第2話 執行猶予の灰

 吐き気がするほどの「白」だった。世界が清潔であればあるほど、僕の胃袋は拒絶反応で痙攣する。

 レンガ造りの正門をくぐる瞬間、僕は無意識に息を止めた。

 そこは巨大な屠殺場(とさつじょう)の入り口だ。目に見えないレーザーが、登校する学生たちの全身を舐め回す。背中に貼り付いた「社会的価値(スコア)」を読み取り、優秀な家畜と、そうでない廃棄予備軍を選別していく幻聴が聞こえる。ピッ、ピッ、と。僕たちの皮膚の上を、赤い光が這いずり回る感触。虫が這うようで、むず痒くてたまらない。爪を立てて、この肉ごと値札を剥ぎ取ってしまいたい衝動を、僕はポケットの中で拳を握ることで抑え込んだ。

 「……うるさい」

 隣を歩く弟の壱(いつ)が、呻くように言った。フードを目深に被り、肩を震わせている。彼が耳に当てているノイズキャンセリングヘッドホンは、音楽を聴くためのものじゃない。そうでもしないと、すれ違う学生たちの「未来」が、汚水の濁流となって鼓膜を突き破ってくるからだ。壱にとって、この美しいキャンパスは、断末魔が響き渡る処刑場に等しい。

 「我慢しろ。あと九十分だ」

 僕は努めて冷静な声を出す。本当は、今すぐ弟の手を引いて回れ右をしたかった。

 「九十分あれば、世界は三回くらい滅びるよ……」

 「滅びないさ。このクソみたいな世界は、ゴキブリ並みにしぶとい」

 軽口を叩きながら、壱の背中を支える。服越しに伝わる弟の体温が、ひどく低い。その冷たさが、僕の心臓を鷲掴みにする。――守らなきゃいけない。  この震える小さな生き物を、システムから、未来から、絶望から。たとえそれが、未来で僕自身が彼を殺すことにつながる道だとしても。

 大講義室に入ると、澱んだ空気が肺を満たした。五百人は座れる階段教室。教壇では、初老の教授がマイクに向かって何かをボソボソと喋っている。教授の口から吐き出された言葉――「市場原理」「損益分岐点」「人的資本」――は、黒いヘドロとなって床に滴り落ちていた。

 最前列の真面目な学生たちが、その汚泥を有り難がってノートに書き写している。足元までヘドロに浸かり、窒息しかけていることに気づきもしないで。

 僕たちは逃げるように、一番後ろの席に陣取った。壱はすぐに机に突っ伏した。限界だったのだろう。僕は頬杖をつき、弟の寝顔を見下ろす。長い睫毛。色素の薄い髪。無防備な首筋を見ていると、ふと、右手に「あの感触」が蘇る。ナイフを突き立てた時の、肉を裂く感触。温かい血のぬめり。僕は慌てて右手を太ももに擦り付けた。

