第3話 反逆の蒼
青春とは、炭酸の抜けたサイダーのようなものだ。甘ったるくて、生ぬるくて、飲み干すと喉の奥がイガイガする。
それでも僕たちは、それを聖水か何かのように崇め、回し飲みしていた。
十七歳の夏。世界はまだ、僕たちのために回転していた――と、錯覚できていた季節。
キーンコーン、カーンコーン。間延びしたチャイムが、歪んだ空間に響き渡る。
放課後の校舎は、巨大な迷宮だ。西日が廊下に長い影を落とし、窓枠の影がバーコードのように床を切り取っている。
僕――数宮歩夢は、螺旋階段を四階まで駆け上がり、誰も使わない突き当たりの教室のドアを蹴り開けた。
「遅刻だぞ、元帥閣下」
教室――いや、僕らが不法占拠している『部室』に入ると、呆れたような声が迎えた。
そこは、物理法則が少しだけストライキを起こしているような空間だった。 机や椅子が天井近くまで乱雑に積み上げられ、バリケードのような要塞を作っている。
黒板には、極太のマッキーで《世界征服計画(仮)》と殴り書きされていた。窓の外には、まだ骨組みしかない建設初期の「バベルの塔」が、遠くの空に小さな棘のように見えている。まだ何も刺していない、無害な棘のように。
「うるさいな。補習という名の、帝国による思想弾圧を受けていたんだ」
僕は鞄を放り投げ、パイプ椅子にドカリと座った。積み上げられた机の頂上には、真人(マヒト)が王様のようにあぐらをかいていた。まだピアス穴も少なく、髪も黒い。その笑顔には、あの「嘘の痛み」がまだ薄いように見える。
「思想弾圧ねぇ。単に古文の点数が赤点だっただけだろ?」
「言語とは支配の道具だ。過去の言葉(古文)を学ぶことは、死者による統治を受け入れることと同義だ」
「はいはい、カッコいいカッコいい」
真人はニシシと笑い、手に持っていたポテトチップスを投げ渡してきた。 袋を開けると、人工的なコンソメの匂いが充満した。
「……兄さん、うるさい。僕の安眠を妨げないで」
部屋の隅、ロッカーの中で膝を抱えていた壱(いつ)が、眠そうな顔を覗かせた。
この頃の彼は、まだヘッドホンをしていない。
未来のノイズはまだ「ささやき声」程度で、彼を壊すほどではなかったからだ。
それでも、彼は狭くて暗い場所を好んだ。ロッカーは彼にとってのシェルターだ。
「起きろ、参謀。世界を征服する時間だぞ」
「あと五分……。五分後に、購買のおばちゃんが売れ残りの焼きそばパンを半額にするから、それまで寝る」 「セコい征服だな」
僕は苦笑し、ぬるくなったサイダーを煽った。微炭酸が舌を刺激する。
この部室には、僕たち四人だけの時間が流れていた。
社会の「値札」も、大人の「説教」も届かない、エアポケットのような場所。
――バンッ!
突然、部室のドアが勢いよく開いた。
西日を背負って立っていたのは、制服を極端に着崩した少女――アゲハだった。逆光で表情が見えない。彼女の背後に伸びた長い影が、一瞬だけ、巨大な翼のように壁に映った。
「大変! 重大事件発生!」
彼女は叫びながら、スカートを翻して入ってきた。
生きてる。
当たり前だ。ここは過去なんだから。
でも、その血色の良い頬、輝く瞳、そして何より、あの「蝋の翼」の重さをまだ知らない軽やかな足取りを見て、僕は一瞬、息が止まりそうになった。 眩しすぎて、直視できなかった。
「どうした、アゲハ。またネイルが折れたとか、そういう国家存亡の危機か?」
「違うわよ! これを見て!」
アゲハは自分のスマホを突き出した。画面には、SNSのタイムラインが表示されている。まだフォロワー数は三千人ほど。インフルエンサーの卵。承認欲求という名の麻薬に、まだ完全には蝕まれていない頃。
「『神隠し』よ」
「神隠し?」
「そう。最近、うちの学校の生徒が消えてるって噂、知ってるでしょ? さっき投稿されたの。2-Bの佐藤くんが、授業中に消えたって!」
アゲハが興奮気味にまくし立てる。真人が机の山から飛び降り、スマホを覗き込んだ。
「ああ、その噂か。『バグり人間』の話だろ?」
「バグり人間?」
「そう。社会に適合できない奴は、システムから『バグ』と認定されて、データごと削除される――っていう都市伝説」
真人がおどけた調子で言う。
クシャリ、と音がした。
彼が手に持っていたポテトチップスの袋が、握りつぶされていた。
だが、僕はそれを見逃した。彼の笑顔がいつも通りだったからだ。彼が既に、その「削除」を手伝う側の人間であることになんて、気づくはずもなかった。
「面白そうじゃないか」
僕はあえて、面白がるフリをした。十七歳の数宮歩夢は、退屈を何よりも憎んでいた。自分がこの世界の主人公だと信じて疑わず、非日常という名のステージを探していた。
「世界征服部、最初の任務だ。その『神隠し』の正体を暴く」
「えー、危なくない? 私、顔に傷がついたら死ぬんだけど」
「大丈夫だよ、アゲハちゃん。僕が守ってあげるから(棒読み)」
「マヒトの守護とか一番信用できないわ」
ギャーギャーと騒ぐ二人。
ロッカーの中から、壱がボソリと呟いた。
「……消えたんじゃないよ」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
「え?」
