第4話 殺意の紫

 子供時代が「無垢」だなんて言ったのは、どこの誰だ。僕の記憶にある十二歳は、いつも泥と消毒液の臭いがしていた。

 梅雨の真っ只中。中学校の教室は、湿度百パーセントの不快な温室だった。

 窓ガラスを雨粒が叩き続け、世界を歪んだ水彩画のように滲ませている。

 僕は窓際の一番後ろの席で、校庭を眺めていた。泥だらけのサッカー部員たちが、白いボールを追いかけている。

 泥を跳ね上げ、叫び、笑い合う。それは「普通」という名の特権階級だけが許された、光り輝く遊戯だった。

 (……いいなぁ)

 喉の奥で、粘ついた羨望が漏れる。雨漏りのシミみたいに、心の天井からポタポタと黒い雫が垂れてくる。

 僕もあの中に混ざりたい。泥だらけになって、馬鹿みたいに笑って、帰りにコンビニで買い食いをして、「明日またな」って手を振りたい。

 たったそれだけのことなのに。僕には、そんな当たり前の未来すら用意されていない。

 「……あ」

 隣の席で、小さな声がした。壱(いつ)だ。

 この頃の彼は、今よりもずっと小さく、病的に痩せていた。

 施設『箱庭』を出て、里親という名の監視員の家に預けられて半年。環境の変化は、彼の繊細な脳を容赦なく蝕んでいた。

 「外れるよ」

 「え?」

 「PK……ポストに当たって、外れる」

 壱が校庭を指差して呟く。その直後。

 校庭から「ああーっ!」という落胆の声が上がった。ボールは壱の予言通り、ゴールポストに弾かれて転がっていた。

 「……またかよ」

 僕は舌打ちをした。

 前の席の女子生徒が、気味悪そうにこちらを振り返り、すぐにヒソヒソと隣の子に耳打ちする。

 『聞こえた?』

 『また当てたよ』

 『気持ち悪い』

 『宇宙人なんじゃない?』

 教室中の空気が、生乾きの雑巾のようなジメジメとした悪意を帯びて僕たちにまとわりつく。

 僕たちは「異物」だった。

 ランドセルを背負っていた頃から、僕たちは周囲と違っていた。

 壱は時々、発作のように未来を口走る。

 「明日の給食は揚げパンだ」「先生は風邪で休む」「あの子の飼ってる犬が死ぬ」

 それが当たるたびに、周囲の目は「好奇心」から「恐怖」へ、そして「排斥」へと変わっていった。

 僕は、そんな弟の介護係だ。壱が暴走しないように口を塞ぎ、周囲に頭を下げ、「ただの偶然です」と愛想笑いをする。

 それが僕の青春のすべて。

(こいつさえ、いなければ)

 ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。もし壱がいなければ、僕はサッカー部に入れたかもしれない。あの子と普通に話せたかもしれない。

 僕の足首に絡みついている、この重たい鎖さえなければ。

「ねえ、数宮くん」

 突然、背後から声をかけられた。振り返ると、一人の少年が立っていた。  首から上まで包帯を巻き、右目だけを出している奇妙な姿。 柩(ヒツギ)だ。  先週転校してきたばかりの、クラスで唯一、僕たちと同じ「浮いている」存在。

 「何?」

 「シンデレラの話、知ってる?」

 彼は唐突に聞いた。包帯の下で、くぐもった笑い声がする。

 「魔法使いとか、カボチャの馬車の話だろ」

 「違うよ。本当のはもっと痛い」

 柩は、僕の机に手をついた。

 その指は白く、死人のように冷たかった。

 「王子様が落としたガラスの靴。あれを履くために、シンデレラの姉たちが何をしたか知ってる?……入らない足を無理やりねじ込むために、ナイフで自分の踵(かかと)とつま先を切り落としたんだ」

 ゾクリとした。雨音が強くなる。教室のざわめきが遠のいていく。

 「社会っていうのはさ、あのガラスの靴なんだよ、数宮くん。形が決まってる。硬くて、冷たくて、融通が利かない。僕たちみたいな歪な形の人間が、そこに入ろうと思ったら……やることは一つしかない」

 柩の右目が、三日月のように細められた。

 「余計な部分を、切り落とすんだ」

 彼の視線が、僕の隣で震えている壱に向けられた。

 余計な部分。

 切り落とすべき、踵。それが何を指しているのか、十二歳の僕にも痛いほど理解できてしまった。

 「……何を言ってるんだ」

 「分かってるくせに。君はもう、ナイフを持ってるじゃないか」

 柩は僕の筆箱を指差した。中に入っている、工作用の銀色のハサミ。刃先が、冷たく鈍い光を放っている。まるで「使ってくれ」と誘うように。

 「痛いのは一瞬だけだよ。切り落としてしまえば、君はあのガラスの靴を履ける。泥だらけになってサッカーをして、みんなと笑い合える『王子様』になれるんだ」

 悪魔の囁きだった。いや、悪魔なんて高尚なものじゃない。

 これは、僕自身の腐った心が作り出した幻聴かもしれない。

 「……うるさい。あっちに行け」

 僕は柩を睨みつけた。けれど、柩は楽しそうに肩をすくめただけだった。

 「雨、強くなってきたね。……気をつけて。『赤い靴』は、一度履いたら死ぬまで踊り続けなきゃいけないんだから」

 彼は謎めいた言葉を残して、自分の席へと戻っていった。赤い靴。呪われた靴を履いた子どもは、踊りをやめることができず、最後は処刑人に頼んで自分の足を切断してもらった。