 まだ何も起きていない。ここは二十歳の冬だ。なのに、指先が勝手に震え出す。

 怖い。

 この平穏な時間が、砂時計のようにサラサラとこぼれ落ちていくのが、怖くてたまらない。

 「……臭い」

 ふと、壱が顔を上げずに呟いた。

 「今度は何だ?」

 「焦げ臭いんだ。前の席の人の、心が摩擦で燃えてる匂いがする」

  壱が指差した先には、一人の男子学生の背中があった。

 パリッとしたシャツ。整えられた髪。机の上には六色の蛍光ペン。高階(たかしな)だ。

 彼からは、確かに何かが焦げ付くような嫌な臭いが漂っていた。

 魂を燃料にして、無理やりエンジンを回している匂いだ。

 優秀な家畜。システムが生み出した成功例。

 僕は彼を睨みつけた。見下しているんじゃない。妬ましいのだ。何も知らず、疑わず、ただレールの上を走れるその「鈍感さ」が、どうしようもなく羨ましくて、憎い。

 「放っておけ。あいつは優秀な燃料なんだろ」

 僕は吐き捨てるように言った。

 「燃え尽きちゃうよ。……来月の三日、彼は」

 「やめろ!」

 僕は思わず声を荒らげ、壱の口を掌で塞いだ。

 周囲の学生が何人かこちらを振り返る。僕は睨み返して黙らせた。

 壱が驚いたように僕を見上げる。

 「……ごめん。大きい声出して」

 僕は震える手で、弟の口から手を離した。

 「未来の話は厳禁だ。……それを口にしても、お前が傷つくだけだ」

 壱は悲しげに目を伏せ、また机に突っ伏した。

 僕はため息をつき、窓の外を見る。鉛色の空に、建設中のタワーが突き刺さっている。

 あの塔が完成すれば、僕たちの居場所は完全になくなる。

 焦りばかりが募る。心臓が早鐘を打っている。

 平気な顔をしろ。余裕ぶれ。

 弟の前でだけは、完璧な兄でいろ。

 僕は冷や汗を拭い、ポケットの中で震えるスマホを握りしめた。

 通知が来ている。真人からだ。

 『今、学食。ヤバいもん見つけた。至急、救援求む』

 その馬鹿みたいな文面に、僕は少しだけ救われた気がした。


 学食は、講義室とは別の種類の地獄だった。数百匹の学生が発する咀嚼音、食器がぶつかる金属音、そして意味のない会話の奔流。それらが換気扇の轟音と混ざり合い、巨大なノイズの塊となって鼓膜を圧迫する。

 空気は、劣化した揚げ油と、煮詰まった豚骨スープの湿気で白く濁っていた。

 壱がさらに深くフードを被り、僕の袖をギュッと握る。まるで深海に潜るダイバーのように、彼は息を詰めていた。

「こっちだ」

 僕は人波をかき分け、窓際の席を目指した。そこに、異様なオーラを放つ一角があった。

「おーい! ここここ! 救世主アユム様、ご到着ー!」

 大袈裟に手を振っている男がいる。派手なブリーチ髪に、安っぽいピアスの数々。口元にはふざけた笑みを貼り付けた男、真人(マヒト)だ。そしてその向かいには、まるでそこだけ女優用の照明機材が持ち込まれているかのように発光している少女――アゲハが座っていた。

 「遅いよ歩夢。私のパスタ、もう伸びちゃった」

 アゲハがフォークで麺を持ち上げて見せる。彼女の周りには、微粒子のような光が舞っていた。能力『虚像投影』の余波だ。スマホの画面越しに見る彼女は絶世の美少女だが、肉眼で見ると、その輪郭は時折テレビの砂嵐のようにザラついて見える。

 「で、SOSってのは何だ。また単位が足りないとか、そういうオチか?」

 僕は壱を隣に座らせながら、真人に聞いた。真人は「ノンノン」と人差し指を振り、テーブルの上に置かれた物体を指差した。期間限定の激辛麻婆豆腐定食だった。真っ赤なマグマのような液体が、プラスチックの器で煮えたぎっている。

 「罰ゲームで負けてさあ。これ完食しないといけないんだけど、俺、辛いの食べると死ぬ病気なんだわ」

 「嘘をつけ」

 「――ぐ、ぅっ……!」

 真人がこめかみを押さえて顔をしかめた。

 演技じゃない。本当に痛がっている。

 彼の能力『虚言検知』の代償――「自分が嘘をつくと身体に激痛が走る」。  つまり、彼は今、「辛いのが苦手」というどうでもいい嘘をついて、自傷したのだ。

 「学習しないな、お前も」

 「だってさあ、男には引けない戦いがあるわけよ。……あー、痛てて。口内炎にしみる」

 真人はヘラヘラと笑いながら、震える手でレンゲを口に運んだ。

 嘘つきのくせに、嘘がつけない男。

 その矛盾した生き方が、彼の日常だ。

 彼はいつだって、本音を隠すために、あえてバレバレの嘘をついて痛みを引き受ける。そうでもしないと、心が麻痺してしまうかのように。

 「……バカみたい」

 壱がボソリと言った。ヘッドホンを少しずらして、呆れたように真人を見ている。

 真人は「辛(から)っ! 辛(つら)っ!」と叫びながら水をガブ飲みしている。

 「ねえ歩夢、ちょっとどいて。ツーショット撮るから」

 アゲハがスマホを構えた。

 その瞬間、画面の中のアゲハの表情が、一瞬で「憂いのある文学少女」に切り替わった。現実の彼女は口元にミートソースの汚れをつけているのに、画面の中では完璧な女神が微笑んでいる。

 「今日のテーマは『退廃的なランチ』。……ねえ、壱くんも入ってよ。そのフード被ってる感じ、すごくミステリアスで映えるから」

 「やだ。魂が抜かれる」

 「古いよ発想が! 明治生まれ?」

 アゲハが笑う。カシャ、カシャ、と電子音が連続する。  彼女の背中には、他の学生よりも一際大きなタグが揺れている。

 《フォロワー数:24万人》《承認欲求飢餓状態:危険水域》

 彼女は撮った写真をものすごい速さで加工し、SNSにアップロードした。

 数秒後、彼女のスマホがブブブと震え出す。通知の嵐だ。

 「かわいい!」「天使!」「隣の男誰?」――無数のコメントが滝のように流れていく。  アゲハはその画面を見つめながら、恍惚とした表情を浮かべた。  それはまるで、腕に注射針を刺した薬物中毒者の表情だった。