「佐藤くんは、消されたんじゃない。……『溶けた』んだ」
壱が膝を抱えたまま、暗闇の中から僕たちを見上げた。
「どういうことだ、壱」
「未来の匂いがしたんだ。……プラスチックが溶けるみたいな、嫌な匂い。この学校には、業務用の大きな掃除機を持ったオバケがいる」
壱は虚空を見つめていた。その瞳には、僕たちには見えない「敵(システム)」の姿が映っているようだった。
僕はこの時、まだ知らなかった。
この「ごっこ遊び」のような探偵ごっこが、僕たちを本物の地獄――システムの深淵へと引きずり込む入り口だということを。僕たちは無邪気に笑っていた。自分たちが、既に檻の中にいるとも知らずに。
「よし、出動だ! 世界征服部は、神隠しの謎を解明し、ついでに焼きそばパンを確保する!」
僕は号令をかけた。アゲハが敬礼し、真人が口笛を吹き、壱が渋々ロッカーから這い出る。
僕たちは廊下を走った。
どこまでも続く、夕焼けの螺旋階段を。
転がり落ちていく未来に向かって、全力で。
二年B組の教室は、世界の果てみたいに静まり返っていた。
放課後の教室というのは、独特の匂いがする。
チョークの粉と、汗の混じった制汗スプレー、そして誰かが忘れていった教科書のインクの匂い。それらが西日によって煮詰められ、気怠い空気となって漂っている。
だが、この教室は違った。
匂いがない。
まるで新品のハードディスクを開封した直後のように、空気が無機質で、平坦だ。
「……誰もいないね」
アゲハが、恐る恐る教室の中に足を踏み入れた。彼女のローファーが床を叩くコツ、コツ、という音が、不自然なほど大きく響く。吸音材のない録音スタジオみたいだ。黒板には、今日の日直の名前と、数学の数式が書き残されていた。白いチョークの粉が、夕日を受けてキラキラと舞っている。 美しいけれど、どこか死体から舞い上がる塵のようだ。
「佐藤くんの席は、窓際の後ろから二番目らしいよ」
アゲハがスマホの画面を見ながら言った。
僕たちはその場所へ向かう。
こには、ごく普通の学習机があった。天板には小さな傷があり、パイプ椅子の背もたれには誰かのカーディガンが掛けっぱなしになっている。何変哲もない、ただの机。
だが。
「……うわ、何これ」
真人が素っ頓狂な声を上げた。
彼が指差した先。
佐藤くんの机の周囲だけ、床のホコリが「円形に」消滅していた。
まるで、そこだけ強力な掃除機で吸い取られたかのように、フローリングが鏡のように磨き上げられている。
いや、ワックスのハゲ具合まで消えている。そこだけ、「新品の床」が嵌め込まれているんだ。
掃除されたんじゃない。
そこにあった「生活の痕跡(ログ)」ごと、空間が初期化(フォーマット)されている。
「おーい、壱。どうだ? 『オバケ』の気配は」
僕は入り口で立ち止まっている弟に声をかけた。壱は教室に入ろうとしない。廊下の陰から、怯えた子犬のように顔だけ覗かせている。
「……入れない」
「なんで?」
「熱いんだ。そこだけ、電子レンジの中みたいに」
壱が佐藤くんの机を指差す。
「あそこ、まだ処理が終わってない。データの書き換え中だ」
データの書き換え。
壱の奇妙な言葉選びには慣れていたが、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
僕は机に近づき、天板に手を触れてみた。熱くはない。むしろ、氷のように冷たい。
だが、触れた指先の感覚が、どこか遠い。まるでガラス越しに触れているような、現実感のなさがあった。
「ねえ、写真撮ってみようよ」
アゲハがスマホを構えた。「心霊写真が撮れたらバズるかも」なんて軽口を叩きながら、シャッターを切る。
――カシャッ。
乾いた電子音。だが、次の瞬間、アゲハが「きゃっ!」と短い悲鳴を上げてスマホを取り落とした。
「熱っ! 何これ!?」
床に落ちたスマホの画面が、激しく明滅している。
拾い上げて画面を見ると、そこには机が写っていた。だが、机の部分だけが、真っ黒なノイズで塗りつぶされている。
《File Corrupted(ファイル破損)》《閲覧権限がありません》
赤い警告文字が、画面いっぱいに点滅していた。
「……マジかよ。これ、本物の心霊現象じゃん」
真人が口笛を吹いた。その顔は笑っていたが、額には脂汗が滲んでいた。 彼はさりげなく、机と僕たちの間に割って入るように立った。まるで、現場を封鎖するように。
「ま、多分あれだろ。佐藤くんは急に北海道に転校することになって、慌てて荷物をまとめたから、ホコリも飛んじゃったんだよ。よくある話だ」 「痛っ……」
真人が小声で呻き、自分の太ももをつねった。
嘘だ。
「転校」なんていう平和なオチじゃないことは、彼の身体反応が証明している。
僕は机の下を覗き込んだ。
何かないか。
佐藤くんが存在した証拠。システムが消し忘れた「バグの欠片」。
あった。天板の裏側。
ガムテープで貼り付けられた、小さなメモ用紙。そこに、震えるような筆跡で、何かが走り書きされている。
僕はそれを剥がそうと手を伸ばした。
「やめろ、歩夢!」
真人が叫んだ。いつものおちゃらけたトーンではない、鋭い警告の声。 だが、遅かった。
僕の指がメモに触れた瞬間。
――ジジッ、バチチチッ!