 僕は足元を見た。

 壱が、僕の上履きの端を、指先で摘んでいた。

 いつもの癖だ。不安な時に、僕の一部に触れていないと落ち着かない弟。

 その細い指が、僕にまとわりつく「赤い靴」の紐に見えた。

 これを履いている限り、僕は一生、この苦しいダンスを踊り続けなきゃいけない。

 普通になれない。幸せになれない。

 (切り落とせば、楽になれる)

 筆箱の中のハサミが、カチリと鳴った気がした。


 キーンコーン……。

 チャイムが鳴る。それは授業の始まりを告げる音ではなく、残酷な手術(オペ)の開始を告げるブザーのように聞こえた。

 僕は壱の手を振り払おうとした。

 けれど、壱が顔を上げ、潤んだ瞳で僕を見た瞬間、その手は空中で止まった。

 「……兄さん、ごめんね」

 壱が掠れた声で言った。

 「僕がいるから、兄さんは雨宿りできないんだね」

 心臓を素手で握りつぶされたような気がした。

 こいつは分かっている。

 僕が今、何を考えていたか。

 自分が「邪魔者」であることを、誰よりも正確に予知している。

「……バカ言うな」

 僕は吐き捨てるように言った。それ以上、言葉が出てこなかった。

 ただ、窓の外の雨が、世界中の泥を洗い流してくれることを祈るしかなかった。

 でも、僕の心にこびりついた泥だけは、どれだけ雨が降っても落ちそうになかった。

 里親の河合(かわい)さんの家は、パステルカラーで塗られた綺麗な一軒家だった。

 庭には手入れされたパンジーが咲き、玄関には「Welcome」と書かれた木製のプレートが揺れている。

 絵に描いたような「幸せな家庭」。

 けれど、僕にはそこが、精巧に作られたプラスチックのドールハウスにしか見えなかった。

 埃ひとつないフローリング。指紋のない窓ガラス。生活の匂いが漂白された空間。

 リビングにはカレーの匂いが充満していた。本来なら食欲をそそるはずのその匂いが、僕には胸焼けを誘う。市販のルーに、隠し味のハチミツと、「私たちは可哀想な孤児を愛している」という偽善がたっぷりと煮込まれているからだ。

 「歩夢くん、おかわりは?」

 「……ううん。大丈夫です。お腹いっぱい」

 「そう。遠慮しなくていいのよ」

 里親の母親が、貼り付けたような笑顔で言った。

 彼女の視線は、僕ではなく、隣でスプーンを落とした壱に向けられている。  壱の手が震えている。

 今日の気圧の低下が、彼の神経を逆撫でしているのだ。

 「あ、ごめんなさい……」

 「いいのよ、壱くん。……でも、もう少し綺麗に食べようね。小学生なんだから」

 優しい声。けれど、その奥には氷のような冷たさがあった。

 『不良品』を見る目だ。ネットで注文した商品が、期待していたスペックと違っていた時の、あの「返品」を検討する目。

 僕たちはここで「良い子」を演じなければならない。

 そうしなければ、また施設(箱庭)に送り返される。

 だから僕は、テーブルの下で壱の手を握り潰すほど強く握り、「しっかりしろ」と合図を送る。

 壱が痛みに顔を歪めながら、必死にスプーンを拾い上げる。

 これが僕たちの団欒だ。温かいスープの冷めた味がした。


 食後、僕はゴミ出しを言いつけられて外に出た。雨は土砂降りになっていた。

 傘を差してゴミ集積所に向かう途中、街灯の下に人影が見えた。

 全身に包帯を巻いた少年。柩(ヒツギ)だ。

 彼は傘も差さず、ズブ濡れになりながら、電柱に寄りかかっていた。雨水が包帯に染み込み、その下にあるかもしれない傷口を濡らしている。

 「……何してるんだよ」

 「涼んでいるんだ。家の中は息が詰まるからね」

 柩は右目だけで僕を見た。包帯で隠された左目。

 読者の考察通りなら、彼はそこに「代償」を支払ったのだろうか。

 「ねえ、数宮くん。北欧神話のオーディンって知ってる?」

 まただ。彼はいつも唐突に物語を語り出す。

 「神々の王オーディンは、知恵の泉の水を飲むために、自分の片目を差し出したんだ。……僕もね、差し出したんだよ」

 「目を?」

 「『子供であること』を、さ」

 柩が包帯の上から左目に触れる。じゅわり、と水が染み出す音がした。

「大人たちが隠している汚い本音。社会というシステムの設計図。それを理解するための『知恵』が欲しくて、僕は無邪気な左目をえぐり出した。おかげで、世界がよく見えるよ。……例えば、今の君の家の食卓とかね」

