 ◇


「ママ、おやすみなさーい!」


「はーい、おやすみ。いい夢見てね」


 寝室の明かりを消し、ドアをそっと閉める。


 静寂が訪れたリビングには、温かいルイボスティーの香りが漂っていた。

 ソファでは、夫の健人が読みかけの本を閉じ、眼鏡を外して目を細めている。


「結、すぐに寝た?」


「うん。今日は公園でたくさん遊んだから、ぐっすり」


 私は健人の隣に腰を下ろした。

 彼が自然に腕を回し、私の肩を抱き寄せる。


 その体温と、一定のリズムで刻まれる心音が、何よりも心地よい。


「……ねえ、健人くん」


「ん?」


「ありがとう。健人くんがいなかったら、私、きっとまだ過去に囚われたままだった」


 もし彼がいなければ、私は「家族だから」という呪いに縛られ、母を見捨てられず、兄に搾取され続けていただろう。


 私の背中を押し、一緒に泥をかぶり、戦ってくれた彼がいたからこそ。

 私は自分の人生を取り戻すことができた。


「お礼を言うのは僕の方だよ」


 健人は優しく私の髪を梳いた。


「遥が勇気を出して決断してくれたから、僕たちはこの平穏を守れたんだ。……君は強い人だよ。僕の自慢の奥さんだ」


 その言葉が、胸の奥にじわりと染み渡る。


「高卒」「出来損ない」「養分」。

 かつて私に向けられていた呪いの言葉たちは、もうどこにもない。


 ここにあるのは、私を一人の人間として愛し、尊重してくれる家族だけだ。


「……風、当たってくるね」


「うん。湯冷めしないようにね」


 私はマグカップを手に、ベランダへと出た。

 夜風は少し冷たかったけれど、火照った頬にはちょうどよかった。


 手すりにもたれかかり、空を見上げる。

 今日の夜空は、雲ひとつなく晴れ渡っていた。


 街の明かりにも負けないくらい、星が瞬いている。


 大きく、息を吸い込む。

 肺の隅々まで、澄んだ空気が満たしていく。


 重たい鎖はもうない。

 誰かの顔色を伺う必要もない。


 明日の朝は、また大好きな家族とご飯を食べ、笑い合い、未来の話をするのだ。


 私の人生は、ここからが本番だ。

 高卒だろうが何だろうが関係ない。私は今、世界で一番幸せな自信がある。


「……綺麗」


 ぽつりと呟いた言葉は、夜空の星に向けたものか、それとも自分の未来に向けたものか。


 私は空になったカップを置き、夜空に向かって小さく、けれど晴れやかに微笑んだ。


「さようなら。そして――こんにちは、私の新しい人生」


 室内の光が漏れる窓の向こうで、愛する夫が私を呼ぶ声がした。

 私は軽やかな足取りで、光の中へと帰っていった。


(了)


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「高卒のくせに」と見下したエリート兄が遺産を食いつぶしゴミ屋敷の住人に。殺されかけた母が泣きついてきたが、私は誓約書を突きつけて絶縁した。 品川太朗 @sinagawa

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