「……あー、生きてるって感じ」


 彼女は深いため息をついた。  その横顔が、ふと、死人のように蒼白に見えた。  僕の胃袋の中で、予感という名の鉛が重く沈んだ。

 彼女は、消費されている。 自分自身を切り売りして、デジタルの海に餌として撒いている。

 いつか、骨まで喰い尽くされる日が来る。あるいは、自分で自分を食い潰すか。

 ――ガタン。

 突然、真人が椅子を蹴って立ち上がった。激辛麻婆豆腐を半分ほど食べたところで、額から大量の汗を流している。

「お、俺ちょっとトイレ。……尻から火を噴く予感がする」

 「汚いな。勝手に行けよ」

 「悪いな。……ああ、そうだ歩夢」

 去り際、真人がふと足を止めた。彼の背中越しに、一瞬だけ、鋭利な刃物のような視線が飛んできた。

 「さっき、外でお前のこと見てる奴がいたぜ。スーツ着た、目つきの悪い男」

 「……え?」

 「気をつけて帰れよ。――なんてな! 全部嘘でーす! ただの脅しでーす!」

 真人は大袈裟にウインクをして、今度こそ本当に腹を押さえて走り去っていった。

 「ぐあああっ! 痛てててて!」  店内に響き渡るほどの絶叫。

 僕は箸を止めた。  冷や汗が背筋を伝う。

 真人の能力は「嘘をつくと痛む」。

 彼は「全部嘘でーす」と言った直後に、絶叫した。

 つまり、「全部嘘」という言葉自体が、嘘だったのだ。

 二重否定(ダブル・ネガティブ)。

 結論は1つ。「本当に男がいた」。

 僕は周囲を見渡そうとして、止めた。下手に見回せば、気づいたことを相手に悟られる。

 隣で壱が、僕の袖をギュッと強く握りしめた。爪が食い込むほどの強さで。

 「……兄さん。やっぱり、臭うよ」

 「何がだ。麻婆豆腐の匂いか?」

 「焦げ臭い匂い。……さっきよりも、ずっと近くで燃えてる」

 学食の喧騒が、急に遠のいていくような気がした。

 

 学食を出ると、そこは冬の乾いた風が吹き荒れる中庭だった。空は相変わらず、鉛を溶かしたような重苦しい灰色をしている。

 真人は「腹が痛い」と言い残して消えた。おそらく、僕たちと距離を取ることで、監視役(スーツの男)の目を自分に引きつけるつもりなのだろう。あいつはいつだって、ピエロの化粧の下で血を流している。

 「……ねえ、歩夢。ちょっと寄り道しない?」

 アゲハが言った。彼女はスマホをポケットにしまい、どこか虚ろな目で校舎の屋上を見上げていた。

 「次の講義サボるの? 優等生の君にしては珍しい」

 「優等生? 私が?」

 アゲハは鼻で笑った。

 「それは『フォロワーが見ている私』でしょ。今の私は、充電切れのただのガラクタ」

 彼女はそう言うと、制服のポケットから小さな箱を取り出した。タバコではない。スティック状の電子アロマだ。けれど、そのパッケージにはレトロな「マッチ」の絵が描かれている。彼女がそれを口にくわえ、先端をカチリと指で弾くと、ポッと小さな赤い火が灯った――ように見えた。

 もちろん、それはLEDの疑似的な光だ。熱くもない。何も燃やさない。ただ燃えている「ふり」をするだけの、冷たい灯火。

 彼女は深く息を吸い込み、そして長く、細く、紫色の煙を吐き出した。

 甘ったるい、合成ブルーベリーの匂いがした。  **安っぽい、**現実逃避の匂いだ。

 「屋上、行こ。高いところに行きたい気分なの」

 僕たちは彼女に従った。

 壱は何も言わずに僕の服の裾を掴んでついてくる。彼もまた、アゲハの背中に揺れる「死の予兆」を感じ取っているのかもしれない。

 屋上への階段は、螺旋状にねじれていた。

 壁には歴代の卒業生たちが残した落書きが無数に刻まれている。《世界なんて滅びろ》《就職おめでとう》《愛してる》《殺してやる》――若者たちの怨嗟と希望がミルフィーユのように積み重なり、ドロドロとした模様を描いている。