 柩は、河合さんの家の窓を指差した。カーテンの隙間から、温かいオレンジ色の光が漏れている。

 「あの両親、今頃話してるよ。『お兄ちゃんの方は優秀だけど、弟の方は気味が悪いわね』って。『弟だけ施設に返せないかしら』って」

 「……やめろ」

 「君も気づいてるはずだ。弟さえいなければ、君はあの家の『本当の子供』になれる。綺麗な服を着て、パンジーに水をやって、美味しいカレーを食べられる。……でも、壱くんがいる限り、君はずっと『セット販売のオマケ』だ」

 図星だった。僕の心の奥底にある、一番触れられたくない腫瘍を、彼は正確に突いてくる。

 「数宮くん。君はまだ、バラバラにされていない」

 柩が一歩近づいてきた。雨の音に混じって、彼からは薬品と、湿った木材の匂い――「棺桶」の匂いがした。

「僕は一度、殺されたんだ。弟にね。心をバラバラに引き裂かれて、継ぎ接ぎされて、こうして包帯で巻かれて、やっと『人間』の形を保ってる。エジプトのオシリス王みたいにさ」

 彼は笑った。右目だけが笑っていて、口元は雨で見えなかった。

「君にはそうなって欲しくないな。殺される前に、殺した方がいい。……今夜は雷が鳴るよ。大きな音が、君の罪を消してくれる」

 彼は僕の手に、何かを握らせた。冷たくて、硬い金属の感触。見ると、それは学校で僕が持っていた銀色のハサミだった。なぜ彼がこれを? いつの間に盗んだ?

「ガラスの靴を履くための手術道具だ。大丈夫。踵(かかと)を切り落とすだけだよ」

 柩はそう言い残すと、闇の中に溶けるように消えた。後には、激しい雨音と、手の中のハサミだけが残された。

 

 深夜は予言通り、激しい雷雨になった。

 ドォーン! バリバリバリ!

 地響きのような雷鳴が、家を揺らす。

 「う……うぅ……あぁっ!」

 二段ベッドの下で、壱がうなされていた。

 発作だ。

 低気圧と雷鳴が、彼の脳内の「受信機」をバグらせている。

 「来ないで……黒い、波が……兄さん、助けて……」

 壱は汗びっしょりで、シーツを掻きむしっている。

 僕は上のベッドから降りて、壱の様子を見た。

 白目を剥きかけている。

 このまま叫び出せば、里親たちが起きてくるだろう。

 そうすれば、「やっぱりこの子は異常だ」「手放そう」という会議が始まる。

 (静かにしろよ……!)

 僕は壱の口を塞ごうとした。

 その時、ふと、ポケットの中の重みを感じた。さっき柩に渡されたハサミ。

 ドォーン!!

 窓の外で稲妻が光り、部屋を一瞬だけ青白く照らし出した。

 その光の中で、僕の影が壁に投影される。右手にハサミを握りしめ、弟を見下ろす兄の影。それはまるで、弟を殺したカインのシルエットだった。

 (今なら)

 悪魔が囁いた。

 雷の音にかき消されて、悲鳴は聞こえない。

 心臓を一突きすれば、あるいは首の動脈を切れば。

 壱はいなくなる。

 僕は「可哀想な悲劇の兄」として、里親たちに慰められ、愛され、普通の幸せを手に入れられる。

 ガラスの靴が、ぴったりとハマる。

 僕はハサミの刃を開いた。

 シャキン。

 その音は、背筋が震えるほど魅惑的で、甘美な響きだった。殺すことへの恐怖よりも、「楽になれる」という快感が勝っていた。

 「……兄、さん?」

 壱が薄目を開けた。焦点の合わない瞳が、僕を――いや、僕が振り上げたハサミを見ている。彼は予知しているはずだ。

 この数秒後、この刃物が自分の喉に突き刺さる未来を。

 逃げろ。叫べ。暴れろ。そうすれば、僕は正気に戻れるかもしれない。

 けれど、壱は動かなかった。ただ、静かに涙を流して、口元を緩めた。

 「……ありがとう」

 唇がそう動いた。

 「え?」

 時が止まった。

 なぜ?

 なぜ「助けて」じゃない?

 なぜ「ありがとう」なんだ?