剥き出しの高圧電線に触れたような衝撃が指先を走った。
視界が歪む。西日のオレンジ色が、毒々しい紫色のノイズへと変色する。 教室の壁が、天井が、床が、無数の「数字の羅列」に分解されていく幻覚が見えた。
『……けて』
『……見つかっ……た』
『……ここは、学校じゃ、ない』
男の子の声が、脳内に直接響いてきた。
佐藤くんの声か?
いや、もっとたくさんの、圧縮されたデータ。
「うわぁっ!」
僕は弾かれたように手を引っ込めた。
尻餅をつく。幻覚は一瞬で消え、元の静かな夕暮れの教室に戻っていた。 ただ、天板の裏にあったメモ用紙だけが、焦げたように黒く変色し、灰となって崩れ落ちた。
「……今、の」
心臓が早鐘を打っている。アゲハが青ざめた顔で僕を見下ろしている。壱は廊下で耳を塞いでうずくまっている。真人は……真人は、冷たい目で「灰になったメモ」を見つめていた。
「……深入りするなと言ったろ、元帥」
真人が低い声で言った。彼は屈み込み、床に落ちた灰をハンカチで拭き取った。サッ、サッ。
迷いがない。手慣れている。まるで、掃除の手順が決まっているかのような動きだった。
証拠隠滅。その四文字が脳裏をよぎる。
「これは『バグ』だ。触ると感染する。……今日の活動はここまでにして、焼きそばパンでも買いに行こうぜ。な?」
彼は振り返り、ニカっと笑った。唇の端が切れて、血が滲んでいた。
どれだけの激痛に耐えれば、そんな完璧な笑顔が作れるんだ? 僕は震える手で拳を握りしめ、立ち上がった。
面白がっていた気分は、完全に消し飛んでいた。
これは「ごっこ」じゃない。 僕たちは、踏んではいけない虎の尾を踏んだのだ。
「……ああ、そうだな。腹が減った」
僕は真人の提案に乗ることにした。
今はまだ、何も知らないフリをするしかない。
だが、確信した。
この学校は、ただの学び舎じゃない。
ここは、「箱庭」の延長戦上にある実験場だ。僕たちは逃げるように教室を出た。背後で、佐藤くんの机が、ガタリと揺れたような気がした。
僕たちは、世界の果て(屋上)に逃げ込んだ。フェンスに背中を預け、購買で勝ち取った半額の焼きそばパンを貪る。ソースの濃い匂いと、紅生姜の酸味。そして、唇をテカテカにする安っぽい油。それは炭水化物と脂質の塊だ。
けれど、さっき教室で味わった「無機質な恐怖」を中和するには、このジャンクで暴力的な味が必要だった。
「……生き返るぅ」
アゲハが、リップクリームを塗ったばかりの唇にパンを押し込みながら言った。
西日が彼女の横顔を赤く染めている。その赤は、血の色ではなく、甘いシロップのような、人工的な夕焼けの色だ。
「なぁ、元帥」
真人が、口の周りに青海苔をつけたまま言った。
「さっきの教室のことだけどさ。やっぱり、集団ヒステリーの一種だと思うぜ。ほら、魔女狩りとかであったろ? 不安が伝染して、幻覚を見るやつ」
彼はまだ、平穏な日常のフリを続けようとしている。その必死に口角を上げた笑顔が、逆に痛々しい。
「魔女狩りか。……面白い例えだな」
僕は飲みかけのサイダーを回した。炭酸の泡がシュワシュワと弾ける。
「でも、逆かもしれないぞ」
「逆?」
「僕たちが魔女を狩るんじゃない。……僕たちが、魔女に太らされている側だとしたら?」
僕は眼下に広がる校庭を見下ろした。
サッカー部がボールを追いかけ、吹奏楽部のラッパの音がプアプアと鳴っている。平和だ。平和すぎて、吐き気がする。
「『ヘンゼルとグレーテル』だよ」
僕が言うと、壱がパンを齧る手を止めた。
「森の中で迷った兄妹が、お菓子の家に辿り着く話?」
「そう。壁はクッキー、窓は砂糖菓子。腹を空かせた子供にとって、そこは楽園だ。……でも、本当は?」
「……人食い魔女の、捕食場」
壱がボソリと答える。
「この学校と同じだ」
僕は、手に持った焼きそばパンを掲げた。半額シールが貼られた、ソースまみれのコッペパン。
「『教育』という名の甘いお菓子を与えられて、僕たちはここで飼育されている。歴史の授業で習ったろ? 十八世紀の産業革命。工場労働者を作るために、学校というシステムが整備されたって。あのチャイムは工場の始業合図。制服は作業着。校則は品質管理マニュアルだ。僕たちは『社会』という名の魔女に美味しく食べられるために、ここで丸々と太らされているんだよ」
アゲハが、気味悪そうに自分のパンを見た。
「やめてよ。美味しくなくなるじゃん」
「美味しくなくていい。栄養になればいいんだ。……さっき消えた佐藤くんは、魔女の口に合わなかった『不良品』だった。だから廃棄された。それだけのことさ」
シニカルに語る僕の言葉は、半分は本心で、半分は恐怖を紛らわせるための強がりだった。
けれど、真人は笑わなかった。