 まるで、言葉が通じなくなった古代の塔の内部みたいだ。

 重い鉄扉を開けると、強風が僕たちの頬を叩いた。

 フェンス越しの景色。

 灰色の街並みが、墓標のように広がっている。そして、その中心に、異様な存在感を放つ「それ」があった。

 建設中の巨大電波塔。  雲を突き破り、天へと伸びる黒鉄の針。クレーンが無数に取り付き、赤い航空障害灯が心臓の鼓動のように明滅している。

 「……バベルだ」

 僕が呟くと、アゲハがフェンスに指をかけたまま振り返った。

 「バベル?」

 「旧約聖書に出てくる塔だよ。人間が神様に近づこうとして高い塔を作ったら、神様の怒りに触れて言葉をバラバラにされたっていう話」

 「ふうん。……神様って心が狭いね」

 アゲハは紫色の煙を吐き出しながら、その塔を見つめた。彼女の瞳の中で、塔の赤い光が反射している。

 「でも、分かる気がするな。人間ってさ、地面を這いつくばるように作られてるじゃない? なのに、どうしても空を見上げちゃう。バカだよね」

 彼女は自嘲気味に笑った。その笑顔には、いつもの完璧なフィルターはかかっていない。目の下のクマ。乾燥してひび割れた唇。そして、恐怖に強張った頬の筋肉。

 それが、彼女の「素顔」だった。

 「私ね、最近思うの。私のこの羽……フォロワーとか、人気とか、そういうの全部、蝋(ロウ)でできてるんじゃないかって」

 イカロス。僕はとっさにその名を思い浮かべた。

 蝋で固めた翼で空を飛び、太陽に近づきすぎて墜落した少年。

 「高く飛べば飛ぶほど、みんなが褒めてくれる。もっと上へ、もっと輝いてって。……でもさ、太陽に近づいたら、溶けちゃうんだよ。熱くて、痛くて、ドロドロになって……最後は真っ逆さま」

 アゲハの声が震えていた。彼女はフェンスを強く握りしめた。錆びた金網が、彼女の白い指に赤茶色の痕をつける。

 「歩夢。私、落ちるのかな」

 問いかけられた言葉は、あまりにも重かった。僕は知っている。あと数日後、彼女があの塔から飛び降りることを。

 蝋の翼が溶けて、ただの肉塊となってアスファルトに叩きつけられる未来を。

 喉が渇いた。

 今、ここで彼女に「飛ぶのをやめろ」と言えば、未来は変わるのか?

 いや、ダメだ。

 ここで彼女を救えば、その代償の「因果」は壱に向かう。システムのエラー処理が、弟を標的にする。

 僕は選ばなければならない。この震える少女を見殺しにするか。それとも、弟を差し出すか。

 答えなんて、最初から決まっているくせに。

 僕は最低な人間だ。

 「……落ちないよ」

 僕は嘘をついた。真人のように激痛は走らない。けれど、心臓が腐り落ちるような不快感が胸に広がった。

 「お前は上手く飛んでる。みんなお前に憧れてるさ」

 それは、彼女を塔の頂上へと押し上げる、残酷なエールだった。  隣で、壱の肩がビクリと跳ねたのが分かった。  彼には分かったのだ。僕が今、アゲハの背中を押したことが。

 「そっか。……そうだよね」

 アゲハは安心したように笑った。

 そして、手に持っていた電子アロマを、フェンスの隙間から落とした。

 白いスティックがくるくると回転しながら、遥か下の地面へと吸い込まれていく。

 まるで、墜落する人間の予行演習のように。

 「ありがとう、歩夢。……優しいね、君は」

 彼女は言った。その言葉は、鋭利な刃物となって僕の良心を抉り取った。

 隣で、壱が僕の袖を限界まで強く握りしめていた。痛い。爪が肉に食い込んでいる。

 それは、共犯者の痛みだった。彼にも見えているのだろう。

 アゲハの背中に生えた、美しくも歪な蝋の翼が、今にもドロドロに溶け出そうとしている光景が。

 風が強くなった。

 建設中のバベルの塔から、カン、カン、という金属音が響いてくる。それはまるで、誰かが棺桶の蓋に釘を打つ音のように聞こえた。


 大学からの帰り道、空からは霙(みぞれ)が降り始めていた。アスファルトに落ちた瞬間、泥水となって靴底を濡らす、半端な雪だ。

 僕たちは傘を持っていなかった。壱は僕の背中に隠れるようにして歩き、僕はパーカーのフードを目深に被って、冷たい礫(つぶて)を受け止めた。

 僕たちが住んでいるアパート『コーポ・エデン』は、大学から徒歩二十分、川沿いの低地にあった。

 築四十年。外壁には枯れた蔦が毛細血管のようにびっしりと絡まり、鉄骨の階段は歩くたびにカンカンと、骨がきしむような頼りない音を立てる。ここは都市の吹き溜まりだ。システムから「価値なし」と判断された老人や、外国人労働者、そして僕たちのような貧乏学生が、肩を寄せ合うようにして生きている。