 壱は笑っていた。

 それは諦めでも絶望でもなく、「兄さんが楽になれるなら、僕は喜んで死ぬよ」という、純度100%の愛だった。

 彼は知っていたのだ。僕がどれだけ苦しんでいるか。どれだけ「普通」になりたがっているか。だから、自ら「踵」として切り落とされることを受け入れたのだ。

 「――――ッ!!」

 僕は絶叫した。振り下ろそうとしたハサミが、手から滑り落ちる。

 カランッ。

 乾いた音が床に響いた。僕はその場に崩れ落ち、嘔吐した。胃の中のカレーが、黄色い泥となって床に広がる。

 僕はなんてことを。

 僕は、怪物は、僕の方だった。

 自分を愛してくれる唯一の存在を、自分のエゴのために殺そうとした。

 「はぁ、はぁ、はぁ……」

 僕は震える手で、壱の体を抱きしめた。

 熱い。生きている。この心臓の音を、僕は止めるつもりだったのか。

 雷が遠ざかっていく。

 雨音だけが、シトシトと響いている。

 僕は知った。ガラスの靴なんて、最初から僕には履けなかったんだ。

 足を切り落としても、心を殺しても、僕は「あちら側」には行けない。

 だって僕は、弟を殺すことすらできない、半端者の兄なのだから。

 壁の向こうで、里親たちの話し声が聞こえた気がした。

 でも、もうどうでもよかった。

 この夜、僕は「社会」に背を向けた。そして、「弟と共に地獄へ落ちる」という契約書に、見えないサインをしたのだ。



Chapter 5:箱庭の赤

 記憶の中のその場所は、目が潰れるほどに白かった。壁も、床も、天井も、着せられた服も、食事のペーストも。すべてが「漂白」されていた。

 ここには汚れがない。雑菌がない。

 そして、「人間」もいなかった。

 七歳の僕――検体番号No.02は、棺桶のように硬いベッドの上で目を覚ました。

 朝のチャイム。それは教会の鐘のような美しい音色だが、僕たちにとっては「管理」の始まりを告げる家畜への合図だ。

 「おはよう、天使たち」

 スピーカーから、優しい女性の声が流れる。合成音声だ。抑揚が完璧すぎて、逆に不気味な声。人間が一度も発音したことのない、継ぎ接ぎの波形データ。

 「今日も素晴らしい一日ですね。さあ、『キャンディ』を食べて、お勉強を始めましょう」

 サイドテーブルの引き出しが、ウィーンというモーター音と共に開く。

 コロン、と転がり出てきたのは、カラフルな錠剤だ。赤、青、黄色。甘い匂いがする。人工的なフルーツの香り。

 これを食べると、頭がふわふわして、怖いことが考えられなくなる。

 大人の言うことがすべて正しく聞こえ、テストの問題がスラスラと解けるようになる魔法の薬。

 僕たちはそれを、疑いもせずに口に放り込む。

 カリッ。甘い。脳がとろけるように甘い。

 これが僕たちの主食であり、唯一の娯楽であり、鎖だった。

 「……兄さん、口の端についてるよ」

 隣のベッドから、No.01――壱(いつ)が身を乗り出して、僕の口元を指先で拭った。彼の手は氷のように冷たかった。

 彼の瞳は、キャンディを食べても濁らない。透き通ったガラス玉のような目で、いつも「ここにはない何か」を見つめていた。

 「壱、今日の気分は?」

 「うん……雨の味がする」

 「雨? ここは地下だぞ。窓なんてない」

 「でも、降ってるよ。遠くで、誰かが泣いてる」

 壱はベッドの下から、ボロボロになった絵本を取り出した。表紙が擦り切れて、タイトルが読めなくなっている古い本。この施設にある数少ない「許可された書物」の一つだ。

 「ねえ、兄さん。この王子様、どうして笑ってるの?」

 壱が開いたページには、高い柱の上に立つ、金色の像が描かれていた。

 足元にはツバメが一羽。ページをめくるたびに、王子様は自分の体についている宝石や金箔を、貧しい人々に分け与えていく。サファイアの目玉をくり抜き、ルビーの剣を渡し、金の皮膚を剥がして。

 「ボロボロになって、汚くなって……最後はゴミみたいに溶鉱炉で溶かされちゃった」

 壱が、目玉のなくなった王子の挿絵を指で撫でる。

 「……自分を切り刻んで、誰かにあげること。それが『幸福』なの?」

 七歳の僕には、その問いの意味が分からなかった。  ただ、壱の横顔が、挿絵の盲目の王子様と重なって見えたことだけが、胸に小さな棘として残った。  まるで、この本が僕たちの未来を暗示する「予言書」であるかのように。