彼は真顔で、遠くの建設中のバベルの塔を見つめていた。
西日が彼の影を長く伸ばし、フェンスの向こう側へと落としている。
「……太らされて、食べられるか」
真人が独り言のように呟く。
「じゃあ、一番残酷なのはどっちだろうな」
「え?」
「食べられることか。それとも……自分が『お菓子』の一部になって、友達を誘い込むことか」
ドキリとした。
真人の瞳に、一瞬だけ深い闇がよぎった気がした。
風が止まる。
お菓子の家の一部になる。それはつまり、システム側の人間(魔女の手先)になるということだ。
「ま、俺は不味いから吐き出される自信あるけどな!」
真人はすぐにいつものおちゃらけた顔に戻り、パンの最後の一欠片を放り込んだ。
喉仏が動き、何かを飲み下す音が聞こえた。
その時。校内放送のスピーカーから、ノイズ混じりの「下校の音楽(ドヴォルザークの『家路』)」が流れ始めた。
もの悲しいメロディ。
それは、「今日の飼育時間は終わりです。速やかに檻(家)へ帰りなさい」という命令だ。
「帰ろう」
僕は立ち上がり、パンの包装紙を握りつぶした。
「でも、覚えとけよ。僕たちはヘンゼルとグレーテルじゃない」
僕はニヤリと笑ってみせた。十七歳の虚勢を張り詰めて。
「魔女を釜戸に突き落として、お菓子を奪い尽くしてやる。それが世界征服部の活動指針だ」
アゲハが「また言ってる」と呆れ、壱が「兄さん、顔にソースついてる」と冷静に指摘し、真人が「へいへい、元帥閣下」と敬礼する。
僕たちは屋上の鉄扉をくぐる。その背中には、目に見えないバーコードが、夕日を受けて赤く焼き付いていることも知らずに。
階段を降りる途中、壱が僕の耳元で囁いた。
「……兄さん。ヘンゼルとグレーテルには、続きがあるの知ってる?」
「続き?」
「魔女を殺した後、二人は家に帰るけど……森の中で、白い鳥に導かれるんだ」
「白い鳥?」
「うん。……でもね、この学校には白い鳥なんていない。いるのは、黒いカラスだけだよ」
壱が指差した窓の外。電線の上で、一羽のカラスが、ゴミ袋を食い破っているのが見えた。
黒い嘴(くちばし)が、半透明の袋を引き裂く。
そこからこぼれ落ちたボロ布の色は――佐藤くんが着ていたジャージの色と同じ、青色だった。
僕は喉が詰まるのを感じ、慌てて目を逸らした。
キーンコーン……。チャイムの音が、水底に沈む泡のように重苦しく響いた。
5時間目、教室の空気は腐った沼のように澱んでいた。
昼食後の眠気、チョークの粉塵、そして三十人の生徒が吐き出す生ぬるい二酸化炭素。それらが混ざり合い、出口のない窪みに溜まった汚水のように僕たちを浸している。
ズルッ、ズルッ。湿った音が近づいてくる。引き戸が開き、黒楠(くろぬす)が入ってきた。苔のような色のスーツ。極度の猫背。
彼は教壇に立つと、分厚い出席簿を「ドサッ」と置いた。その重たい音は、まるで岩屋の入り口を巨大な岩で塞いだ時の音のように聞こえた。
「今日は、管理社会における『個』の摩耗について話します」
黒楠の声は低く、粘ついていた。黒板に文字を書く背中が、どこかヌルリとして見える。
「いいですか。諸君は『成長』こそが善だと教わってきたはずだ。知識を蓄え、常識を身につけ、身体を大きくし、立派な大人になること。……だが」
黒楠は不意に手を止め、生徒たちを見渡した。その目は、ガラス越しの爬虫類のように感情が読み取れない。
「もし、成長しすぎたせいで、自分が棲んでいる穴から出られなくなったとしたら、どうしますか?」
教室が静まり返った。
誰も答えられない。意味が分からないからだ。
けれど、僕の背筋には冷たいものが走っていた。知っている。狭い岩屋の中で、外に出ることを夢見ながら、結局は体が大きくなりすぎて出られなくなり、苔蒸した暗闇で一生を終える、哀れな両生類を。
「知識とは脂肪です。常識とは贅肉です。君たちはこの四角い箱の中で、毎日毎日、教科書というエサを与えられ、肥え太っている。気づいていますか? 君たちの頭蓋骨は、入学した時よりも肥大化している。もう、この教室のドアを通るには大きすぎるのですよ」
黒楠はニタリと笑った。
「外の世界――『現実』に戻るには手遅れだ。君たちは一生、このシステムの内部から、狭くなった出口を眺めて嘆くことになる。……もっとも、住めば都と言いますがね」
吐き気がした。
彼は知っている。僕たちが「外」に出ようとしていることを。
そしてあざ笑っているのだ。『お前たちはもう、ここから出られないほど太らされた家畜だ』と。
(……ふざけるな)
息苦しい。肺の中までチョークの粉が詰まりそうだ。
この閉塞感を、このカビ臭い岩屋を、粉々に吹き飛ばしてやりたい。
僕はポケットに手を入れた。