 「……ただいま」

 重い鉄のドアを開けると、湿ったカビと、誰かの夕飯の煮物の匂いがした。  ここが僕たちの世界のすべてであり、唯一の聖域(サンクチュアリ)だ。

 「寒いね、兄さん」

 「ああ。今日はとても冷えるな」

 壱が靴を脱ぎ捨て、すぐに部屋の真ん中にある炬燵(こたつ)に潜り込む。

 この炬燵も、粗大ゴミ置き場から拾ってきたものだ。天板には誰かがつけたタバコの焦げ跡があり、ヒーターからは時折ブーンと不穏な異音がする。

 僕は濡れたパーカーを脱ぎ、ハンガーにかけた。部屋の隅にあるテレビをつける。

 ブラウン管の画面が明滅し、ノイズ混じりのニュースキャスターの作り笑顔が映し出された。

 『――本日も、建設中の新電波塔周辺では、大規模な反対デモが行われています。市民団体は「監視社会の強化に繋がる」として……』

 画面には、あのバベルの塔と、その足元で蟻のように蠢くプラカードを持った人々が映っている。

 僕は舌打ちをしてチャンネルを変えた。バラエティ番組。芸人が熱湯風呂に入って笑いを取っている。

 平和な世の中だ。

 外の世界で誰が死のうと、どれだけ塔が高くなろうと、この六畳間には関係ない。そう思いたかった。

 「今日の夕飯は何にするかな~」

 僕は冷蔵庫を開けた。中は寂しいものだった。卵が二個、萎びたキャベツ、賞味期限切れの納豆。そして、業務用スーパーで買った徳用ウインナー。

 「……炒飯(チャーハン)かな」

 壱が炬燵から顔だけ出して言った。

 「なんで分かった?」

 「匂いがしたから」

 「まだ作ってないぞ」

 「ううん。……未来の匂い」

 壱が悪戯っぽく笑った。

 その笑顔を見ると、胸が締め付けられる。

 彼は知っているのだ。

 僕がこれから卵とウインナーを取り出し、冷やご飯と一緒にフライパンで炒めることを。五分後に皿に盛られ、十分後に二人で「いただきます」と言う未来を。

 それは些細な予知だ。

 世界を揺るがすような大予言じゃない。

 けれど、このささやかな「確定未来」こそが、僕たちが必死で守ろうとしている幸福の正体だった。

 「ネタバレすんなよ。料理の作り甲斐がないだろ」

 「ごめん。でも、すごく美味しい匂いだよ」

 僕は苦笑して、フライパンを火にかけた。油が跳ねる音。ジュウ、という音が部屋に響く。換気扇がカタカタと回り出し、炒めた卵の香ばしい匂いが漂い始める。

 この音と匂いが結界となって、外の寒さと理不尽を遮断してくれている気がした。

 アゲハの背中を押した罪悪感は、まだ指先に残っていた。

 真人の警告も、耳に残っていた。けれど、今だけは。このフライパンを振っている時間だけは、僕はただの「兄」でいられた。

 「兄さん、卵の殻、入ったよ」

 「……見てたのか?」

 「ううん。ジャリッていう未来の音が聞こえた」

 「お前の能力、もっとマシなことに使えないのかよ」

 僕は箸で小さな殻を取り除きながら、わざとらしく嘆息した。

 壱がケラケラと笑う。その笑い声を聞くためなら、僕は悪魔に魂を売ることだってできる。

 いや、もう売ってしまったんだったな。

 窓の外では、霙が本降りの雪に変わろうとしていた。世界は白く塗りつぶされていく。

 僕たちの罪も、明日への不安も、すべて覆い隠すように。だが、僕たちは知らなかった。この温かい炬燵のある部屋にすら、既に「終わり」のカウントダウンが忍び寄っていることを。

 テレビのバラエティ番組が終わり、CMに入る。  軽快で、不自然に明るい電子音が流れた。人気インフルエンサー・アゲハが出演する、新電波塔のプロモーション映像だった。