 適性検査(ソーティング)の時間。

 広いホールに、僕たち「検体」が集められる。全員が同じ白い服。髪型も同じ。胸にはバーコード。

 まるで、ベルトコンベアに乗せられたヒヨコだ。

 白衣を着た大人たち――「先生」と呼ばれる研究員たちが、タブレット端末を見ながら歩き回っている。彼らは僕たちの顔を見ない。

 見ているのは、頭上に表示された数値データだけだ。

 「No.13、反応速度良好。虚言癖(クリエイティビティ)のスコアが上昇しています」

 「No.01、未来予測精度、99.8%。……素晴らしい。まさに神の領域だ」

 先生たちが壱を取り囲む。

 「いい子だ」「すごいぞ」「人類の宝だ」

 賛辞のシャワー。でも、誰も壱の頭を撫でない。抱きしめない。

 彼らが愛しているのは、壱という少年ではなく、壱が出力する「確定未来のデータ」だけだ。

 現代社会の縮図。成果(スコア)を出せる人間だけが愛され、そうでない人間は視界にも入らない。

 僕は、その輪の外にいた。

 No.02。

 僕の成績は「普通」だった。反応速度も、記憶力も、予知能力も、すべてが壱の劣化コピー。

 「No.02は……まあ、順調ですね」

 白衣の男が、僕を一瞥して言った。

 「ドナー(スペアパーツ)としての適合率は高い。No.01に万が一のことがあれば、すぐに脳や臓器を移植できるでしょう」

 男は小さな声で言ったつもりだったろう。でも、僕には聞こえていた。ドナー。スペア。部品。

 それが僕の名前だった。悔しさはなかった。キャンディのせいで、感情が麻痺していたからだ。

 ただ、「僕は壱のために死ぬために作られたんだ」という事実が、数式のようにストンと胸に落ちた。

 ふと、視線を感じて振り返る。部屋の隅で、No.13――後の真人が、先生に向かって満面の笑みを浮かべていた。

 「先生! 僕、このインクの染みが蝶々に見えるよ! すごく綺麗だね!」

 彼はロールシャッハ・テストの絵を見て言った。嘘だ。僕にはそれが、踏み潰された虫の死骸にしか見えなかった。

 でも、先生は嬉しそうに頷き、No.13にキャンディを追加で与えた。真人は笑いながら、震える手でそれを食べる。

 彼は知っているのだ。「役に立たない」と判断された子供が、あの「黒い扉」の向こうに連れて行かれ、二度と帰ってこないことを。

 だから彼は、必死で「感受性豊かな子供」という役を演じている。

 その向こうには、鏡の前でポーズを取らされている少女――アゲハがいた。  彼女の頭には電極がつけられている。

 「可愛いね」「素敵だよ」という音声が流れるたびに、彼女の脳波が快楽物質を分泌するように調整されているのだ。

 彼女はうっとりとした表情で、鏡の中の自分を見つめている。

 パブロフの犬。

 承認欲求という首輪をつけられた、哀れな実験動物。

 ここは地獄だ。でも、僕たちはここを「お家(ホーム)」と呼ぶように教え込まれている。

 外の世界には恐ろしい狼がいて、ここだけが安全な楽園なのだと。

 

 その夜。消灯時間を過ぎた真っ暗な部屋で、異変が起きた。

 ブツンッ。

 不意に、施設の電源が落ちたのだ。

 空調の音が止まり、静寂が訪れる。非常灯の赤い光だけが、廊下を毒々しく照らした。

 血液の中を歩くような、不吉な赤色。

「……兄さん」

 壱が僕の布団に入り込んできた。ガタガタと震えている。

 「呼んでる」

 「誰が?」

 「……地下の、王様たちが」

 壱は僕の手を引いた。

「行こう、兄さん。見なきゃいけないんだ。僕たちが……『何』なのかを」

 キャンディの効果が切れかけていた僕は、恐怖よりも好奇心に突き動かされた。

 この白すぎる世界の裏側に、何があるのか。神話のアダムとイブが、知恵の樹の実を目指したように。僕たちは手を取り合い、赤い光に照らされた廊下へと踏み出した。

 目指すは最深部。『サーバー室』と呼ばれる、立ち入り禁止の扉の向こうへ。


 非常灯の赤い光が、無機質な廊下を血管の内側のように染めていた。

 僕たちは裸足でペタペタと歩いた。

 リノリウムの床の冷たさが、足の裏から吸い上がり、骨の髄まで凍てつかせていく。

 角を曲がるたびに、空気が重くなる。

 消毒液の匂いは消え、代わりに腐った果実と、焦げた絶縁体が混ざり合ったような異臭が鼻を突き始めた。

 『サーバー室』は、地下三階の最深部にあった。

 普段なら厳重な電子ロックがかかっているはずの鋼鉄の扉。

 それが、停電のせいか、あるいは壱の能力が引き寄せた「運命の綻び」か、わずかに口を開けていた。

 隙間から、地鳴りのような重低音(ブーン)と、生温かい風が漏れ出している。

 「……ここだよ、兄さん」

 壱が扉に手をかけた。その小さな背中が、恐怖で小刻みに震えている。僕たちは、パンドラの箱を押し開けた。

 そこは、巨大な円形のホールだった。

 天井が見えないほど高く、壁一面に無数のモニターと極太のケーブルが、這い回る蔦(つた)のように張り巡らされている。

 部屋全体が熱を持っていた。何千台ものファンが唸りを上げ、熱風をかき回している。

 そして、部屋の中央に、「それ」は鎮座していた。

 巨大なガラスの円柱水槽だ。直径五メートルはあるだろうか。中には蛍光グリーンの培養液が満たされ、底からボコッ、ボコッという粘り気のある泡が上がっている。

 その液体の中に、無数の物体が浮遊していた。

 人間の「脳」だった。

 1つや2つじゃない。十、二十……いや、五十はある。頭蓋骨から丁寧に取り出された灰白色の塊。

 それぞれに無数の電極針が突き刺され、そこから伸びる赤と青のコードが、天井のメインサーバーへと直結している。

 脳たちは死んでいなかった。時折、ピクリと痙攣し、電気信号の光を明滅させている。夢を見ているのだ。終わりのない、計算という名の悪夢を。

 「う……っ、ぐ……」

 僕は思わず口元を押さえた。強烈な吐き気がした。視覚的なグロテスクさではない。「人間が部品として扱われている」という生理的な冒涜感が、胃袋を裏返そうとしていた。

「これが、『王様たち』だ」

 壱が、ふらふらと水槽に歩み寄る。ガラスに小さな手を当てると、中の脳たちが一斉に反応し、水槽内の気泡が激しく泡立った。まるで、同胞の来訪を嘆くように。

 「彼らは昔、僕たちと同じ『No.01』だったんだ」

 「……え?」

 「未来を見る子供たち。……でも、体は邪魔なんだって」

 壱の声から、感情が抜け落ちていく。

 「体が成長すると、雑念が混じって予知の精度が落ちる。思春期のホルモンノイズが邪魔になる。だから……こうやって、一番性能の良い『脳』だけを取り出して、新鮮なまま保存するんだ」