指先に触れたのは、購買で買ったばかりの黄色い蛍光ペンだった。
紡錘形の、安っぽいプラスチックの塊。けれど、その鮮やかな黄色(レモン・イエロー)だけが、この灰色の教室で唯一、生きている色彩に見えた。
もし。もしも今、これを「爆弾」に見立てて、教壇の上に置いてきたらどうなるだろう?この鬱屈した空間が、退屈な授業が、木っ端微塵に吹き飛ぶうんざりするような想像。その破壊のイメージだけが、僕の呼吸を繋ぎ止めていた。
「……ねえ、兄さん」
隣の席の壱が、教科書の端に落書きをしながら囁いた。
描かれているのは、大時計と、それを飲み込もうとする老人の絵。
「先生の影、変だよ」
「影?」
「うん。人の形をしてない。……何かを刈り取る道具を持ってる」
僕は床を見た。
西日が教壇を照らし、黒楠の影が長く伸びている。
歪んだ影は、確かに巨大な刃物を振り上げている――自らの子供を食い殺した、神のようにも見えた。
「数宮歩夢くん」
唐突に名前を呼ばれた。顔を上げると、黒楠が目の前に立っていた。古本屋の奥の匂いと、防腐剤(ホルマリン)の匂いがした。
「君の目は、よく泳いでいるね。まるで狭い水槽に閉じ込められたメダカのようだ」
彼の視線が、僕のポケット――黄色いペンを握りしめている手――に注がれた気がした。
「放課後、生徒指導室に来なさい。弟くんと、そこの……派手な友人たちも連れて。君たちには少し、『剪定(せんてい)』が必要なようだ」
キーンコーン……。終業のチャイムが鳴った。
それは授業の終わりを告げる音ではなく、岩屋の入り口が完全に塞がれ、二度と出られなくなったことを告げる、審判の音のように聞こえた。
黒楠は教室を出て行った。
その背中には、値札も、バーコードもなかった。彼は「商品」ではない。 彼は、この養殖場を管理する側の人間――「飼育員」だったのだ。
「……行こうぜ、元帥」
真人が立ち上がり、自分のポケットの中で何か硬いものを握りしめた。
その顔からは笑みが消え、代わりに、これまで見たこともないような冷たい殺気が張り付いていた。
「あいつはヤバい。……俺の『嘘』が反応しっぱなしだ」
「どういうことだ?」
「あいつの存在そのものが、巨大なフェイクなんだよ。まるで、歴史の教科書の黒塗り部分が、服を着て歩いてるみたいにな」
アゲハが不安そうに僕の袖を掴む。壱が無言で立ち上がる。
僕はポケットの中の黄色いペンを、お守りのように強く握り直した。これは爆弾じゃない。ただの文房具だ。
でも、僕たちの心まで、あの岩屋の中に閉じ込められてたまるか。
僕たちは生徒指導室へ向かう。そこは、この学校という監獄の、最も深い場所にある「処刑場」だ。
生徒指導室のドアは、分厚い防音仕様だった。
ノブを回して中に入ると、そこは外界から切り離された「真空の箱」だった。
窓がない。
代わりに、四方の壁が黒い背表紙の本で埋め尽くされている。『卒業アルバム』だ。
昭和、平成、令和。何千、何万という「かつての生徒たち」の笑顔が、防虫剤(ナフタリン)の匂いと共に、ホルマリン漬けの標本のように棚に収められている。ここは指導室じゃない。霊廟(れいびょう)だ。
「座りなさい」
部屋の中央、執務机の向こうで黒楠が言った。
机の上には、オイルライターと、一冊の青い手帳が置かれている。
見覚えがある。
今日消えたはずの、佐藤くんの生徒手帳だ。
僕たちはパイプ椅子に座った。真人が一番端で、貧乏ゆすりをしている。その振動が、隣に座る僕の太ももにまで伝わってくる。モールス信号のような、絶え間ないSOSの震え。
「さて。単刀直入に言いましょう」
黒楠は、オイルライターを手に取った。
カキン、という硬質な音が響く。シュボッ。オレンジ色の炎が揺らめく。
「君たちは『特別』だ」
彼はその炎を、佐藤くんの生徒手帳に近づけた。ビニールの表紙が熱で縮れ、髪の毛が燃えるような嫌な臭いを放ちながら溶け始める。
「他の生徒たちは、ただの枝葉に過ぎない。太陽(システム)の方角も分からず、無秩序に伸びて、美観を損ねる雑草だ。だから、こうして剪定しなければならない」
黒楠は、燃え上がる手帳を無造作に灰皿へ落とした。
佐藤くんの顔写真が、黒く焦げて炭になっていく。彼の存在が、物理的にこの世から消滅していく。もう誰も、彼を思い出すことはできない。
アゲハが「ひっ」と声を上げて口元を押さえた。
「だが、君たちは違う。君たちには『見る目』がある。この世界の綻び(バグ)に気づき、ここまで辿り着く知性がある」
黒楠は身を乗り出した。
爬虫類のような、冷たく湿った瞳が、僕たち一人一人の顔を舐め回す。
「どうだね。こちらの側(サイド)に来ないか?」