『未来へ、もっと高く。あなたの可能性をアップデート』

 画面の中のアゲハは、背中に真っ白なCGの翼を生やして、空を飛んでいた。その笑顔は、どこまでも明るく、残酷なほどに美しかった。蝋で固められた、偽物の天使。

 壱の笑い声が、ピタリと止まった。僕の手が止まる。ジュウウ、とフライパンの上で炒飯が悲鳴を上げる。ほんの少しだけ、焦げ付いた匂いが部屋に広がった。


 その「予兆」は、腐った卵のような硫黄の臭いと共にやってきた。  あの日から三日が過ぎていた。

 僕と壱は、駅前の雑踏の中にいた。

 週末の夜。街は、一週間の労働という懲役を終えた囚人(サラリーマン)たちと、それを慰めるための安酒とネオン、そして行き場のない欲望の熱気で溢れ返っていた。

 「……う、ぐ……ッ」

 突然、隣を歩いていた壱が口元を押さえ、その場にうずくまった。フードの下の顔が蒼白だ。いつもの「車酔い」のような状態じゃない。もっと強烈な、劇薬を飲まされたような拒絶反応だ。

 「どうした、壱!?」

 「燃えてる……! 兄さん、燃えてるよ……!」

 「何がだ? どこで火事だ?」

 「違う……街が、じゃない……あの子が!」

 壱が震える指で、駅前広場の中心を指差した。

 そこには、巨大な街頭ビジョンが鎮座している。普段なら新商品のCMやミュージックビデオが流れているはずのその画面が、今は砂嵐のようなノイズを発し、奇妙な映像を映し出していた。

 ――ピ――、ガガガッ。

 不快な電子音。黒板を爪で引っ掻いたような、神経を逆撫でする音。

 広場を行き交う人々が足を止め、スマホを掲げている。その視線の先に、彼女はいた。

 アゲハだ。

 彼女は、広場の真ん中にある特設ステージ――何かのイベントの残りだろうか――の上に立っていた。

 だが、様子がおかしい。

 彼女の周囲に、半透明の「アゲハ」が十人、二十人と浮かんでいるのだ。  能力『虚像投影』の暴走。清楚なアゲハ、セクシーなアゲハ、知的なアゲハ、幼いアゲハ。彼女がSNSで演じてきた無数の「ペルソナ(仮面)」たちが、本体から剥離し、亡霊のように周囲を乱舞している。

 「あは、あはははは! 見て、みんな見て! 私、飛べてるでしょ!?」

 本物のアゲハが叫んでいた。その目は焦点が合っておらず、口角だけが糸で吊り上げられたように笑っている。彼女の背中から、あの「蝋の翼」が生えていた。

 だが、それは白く輝いてはいなかった。どろりと溶け出し、ヘドロのような粘液となって、ステージを汚していた。

 「おい、あれアゲハじゃね?」

 「ヤバい、ラリってる?」

 「動画撮れ! バズるぞこれ!」

 群衆からは、心配の声など一つも上がらない。

 ここにあるのは、純粋な好奇心と、他人の不幸をコンテンツとして消費しようとする底なしの食欲だけだ。

 無数のスマホのレンズが、銃口のように彼女に向けられている。フラッシュの光が、溶けかけた翼を無慈悲に暴き立てる。

 僕は群衆をかき分け、前へ出ようとした。  その時、誰かに腕を掴まれた。

 「行くな、歩夢!」

 真人(マヒト)だった。いつもなら派手なスカジャンを着ている彼が、今日は目立たない黒いパーカーを着て、帽子を目深に被っている。その顔は汗でびっしょりと濡れ、唇からは血が滲んでいた。

 「放せ! あいつを止めないと……!」

 「無理だ! あれはもう『エラー』だ! システムが検知した!」

 真人が叫ぶ。その時、僕の視界の端で、スーツ姿の男たちが数人、群衆の中に紛れ込んでいるのが見えた。耳にインカムを当て、無機質な目でステージのアゲハを見つめている。回収班だ。不良品(エラー)となった家畜を処分しに来たのだ。

 「……っ、ぐあぁッ!!」

 真人が突然、悲鳴を上げてその場に膝をついた。腕を押さえている。骨が軋むような音が聞こえた。彼は僕を見上げ、血の混じった唾を吐き捨てて言った。

 「……あそこにいるのは、ただの酔っ払いの女だ。システムなんて関係ない。アゲハは正常だ。何も問題ない。僕たちが助けに行けば、全員ハッピーエンドになれる……ッ!」

 嘘だ。

 彼は今、激痛に耐えながら「希望的観測のすべて」を否定する嘘をついた。  つまり真実はその逆。「あそこにいるのはシステムのエラーであり、手遅れであり、助けに行けば全員バッドエンドだ」ということだ。

 僕はステージを見上げた。アゲハが踊っている。

 いや、痙攣している。剥離した無数のペルソナたちが、バグった映像のように明滅し、彼女の本体を嘲笑うように周りを回っている。

 彼女の頭上のタグが、警告色で塗りつぶされていく。

 「……歩夢ぅ……」

 アゲハと目が合った気がした。虚ろな瞳。その瞳が、僕に訴えかけていた。

 『落ちないよ』って言ったよね?『上手く飛んでる』って言ったよね?ねえ、答えてよ。

 

 今の私、綺麗かな?