 モニターには、目にも留まらぬ速さで流れる数字の羅列が映し出されている。

 株価の変動。選挙結果の予測。テロの発生確率。

 この国の平和と繁栄は、子供たちの脳髄を搾り取り、並列処理(クラウド化)させることで計算されていたのだ。ここは墓場じゃない。

 「発電所」だ。

 子供の魂を燃料にして、社会という巨大な機械を動かすための炉心。

 「聞こえるよ、兄さん……」

 壱が自分の頭を抱え、その場にうずくまった。

 「『痛い』『帰りたい』『殺してくれ』……何十年分の悲鳴が、データになって流れ込んでくる。彼らは死ぬことも許されない。永遠に、明日(みらい)を見続けるだけの計算機にされて……」

 壱の体がビクン、ビクンと痙攣し始めた。彼は見てしまったのだ。数年後、自分の体が解体され、脳を取り出され、この水槽の中に浮かべられる未来を。  僕という「スペア」の臓器を使って延命されながら、永遠にシステムの一部として生き続ける地獄を。

 「嫌だ……ッ!」

 壱が絶叫した。その声は、これまで聞いたどの声よりも悲痛で、人間らしい根源的な恐怖に満ちていた。

「嫌だ、嫌だ! 機械になりたくない! 僕は人間だ!キャンディなんかいらない! 褒められなくてもいい!ただ……ただ、兄さんと一緒にいたいだけなのに!!」

 彼は床を拳で叩いた。ドンッ、ドンッ。小さな拳から血が滲む。

 けれど、誰も助けてくれない。

 神様なんていない。

 ここにいるのは、脳髄を貪り食う悪魔(システム)と、それを冷徹に管理するモニターの光だけだ。

 僕は立ち尽くしていた。足が震えて動かない。これが僕たちの正体?

 壱は「優秀な燃料」で、僕はその燃料が腐らないように管理するための「保冷剤」?

 ふざけるな。そんなの、あんまりじゃないか。

 その時、水槽の中の一つが、ボコッと大きな泡を吐いた。

 灰色の脳が、水流に揺れてこちらを向いた気がした。嘲笑だった。

 『お前たちも、すぐにこっちに来るぞ』

 『逃げ場なんてない。これが成長の行き着く先だ』

 プツン。

 僕の中で、何かが焼き切れる音がした。

 恐怖が、沸騰して怒りに変わった。

 灼熱のような怒りが、キャンディで麻痺していた感情を食い破った。

 「……させない」

 僕は壱に駆け寄り、その小さな体を抱きしめた。

 汗と涙でぐしゃぐしゃになった弟。

 まだ温かい。心臓が動いている。この温もりを、あんな冷たい硝子の中に閉じ込めてたまるか。

 「させないぞ、絶対に!」

 「兄さん……」

 「お前をあんな水槽には入れさせない! 脳みそだけになんてさせるか!」

 僕は壱の顔を両手で包み込み、無理やり自分の方を向かせた。

 壱の瞳は涙で溢れ、絶望色に染まっていた。彼の目には、もう「死」しか映っていない。

 「でも、未来は決まってるんだ……。僕には見える。白衣の人たちがメスを持って、僕を迎えに来る日が……逃げても、無駄なんだ……」

 「なら!」

 僕は叫んだ。言葉を選ぶ余裕なんてなかった。

 論理も、倫理も、道徳も、すべてかなぐり捨てた。

 ただ、この震える弟を、このシステムから「解脱」させたい一心で。僕は、禁断の契約を口にした。

 「なら、その前に終わらせてやる」

 「……え?」

 「白衣の奴らに体を弄られるくらいなら……その前に、僕が殺してやる」

 言ってしまった。

 兄として、人間として、決して言ってはいけない言葉。

 でも、この狂った箱庭の中で、それだけが唯一の、絶対的な「救済」だった。システムは「生きた人間」を利用する。

 ならば、死ねばいい。死こそが、システムが手出しできない唯一の聖域だ。

 「僕の手でお前を殺す。心臓を止めて、魂を逃がしてやる。そうすれば、お前は機械にならずに済む。人間のまま……僕の弟のままで、終われるんだ」

 それは、七歳の子供が交わせる精一杯の愛の告白だった。愛しているからこそ、殺す。守りたいからこそ、命を奪う。

 この瞬間、殺人は罪ではなく、祈りになった。

 壱が目を丸くして僕を見つめた。涙が頬を伝い落ちる。やがて、彼の顔に、不思議な安らぎが広がっていった。あの幸福だった王子が、すべてを失って鉛の心臓だけになった時のような、穏やかで美しい表情。

 「……本当に?」

 「ああ。約束だ」

 「痛くないようにしてくれる?」

 「……努力する。一番、優しい方法でやる」

 僕が答えると、壱は泣きながら、それでも嬉しそうに笑った。

 「ありがとう、兄さん。……嬉しい」

 彼は僕の胸に顔を埋めた。その体温が、僕の胸に焼き付く。この温もりを消す役目を、僕は今、背負ったのだ。

 「じゃあ、その時が来るまで、僕は頑張るよ。……兄さんに殺してもらえるなら、僕は怖くない」

 ――バチンッ!