悪魔の誘惑だった 黒楠は机の引き出しを開け、三つの真新しい「腕章」**を取り出した。
そこには『風紀委員』でも『生徒会』でもなく、見たこともない紋章――ハサミと蛇が絡み合うマークが刺繍されている。
「管理する側に回るのです。枝として切られるのではなく、鋏(ハサミ)を持つ庭師になりなさい。そうすれば、君たちの『価値』は保証される。未来永劫、システムの中で特権階級として生きることができる。……ねえ、そうだろう? 真人くん」
心臓が止まるかと思った。黒楠の視線が、僕を通り越し、端に座る真人に向けられていた。
「な……」
僕が隣を見ると、真人は俯いていた。いつものおちゃらけた態度はどこにもない。彼は膝の上で、拳を握りしめて震えていた。その拳の隙間から、彼が隠し持っていたはずの「生徒手帳」の端が見えた。
色は、赤。……違う。佐藤くんの手帳は青だ。あれは、先月「転校」したはずの、別の女子生徒の手帳だ。
彼が既に、それを「処理(焼却)」するために持たされているとしたら?
「おい、真人。……どういうことだ?」
僕の声が震えた。
真人は答えない。
ただ、顔を歪めて痛みに耐えている。
ここで「俺は知らない」と言えば嘘になる。嘘をつけば激痛が走る。だから彼は、沈黙という名の自白を選んだのだ。
「彼は優秀ですよ」
黒楠が愉しげに笑った。
「既にいくつかの『剪定』を手伝ってもらっている。嘘がつけないという呪いは、誠実な庭師であるためには最高の資質ですからね」
黒楠は再び僕を見た。その指先には、まだ燃え残っている佐藤くんの手帳の灰がこびりついている。
「さあ、数宮歩夢くん。君も鋏を持ちなさい。それが『大人になる』ということです。社会の仕組みを理解し、秩序を守るために、心を殺して泥を被る。それが成長だ」
教室の空気が圧縮される。壁に並んだ数万人の卒業生たちの視線が、僕に突き刺さる。
『こっちに来い』『楽になれるぞ』『大人になれ』死者たちの声が聞こえる。
僕は想像する。
この腕章をつけて、真人と肩を並べ、生徒たちの「バグ」を処理して回る未来を。
それは安定した未来だ。
佐藤くんのように消される恐怖に怯えなくて済む。
壱を守ることができる。アゲハを高く飛ばせてやれる。
……いや、違う。
そんなのは未来じゃない。
それはただの、死ぬまでの長い暇つぶしだ。
僕は立ち上がった。
ポケットの中の黄色い蛍光ペンを握りしめる。これは爆弾だ。僕の魂を吹き飛ばそうとする、このクソみたいな空気への対抗手段だ。
「断る」
僕の声は、自分が思っていたよりも低く、響いた。
「大人になるってのが、友達を灰にして、それを踏みつけて歩くことなら……僕は一生、子供のままでいい」
「ほう。永遠のピーターパン気取りですか。だが、時は止まらない。君もいずれ成長し、岩屋から出られなくなる」
「いいや、出ないね」
僕は黒楠を睨みつけた。
その巨大な「クロノス(時間)」の影に向かって、十七歳の僕は宣戦布告した。
「出口が塞がってるなら、入り口から帰ってやる。お前たちが作ったレールの上なんて歩かない。前へ進むことが『服従』なら……僕たちは、逆へ進む」
言ってやった。僕はポケットから蛍光ペンを抜き出し、黒楠の目の前――机の上に叩きつけた。
カァン! と乾いた音が、静寂を切り裂いた。黄色い爆弾が、灰皿の横で鮮やかに転がる。爆発はしなかった。けれど、僕たちの心の中で、何かが確実に弾けた。
壱が顔を上げ、驚いたように僕を見ている。アゲハが息を呑む。そして真人だけが、悲しそうな、それでいてどこか安心したような目で僕を見ていた。
黒楠の表情から、笑みが消えた。爬虫類の目が、氷点下の温度を帯びる。
「……後悔しますよ。逆流する鮭は、川の流れに砕かれて死ぬだけだ」 「上等だ。缶詰にされるよりはマシだろ」
僕は机の上の腕章を払い落とした。そして、真人の腕を強引に掴んで立たせた。
「行くぞ、真人。お前もだ」
「……歩夢」
「お前がどっち側に足を突っ込んでるかなんて知るか。でも、今は僕の部員だ。勝手な就職活動は認めない」
僕は三人を連れて、ドアを蹴り開けた。
背後で、黒楠が低く笑う声が聞こえた気がした。あるいはそれは、鎌を研ぐ音だったのかもしれない。
廊下に出ると、窓の外はもう夜だった。建設中のバベルの塔が、赤い光を放って僕たちを見下ろしている。
僕たちは走り出した。順路(ルート)通りに進むベルトコンベアの上を、逆走し始めたのだ。
文化祭とは、システムが認可した「ガス抜き」のための暴動だ。
校舎は極彩色のゴミで埋め尽くされていた。
廊下にはビニールテープで作られた虹がかかり、教室はダンボールの迷路になり、生徒たちは安っぽいポリエステルの衣装をまとって、何者かのフリをして練り歩く。
非日常?
