第5話 円環

 世界は、羊水(ようすい)の温かさではなく、培養液の生ぬるさに満たされていた。暗闇。けれど、完全な闇ではない。薄い膜の向こう側から、人工的な赤い光が透けて見える。

 ドクン、ドクン、という音。それは母の心音ではない。循環ポンプが液体を濾過(ろか)する機械的なリズムだ。

 僕は漂っていた。まだ手足も未発達で、脳味噌も真っ白な状態。自分という「個」の輪郭さえ曖昧だ。

 ただ、隣にもう一つ、同じ鼓動を刻む命があることだけは分かっていた。管(ケーブル)で繋がれた、もう一人の僕。

 ガラスの壁一枚隔てた隣の水槽に浮かぶ、片割れ。

 『……怖いよ』

 声帯のない声が、液体の振動を通して伝わってくる。彼だ。No.01だ。彼は生まれる前から、既に泣いていた。まだ瞼(まぶた)も開いていないのに、彼の網膜には「未来」という名の過酷な映像が焼き付いているのだ。

 『……何が見えるんだ』

 僕は問いかける。言葉ではなく、意識の波紋で。

 『針が見える。白い服の大人たちが見える。僕の頭に電極が刺される感覚。冷たいメス。……兄さん。僕たち、生まれない方がいいよ。ここは出口のない工場だ。生まれた瞬間に、僕たちの背中には値段がつけられる』

 彼は知っていた。

 ここが祝福された揺り籠(ゆりかご)ではなく、出荷を待つ在庫保管庫であることを。胎児の段階で、彼は絶望していた。へその緒を自ら首に巻き付けて、死んでしまいたいと願っていた。

 『……見るな』

 僕は言った。僕には未来は見えない。だからこそ、強がることができた。

 『目を閉じてろ。僕がいる。隣の水槽から、ずっとお前を見てる』

 『でも、痛いよ。怖いよ』

 『僕が盾になる。お前に刺さるはずの針は、僕が受ける。お前が壊れそうになったら、僕の部品(パーツ)をやる。そのために、僕は作られたんだろ?』

 不思議だった。まだ「兄」という言葉さえ知らないのに、僕の魂は既に「弟を守るためのシステム」として起動していた。それは遺伝子に刻まれたプログラムなのか。それとも、たった一つの魂を二人で分け合ったがゆえの、本能なのか。

 水槽の外から、くぐもった話し声が聞こえる。

 「No.01、脳波安定。……素晴らしい素体だ」

 「No.02は? ……まあ、予備としては十分か」

 「よし。培養フェーズ完了。『出荷(バース)』を開始しろ」

 世界が揺れた。栓が抜かれたように、満たされていた液体が一気に引いていく。急激な寒さ。重力。肺に空気が流れ込み、焼き尽くすような痛みが走る。眩しい光。

 オギャアアアア!

 誰かが泣いた。それは誕生の喜びの歌ではない。管理社会という監獄に収監された囚人の、最初の悲鳴だった。あるいは、エラーを知らせる警報音(アラート)だったのかもしれない。

 視界が白く染まる。その光の中で、僕は隣で泣いている小さな生き物の手を、反射的に握りしめた。この温もりだけは、システムには奪わせない。  そう誓って。



Epilogue:逆を進む僕たちは


 ――カラン、カラン

 空き缶の転がる音がした。冷たい雨の匂いと、鉄の錆びた匂いが鼻を突く。

 僕は目を開けた。白い培養液の世界は消えていた。

 目の前にあるのは、二十四歳の僕が見慣れた、灰色の路地裏だ。アスファルトには汚れた水たまりができ、ネオンサインが歪んで映っている。

 手の中には、温かい感触の代わりに、冷たいナイフの重みがあった。そして足元には、僕の弟――壱が倒れている。

 胸を赤く染めて。安らかな、まるで眠るような顔で。

 「……終わったよ、壱」

 僕は呟いた。声が枯れていた。七歳の時の約束。十二歳の時の殺意。  十七歳の時の敗北。二十歳の時の後悔。それらすべてを背負って、僕はついに「約束」を果たした。

 お前は機械にならなかった。水槽の脳髄にならなかった。お前は、人間のまま、大好きな兄の手にかかって死んだ。それが、この狂った世界で僕たちが勝ち取った、唯一のハッピーエンドだ。

 遠くから、パトカーのサイレンが聞こえる。

 システムが、「高価な商品の損壊」を検知して駆けつけてくる音だ。  もう逃げる必要はない。

 僕は空を見上げた。雨雲の隙間から、建設が終わった「バベルの塔」が見下ろしている。

 あの塔の頂上からは、今もアゲハの幻影が飛び続けているのだろうか。真人はどこかの路地裏で、僕の捕縛ニュースを聞いて、嘘泣きをしているだろうか。

 「……ねえ、壱」

 僕は弟の亡骸に話しかける。もう返事はない。未来の予言も聞こえない。  あるのは、ただ静寂だけ。完璧な、ノイズのない静寂。

 「僕たちは、逆へ進めたかな」

 生まれた瞬間から敷かれていたレール。

 「成長」という名の隷属。

 その流れに逆らって、僕たちは泥濘(ぬかるみ)の川を遡(さかのぼ)り、始まりの場所(死)へと辿り着いた。

 僕はポケットから、一本のキャンディを取り出した。七歳の頃にナナから貰った、あの酸っぱいレモン味のキャンディではない。施設から盗み出した、甘い甘い、記憶を溶かすキャンディだ。

 僕は包装紙を剥き、口に含んだ。

 カリッ。

 脳がとろけるような甘さが広がる。思考の輪郭がぼやけていく。恐怖が、罪悪感が、喪失感が、砂糖に包まれて消えていく。

 これでいい。もう、戦わなくていい。思考を止めて、ただの肉塊に戻ろう。  システムに回収される前に、僕の魂(こころ)だけは、壱のいる場所へ行こう。

 視界が滲む。雨音が、あの日の培養液の音のように聞こえる。

 カラン、カラン。

 空き缶が風に転がっていく。僕たちの物語は、ここで終わり。そして、またどこかで、新しい「商品」たちが産声を上げている。

 世界は続く。

 残酷なほどに、正しく、美しく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逆を進む僕たちは 亜久 @AQRIL

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