 その瞬間。施設の照明が一斉に点灯した。ブーンという低い音と共に、空調が唸りを上げて動き出す。非常灯の赤が消え、暴力的なまでの「白」が戻ってきた。

 廊下の向こうから、大人たちの怒鳴り声と、軍靴のような足音が近づいてくるのが聞こえた。脱走がバレたのだ。管理社会の牙が、僕たちを捕らえに来た。

 でも、僕たちはもう怯えてはいなかった。僕たちは「秘密」を共有した。  大人たちが決して奪えない、血よりも濃い約束を。

 「行こう、壱」

 「うん」

 僕たちは手を繋ぎ、立ち上がった。

 迫り来る白衣の悪魔たちを睨みつけながら。

 僕の目には、もう涙はなかった。あるのは、冷たく静かな殺意と、弟への愛だけ。

 これが、すべての始まり。「あの雨の日」へと続く、長く苦しい旅路の出発点だった。

 僕たちはこの日、人間であることをやめ、「共犯者」になったのだ。


 地獄の釜の底は、静寂に包まれていたわけじゃない。

 そこは、子供たちの甲高い笑い声と、靴擦れの痛みと、人工甘味料の甘ったるい匂いで満たされていた。施設での日々は、「競争」という名の選別作業の連続だった。

 中央ホールは円形になっていて、その中心には黒いマジックミラーで覆われた塔がそびえ立っている。パノプティコン(全展望監視システム)。塔の中にいる「先生」からは僕らが見えるが、僕らからは先生が見えない。いつ見られているか分からない恐怖が、僕たちを「良い子」という名の囚人に変えていた。

 「ねえねえ、先生! No.24ちゃんが泣いてたよ!」

 「No.09くんが、壁に絵を描いてた! 規則違反だよね?」

 自由時間。子供たちは競うように監視塔へ駆け寄り、インターホンに向かって叫ぶ。「密告」だ。

 この箱庭では、他人の欠陥(バグ)を報告すると、ご褒美として夕食にデザート(ゼリー)がつく。

 だから僕たちは、互いの粗探しに血道を上げる。友情なんてない。隣のベッドで寝ているあの子は、明日の朝には僕を売るかもしれないスパイだ。

 「……気持ち悪い」

 壱が積み木を並べながら呟いた。彼は密告に参加しない。だからデザートももらえないし、他の子供たちからは「暗い奴」と爪弾きにされている。

 「みんなの心が、泥団子みたいにベトベトしてる」

 僕は壱を守るように背中を向け、周囲を警戒した。

 No.02の役割は、No.01(壱)の精神汚染を防ぐこと。

 僕は近づいてくる子供たちを睨みつけ、時には突き飛ばして、弟の聖域を守り続けていた。僕もまた、泥団子の一つだった。

 そんなある日。僕たちに話しかけてくる「変な奴」が現れた。

 「ねえ。その積み木、お城?」

 声をかけてきたのは、僕らより頭一つ背の高い少女だった。胸の番号はNo.07。名前はナナ。髪はボサボサで、白い服の袖はいつも汚れている。彼女は「落ちこぼれ」として有名だった。テストの成績は最下位。密告もしない。いつも部屋の隅で、何かをブツブツと呟いている不気味な子。

 「……話しかけないで。バカが伝染る」

 僕はマニュアル通りの拒絶をした。けれど、ナナは気にせず、壱の積み木に手を伸ばした。

 「ここ、入り口がないよ。お城には入り口がないと、王子様が帰ってこれないじゃん」

 「……帰ってこないよ」

 壱が答えた。

 「王子様は、溶かされるから。入り口なんていらないんだ」

 ナナは目を丸くし、それからケラケラと笑った。その笑い声は、他の子供たちの媚びへつらう笑いとは違っていた。空気が抜けたような、それでいて温かい、日向の匂いのする笑い声。

 「変な子たち。……ねえ、いいものをあげる」

 ナナはポケットから、包み紙を取り出した。配給されたキャンディだ。でも、色が違う。表面がザラザラしていて、少し溶けている。そして何より、目が覚めるような鮮烈な「黄色」をしていた。

「これ、舐めてみて」

 「毒?」

 「ううん。『本物の味』だよ」

 僕と壱は顔を見合わせ、恐る恐るそのキャンディを口に入れた。

 酸っぱい。

 強烈な酸味が口いっぱいに広がり、顎の付け根が痛くなる。いつもの「脳がとろけるような甘さ」じゃない。痛みにも似た、鮮烈な刺激。

 「……なにこれ」

 「レモンの汁をかけたの。厨房から盗んできたんだ」

 ナナは悪戯っぽくウインクした。

 「甘いだけのキャンディを食べてると、頭がバカになるよ。たまにはこうやって、酸っぱいものを食べて『目』を覚まさないと」

 彼女は監視塔を見上げた。

 マジックミラーの向こうにいる大人たちを、射抜くような目つきで。

 「教えてあげる。キャンディを飲んだフリをして、舌の下に隠す方法。  ……大人たちの『操り人形』になりたくなかったら、ついておいで」

 それが、僕たちの最初の「共犯」だった。

 