 

 幻聴が聞こえた。僕がついた嘘が、呪いとなって彼女の脳髄を犯している。  僕が殺したんだ。彼女をここまで追い詰めたのは、アンチの言葉でも、システムの圧力でもない。僕の、あの無責任な「優しさ」だ。

「兄さん、ダメだ……!」

 壱が僕の腰にしがみついた。  僕が一歩踏み出そうとしたのを、全力で止めている。

「行っちゃダメだ! 助けたら、兄さんが……僕たちが……!」

 壱は見てしまったのだ。僕がここでステージに上がり、アゲハを抱きしめて助ける未来を。そしてその結果、僕たちがシステムに捕捉され、廃棄処分される未来を。

 選択の時が来た。タワーからの墜落なんてドラマチックな最期じゃない。  もっと惨めで、醜悪な公開処刑の場。

 助けるか。

 見捨てるか。

 群衆の笑い声。シャッター音。電子ノイズ。アゲハの叫び声。

 「見て! 私を見て! 消さないで! いいねしてよぉ!!」

 彼女の翼が完全に溶け落ち、ドロドロの液体となってステージを覆い尽くした。

  助ければ、共倒れになる。

 見捨てれば、彼女は社会的に殺される。

 論理的な正解は「静観」だ。

 壱を守るためには、僕は地蔵のように黙って、この公開処刑を見届けるしかない。

 ふざけるな。誰が決めた?システムか?未来か?クソ食らえだ。

 僕はステージに向かって踏み出す代わりに、大きく息を吸い込んだ。  肺が痛くなるほど空気を詰め込み、腹の底から咆哮した。

 「――見るなッ!!」

 喉が裂けるかと思った。それは言葉というより、獣の威嚇に近かった。

 「撮るな! 笑うな! 彼女はお前らの見世物じゃない!! 恥を知れよ、このハイエナ共が!!」

 ビリビリと、空気が震えた。

 一瞬、シャッター音が止んだ。群衆が驚いて僕の方を振り向く。無機質なスマホのレンズたちが、一斉に僕を捉える。ステージ上のアゲハも、ビクリと動きを止めた。回収班の男たちも、予想外のノイズ(僕)の発生に、数コンマ秒だけ反応を遅らせた。