笑わせるな。これは「自由」のパロディだ。
『今日だけは騒いでいいですよ』という許可証を与えられ、檻の中で踊らされている猿の宴。
だが、僕たち世界征服部にとって、これは最初で最後の「革命」の舞台だった。
午後一時。全校生徒が体育館でのステージ発表に熱狂している隙をつき、僕たちは放送室の前にいた。
「……警備システム、ダウン。ループ映像に差し替えた」
真人がスマホを操作しながら言った。
彼の手際はプロのハッカーみたいだった。あるいは、最初から裏口(バックドア)を知っていたかのように。壱が目を閉じて、廊下の空気を吸い込む。
「大丈夫。あと十分間、誰も来ない。先生たちは体育館で『優良家畜の品評会(ミスコン)』に夢中だ」
「よし」
僕は放送室のドアを開けた。
無人だった。目の前には、巨大なコンソールと、一本のマイク。それは、全校生徒二千人の意識をジャックできる、王の杖だった。
「アゲハ、外の見張り頼む。壱はタイムキーパー。真人は回線の維持」
「ラジャー、元帥」
僕はマイクの前に座り、スイッチを入れる。
赤色の「ON AIR」ランプが灯る。それが、僕たちの処刑台のランプだとも知らずに。
吸い込んだ空気が、肺の中で熱くなる。言いたいことは山ほどあった。
消えた佐藤くんのこと。黒楠という教師の正体。この学校が、人間を部品に加工する工場であるという真実。
そして何より、「こんな世界に従うな」という叫び。
僕は口を開いた。
『――テステス。あー、聞こえるか、愚民ども』
スピーカーを通した僕の声が、校舎中に響き渡るのを幻視する。
体育館の歓声が止まり、全員が天井を見上げる光景を想像する。
『僕は世界征服部の数宮歩夢。今から、この学校の欺瞞(ぎまん)を暴く』
僕は語り始めた。
佐藤くんの机に残されたメモの内容。黒楠が語った「剪定」の意味。
言葉は次々と溢れ出てきた。 自分が独裁者であるかのような演説に熱く、理路整然と、真実を突きつける。僕の声は、システムへの宣戦布告となり、生徒たちの目を覚まさせるはずだった。
『目を覚ませ! お前たちは家畜じゃない! 僕たちは自由だ! レールの上を歩くな、逆へ進め!』
五分間の演説。我ながら完璧だった。
僕はすべてを吐き出し、肩で息をした。隣で真人が親指を立てている。壱も小さく頷いた。やった。届いたはずだ。
「……撤収! 黒楠が来る前にずらかるぞ!」
僕たちは放送室を飛び出した。
心臓が高鳴っていた。
これから校庭に出れば、生徒たちは騒然としているはずだ。「今の放送は何だ」「学校は何を隠しているんだ」と。
革命が始まる。僕たちが火をつけたんだ。
だが。廊下を走ってグラウンドに出た僕たちを待っていたのは、津波のような「爆笑」だった。
「あはははは! 何あれ、超ウケる!」
「中二病こじらせすぎだろ!」 「『愚民ども』だってさ! 何様だよ!」
グラウンドに集まった生徒たちは、僕たちを見て指差し、腹を抱えて笑っていた。
恐怖も、怒りも、覚醒もない。
あるのは、道化を見るような残酷な嘲笑だけ。
「……は?」
僕は呆然と立ち尽くした。頭上の屋外スピーカーから、まだ放送の続きが流れていた。
『――ボクはセカイセイフクブの王様だぞぉ~! 逆へ進めぇ~! ぱんぱかぱーん!』
耳を疑った。
それは僕の声だった。
だが、ピッチ(音程)がおかしい。
まるでヘリウムガスを吸ったアヒルのような、間抜けな甲高い声に加工されている。
さらに、背景にはコミカルなBGM――サーカスでピエロが登場する時のあの曲――が大音量で流されていた。
僕の悲痛な叫びは、文脈をズタズタに切り取られ、継ぎ接ぎされ、「痛い妄想癖のある生徒のパフォーマンステスト」へとリアルタイム編集されていたのだ。
『目を覚ませ! ボクは家畜じゃない、神様なんだもんね~!』
スピーカーから流れる自分の声が、僕の尊厳を公開処刑していく。言葉の意味が剥ぎ取られ、ただの「音」として消費されている。
「リアルタイムで、音声を書き換えられた。……兄さんの言葉、一文字も届いてない」
僕は放送室の方角を振り返った。