夜のトイレ。監視カメラの死角。ナナによる秘密の授業が始まった。彼女は、この箱庭で生き残るための「裏技」をいくつも知っていた。

 「いい? 先生たちは『数字』しか見てない。だから、テストの時はわざと間違えて、たまに正解するの。そうすれば『成長の余地がある』と思われて、廃棄されない」

 ナナは言った。彼女が「落ちこぼれ」なのは、演技だったのだ。彼女は本当は誰よりも賢く、このシステムの異常さに気づいていた。

 「どうしてそんなこと教えてくれるの?」

 僕が聞くと、ナナは寂しそうに笑った。

 「……マッチ、持ってるから」

 「マッチ?」

 「心の中のマッチだよ。私ね、時々見えるの。壁の向こうに、青い空とか、海とか、お母さんみたいな人の顔が。マッチを擦った時みたいに、ボッて明るくなって、幸せな景色が見えるんだ」

 彼女は胸に手を当てた。

 「でもね、最近マッチが減ってきた気がする。最後の二本になる前に……誰かに、この火を分けておきたかったんだ」

 ナナは僕と壱の頭を撫でた。その手は、他の大人たちのように冷たくなかった。ザラザラしていて、温かかった。

「No.01くん。No.02くん。君たちは特別だよ。君たちのマッチは、きっと世界を燃やせるくらい強い。だから、消しちゃダメだよ。大人たちの冷たい風に負けないで」

 壱が、ナナの服の裾を掴んだ。彼の目から、涙がこぼれ落ちていた。

 「……お姉ちゃん」

 「ん?」

 「……消えるよ」

 「え?」

 「お姉ちゃんの火……もう、燃え尽きる。明日の朝、冷たい風が吹くよ」

 壱の予知。

 死の宣告。

 ナナは一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに優しく微笑んだ。

 「そっか。……やっぱり、君はすごいね」

 彼女は予知を否定しなかった。怖がりもしなかった。ただ、受け入れた。

 「じゃあ、急がないとね。  ……最後の授業だよ。よく聞いて」

 ナナの声が低くなった。

 「この施設の地下には、『ゴミ捨て場』があるの。廃棄された子供たちが捨てられる場所。……でもね、噂があるの。ゴミ捨て場のダストシュートの先は、外の下水道に繋がってるって」

 脱出ルート。唯一の希望。

「私が明日、連れて行かれたら……その騒ぎに乗じて、地下へ行きなさい。  君たちなら、きっと逃げられる」


 翌朝、予知は現実になった。朝の点呼の時間。ホールに、武装した警備員たちが現れた。彼らは迷わず、ナナの元へと歩み寄った。

 「No.07。再検査だ。ついてきなさい」

 嘘だ。再検査なんて言葉は、「処分」の隠語だ。ナナの成績(偽装した低いスコア)がついに、廃棄ラインを下回ったのだ。あるいは、彼女が薬を飲んでいないことに気づかれたのか。

 ナナは抵抗しなかった。彼女はゆっくりと立ち上がり、僕たちの方を一度だけ振り返った。言葉はなかった。ただ、口元だけで「マッチを消さないで」と動いた。警備員が彼女の腕を乱暴に掴む。

 「……あ、あったかい」

 ナナが唐突に呟いた。彼女の瞳が、虚空を見つめている。焦点が合っていない。瞳孔が開いている。

 「暖炉だ……ご馳走がある……お母さん……」

 彼女は幻覚を見ていた。  最後のマッチを擦ったのだ。  恐怖から逃れるために。あるいは、最期の瞬間にせめて人間らしくあるために、彼女は自らの精神を守る壁を壊し、幸せな幻影の中に逃げ込んだ。

 「ハハッ、壊れてやがる」

 警備員が嘲笑い、彼女を引きずっていく。

 ズザザザ、という上履きが擦れる音。ナナはずっと笑っていた。

 「綺麗……すごく綺麗だよ……」

 重い扉が閉まる。僕たちの「お姉ちゃん」は、巨大なゴミ箱の中へと消えた。

 シーンと静まり返るホール。

 他の子供たちは無関心だった。

 「あーあ、連れて行かれた」

 「バカな奴」

 「僕のデザート増えるかな」

 僕の中で、何かが弾けた。レモンの酸味よりも強烈な、苦くて熱い感情。  憎悪だ。このシステムに対する、殺意にも似た憎しみ。隣で、壱が僕の手を握りしめた。

 彼の爪が、僕の皮膚に食い込む。

 「兄さん」

 壱の声は、もう震えていなかった。

 「行こう。……マッチを使いに行こう」

 その夜。僕たちはナナが教えてくれた方法で、部屋の鍵を開けた。  目指すは地下。サーバー室。そして、その先にあるはずの出口。

 だが、僕たちはまだ知らなかった。ナナが言っていた「ダストシュート」なんてものは存在せず。地下にあるのは、もっと残酷な「再利用工場(サーバー)」だということを。そして、消えたはずの彼女が、そこで「部品」としてまだ生きているということを。

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