 世界が、止まった。その瞬間。

 「……ぅ、えっ……!」

 腰にしがみついていた壱が、唐突に嘔吐した。胃液と未消化の昼食が、アスファルトにぶち撒けられる。壱の指が、僕の服を掴む力を失った。

 「……兄さん」

 声が、震えていた。

 「ごめん。今の未来、見えなかった」

 壱が、呆然と呟く。その言葉の意味を理解するよりも早く、ステージ上で異変が起きた。

 アゲハが、踊るのをやめたのだ。彼女の周囲を飛び回っていた亡霊(ペルソナ)たちが、テレビのスイッチを切ったようにフッと消滅した。

 彼女は、ドロドロに溶けた翼を引きずりながら、ゆっくりとステージの階段を降り始めた。自らの足で。確かな意思を持って。

 回収班の男たちが動かない。いや、動けないのだ。

 彼らのプログラムは『制御不能なエラーの回収』。

 だが今、アゲハは『自発的に』移動している。エラー判定が一瞬だけグレーゾーンになり、システムの処理速度が追いついていない。

 アゲハは群衆の中へと歩みを進める。人々は、モーゼが海を割るように道を開けた。彼女は僕の方を見た。

 その瞳に、一瞬だけ理性の光が宿っていた。

 『ありがとう』

 声には出さず、口の動きだけでそう言った気がした。

 そして彼女は、夜の闇に紛れるようにして、雑踏の中へと消えていった。

 「……逃げた、のか?」

 真人が呆然と呟く。違う。僕の背筋に、冷たい予感が走った。あれは逃走じゃない。  彼女は、最初から「あそこ」に行くつもりだったのだ。

 僕は空を見上げた。雲を突き破る、黒鉄の針。建設中のバベルの塔が、赤い航空障害灯を明滅させて、彼女を待っていた。


 雨が降り始めていた。冷たい冬の雨だ。僕たちは走った。真人は「追っ手を撒いてくる」と言って別行動を取った。壱は息を切らしながら、それでも僕の手を離さずに走った。

 建設中のタワーの真下。規制線をくぐり抜け、資材置き場を抜けた先に、彼女はいた。

 いや、正確には「上」にいた。

 遥か頭上。鉄骨が剥き出しになった展望台の縁に、豆粒のような人影が見える。  肉眼では表情なんて見えない。

 けれど、僕には分かった。

 彼女が今、スマホを構え、最後の配信をしていることが。


 僕は自分のスマホを取り出した。SNSを開く。アゲハのアカウントが、ライブ配信中になっていた。

 画面の中の彼女は、笑っていた。

 背景には、眼下に広がる街の灯り。宝石箱をひっくり返したような夜景だ。  風がごうごうと吹き荒れ、彼女の髪を乱している。けれど、彼女の顔には完璧な美肌フィルターがかかっていた。

 『みんな、見てくれてありがとう』

 彼女の声が、スマホのスピーカーから流れる。

 同時に、頭上からも風に乗って微かに聞こえてくる。

 『私ね、やっと分かったの。私が一番輝ける場所』

 コメント欄が滝のように流れる。「早まるな」「演出だろ?」「飛べ!」「神回確定」無責任な言葉の刃が、彼女を刺していく。

 『蝋の翼でも、一瞬なら太陽になれるかな』

 彼女はスマホに向かって――いや、世界に向かってウインクをした。

 『バイバイ。愛してくれて、ありがとう』

 配信が切れた。プツン、という音と共に、画面がブラックアウトする。

 その直後。頭上で、何かが弾ける音がした。白い鳥のようなものが、鉄骨を蹴って宙に舞った。

 「――っ!」

 僕は壱の目を手で覆った。見てはいけない。

 これは、人が飛ぶ姿じゃない。ただの物体が、重力に従って落下するだけの物理現象だ。

 数秒の静寂。それは永遠にも似た長さだった。

 ドンッ。

 鈍い音がした。肉と骨が、硬いアスファルトに叩きつけられ、袋の中身をぶち撒けるような音。

 悲鳴はなかった。

 ただ、近くに停まっていた車の防犯ブザーが、衝撃を感知してファンファンと間抜けな音を鳴り響かせただけだった。

 僕はゆっくりと、壱の目から手を離した。僕たちの足元から数メートル先。

 そこに、かつてアゲハだったものが転がっていた。

 綺麗な顔だった。首から下はひどい有様だったが、顔だけは奇跡的に無傷だった。

 うつ伏せに倒れた彼女の横で、スマホだけが無傷で光っていた。  画面には、彼女の最期の投稿が表示されている。

 《Goodbye World》

 その投稿についた「いいね」の数は、秒単位で増え続けていた。

 1万、5万、10万。彼女が命と引き換えに欲しかった数字が、死体の横で虚しくカウントアップされていく。

 まるで、彼女の血を吸って増殖しているバクテリアのようだった。

 僕は近づき、彼女の背中を見た。タグがあった。

 《推定価値:0》《状態:廃棄済み》

 システムは、彼女を「ゴミ」と判定した。僕の頬を、冷たい雨が叩いた。

 涙は出なかった。ただ、言いようのない虚無感が、胸に空いた風穴を吹き抜けていくだけだった。

 「……兄さん」

 壱が、僕の袖を掴んだ。その震えが伝わってくる。

 「未来が変わっても……結末は、変わらなかったね」

 そうだ。僕が叫んでも、彼女がステージを降りても、結局彼女は死んだ。

 システム(運命)という巨大な川の流れを変えることはできなかった。ただ、小石を投げて波紋を作っただけだ。

 だけど。

 僕は、彼女の死顔を見つめながら思った。

 彼女は最期、自分の足でステージを降り、自分の足で塔を登った。システムに殺されたんじゃない。

 彼女は、自分で死を選び取ったのだ。

 それは微かな、けれど確かな「反逆」だったのかもしれない。

 遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてくる。

 執行猶予の時間は終わった。

 僕たちの灰色の日常は、この鮮血と共に幕を閉じる。

 さようなら、アゲハ。

 君の蝋の翼は、確かに一瞬だけ、誰よりも高く燃えていたよ。

 そして僕たちは、君の死体の上を歩いて、次へ進む。

 泥まみれの「生」にしがみつくために。

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