校舎の三階。窓ガラスの向こう。
黒楠先生が立っていた。彼は放送機材なんて触っていない。ただ、腕を組んでこちらを見下ろしているだけだ。
だが、その口元は三日月形に歪んでいる。
『言っただろう。歴史とは編集されるものだと』
そんな声が聞こえた気がした。
彼は僕たちの行動を止める必要なんてなかった。ただ、「真実」を「コメディ」というフィルターに通して出力すればいいだけだったのだ。
現代において、真実を殺すのに検閲はいらない。「ネタとして消費させる」だけで、大衆は勝手に耳を塞いでくれる。
「おい見ろよ、あれが『王様』だぜ!」
「サインくださーい!」
「写真撮ろうぜ、記念に!」
ポップコーンや空き缶を持った生徒たちが、ニヤニヤしながら僕たちを取り囲む。
フラッシュが焚かれる。
僕は、見世物小屋の怪物だった。握りしめた拳が、行き場を失って震えている。
違う。僕はこんなことのために……。
「……笑って」
隣でアゲハが小声で言った。顔面蒼白で、ガタガタ震えながら。
「笑ってよ、歩夢。……怒ったら、もっと惨めになる。笑って、ネタにするしかないの」
彼女はプロだった。
瞬時に「イタいキャラ」を演じ、ピースサインを作ってカメラに向かった。 その笑顔は、能面のように張り付いていた。
そうしなければ、精神が崩壊すると知っているからだ。僕は笑えなかった。 ただ、足元の泥を見つめることしかできなかった。
祭りの後。グラウンドの中央には、巨大なキャンプファイヤーが組まれていた。
廃材で作られた井桁(いげた)が、夜空に向かって轟々と炎を上げている。生徒たちは炎を囲んでフォークダンスを踊っている。
男女が手を取り合い、笑い合い、システムの中でつがいを見つけるための求愛ダンス。
僕たち4人は、その輪から遠く離れた、体育館の裏にいた。誰も僕たちを誘わない。
僕たちは「バグ」だ。関わると痛い目を見る、クラスの腫れ物。炎の明かりが、僕たちの影を長く、黒く伸ばしている。
「……綺麗だね」
壱が、揺らめく炎を見つめて言った。 の瞳に映っているのは、キャンプファイヤーの火ではない。
もっと巨大な、何かを焼き尽くす業火の予知夢だ。
「あれは、異物を焼き切る火だ」
僕は膝を抱えて呟いた。
「僕たちは焼かれたんだ。社会的に抹殺された。もう誰も、僕たちの言葉なんて信じない」
真人は壁に寄りかかり、タバコのようにポッキーをふかしていた。
「ま、派手に散ったじゃん。伝説にはなれたぜ? 『放送室の乱』としてな」
彼は軽口を叩いたが、その横顔は酷く暗かった。
彼だけは知っていたはずだ。黒楠が待ち構えていたことを。それでも彼は、僕たちを止めなかった。あるいは、止められなかったのか。
パチパチと、火の粉が舞い上がる。
その火の粉を見ていると、僕の意識がふと、遠い過去へと引き戻される感覚に襲われた。
五年前。十二歳の夜。雨の音。雷鳴。そして、僕の手の中で冷たく光っていた、銀色のハサミ。
(……あの時。あの時、僕が壱を殺していれば)
不意に、そんな思考が脳裏をよぎった。
もし壱がいなければ、僕はこんな「特別」な運命を背負うこともなく、あそこでフォークダンスを踊っている「普通」の生徒になれたんじゃないか?黒楠に目をつけられることも、笑い者になることもなく。
そのドス黒い思考は、キャンプファイヤーの熱と共に、僕の心の奥底からヘドロのように湧き上がってきた。
「兄さん?」
壱が不安そうに僕の顔を覗き込んだ。僕は反射的に、弟から目を逸らした。 見られたくなかった。
今、僕が考えてしまった、醜悪な「殺意」の残滓(ざんし)を。
「……なんでもない。火が、眩しいだけだ」
僕は嘘をついた。そして気づく。僕たちは、逆へ進むと宣言したけれど。 その逆流の先にあるのは、希望の源流なんかじゃない。
僕がかつて封印したはずの、「罪の源流(オリジン)」なのだと。
バチッ。炎が爆ぜた。その音は、僕の記憶の蓋をこじ開けるノックの音のように聞こえた。
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