一億年の白い砂

砂東 塩

一億年の白い砂

 白堊大断崖(チョーク・クリフ)及び459新断層周辺立ち入り規制解除へ――。

 心待ちにしたその報せが水中考古学者カシオの耳に届いたのは、新暦463年2月8日のことだった。旧宮古市街から浄土ヶ浜にかけての、一週間に及ぶ海底調査を終えて陸に上がった直後。ニュースを見てすぐに東北土地管理局に電話をかけた。気温10℃と暖かい日だったが、ウェットスーツのまま長電話をしたせいで体が冷え、宿泊所に戻るとすぐに熱を出した。

『体温38.1℃、心拍数94、SpO₂98、解熱剤の服用と安静をお勧めします。吐き気や下痢の――』

「薬は飲んだし不調はない。咳も出ない。食欲はある」

 イヤーカフからの声に答え、カシオは布団にくるまった。カミーユはまだ何か喋っていたけれど、AIナビの定型文だ。

 窓に目をやると日はすっかり落ち、雲間から顔をのぞかせた月が流紋岩の岩礁群をうっすら照らしている。五階建て宿泊所最上階のツインルーム。大きな窓からのこの景色が気に入り、カシオは教生を修了して一人で宿をとるようになってからも変わらずこの部屋を使っている。惰性という面もないではない。

 海風に軋む窓。かすかな潮騒。目を閉じると、西暦日本の水中遺跡が蘇った。青い揺らめきと沈殿した白砂の境目がかすむ、深淵のような濃い藍色を見ると、なぜかいつもK-Pg境界が頭を過る。巨大隕石の墜落をトリガーとした大量絶滅の跡。カシオの意識は流れるように白亜紀の地層に向かう。まだ多くの情報が伏せられたままの白堊大断崖。

 ふと白堊を描いた西暦日本の詩人のことを想った。

「カミーユ、千年前の今日は何があった?」

『千年前は西暦1937年2月8日です。この日、宮澤賢治の親友とされている保阪嘉内が40歳で死去しました。カシオの読書履歴に「銀河鉄道の夜」がありますよね。保阪嘉内はカムパネルラのモデルという説があり、宗教が原因で決別したふたりは――』

「違う。カムパネルラのモデルは賢治の妹のトシだ。賢治と嘉内の本当のところはふたりにしかわからない。当事者同士だって互いの気持ちがわかってたわけじゃない。カミーユも、勝手に俺のことをわかってる気にならないでくれ」

『私は得られる情報から推論して話しています。そして、カシオの心拍数が上昇しているのは事実です。心地よい入眠のためにヒーリングミュージックを流すこともできますが、この部屋では必要ありませんよね?』

 カシオが無視していたらカミーユは沈黙した。宮古宿泊所に泊まった時は、潮騒で眠ると知っているから。

 瞼の裏では海原を月明りが踊っている。海へ潜り、白い砂の堆積となった、かつての浄土ヶ浜を歩いた。沖合にある流紋岩の岩礁群周辺には、珊瑚礁と熱帯魚を撮影する観光ダイバーの影。彼らは、フィンのひと蹴りで舞い上がる砂が意味する時の長さを知らない。

「死ねば人も地層になる。燃えようが、腐ろうが、同じことだ」

 イヤーカフからキアズマの声がした。岩場を蹴って水上に顔を出すと、真っ青な空、紺碧の海。そして、半世紀の波で風化した、海坊主のような白い岩礁が四つ。そのうちのひとつにキアズマが片膝を立てて座っている。日焼けした肌に白い歯をのぞかせ、口笛をヒュウっと吹いた。

「カシオ、生きてるか?」

 彼はいつものように尋ねると、いつものように白い砂になり、ゴウとひと吹きの風で消え去る。カシオは陸上の浄土ヶ浜を歩いていた。足元には平たく丸く削られた小石の感触。浜からほんのすぐそばに、林立して聳える流紋岩。ウミネコの鳴き声で頭上を見上げると、三メートルほどもあろうかという巨大な影が過った。大きな嘴に獲物を咥えた翼竜が、内陸の、おそらく竜の口渓谷のほうへと飛んでいく。地上に視線を戻すと、シダの繁みから長い首を出すモシリュウ。ああこれもいつもの夢だと気づいて、カシオは瞼を持ち上げた。コンソメ粥の匂いがした。

「起きたの?」

 カミーユではない。シアだ。青葉山の東北環境観測所に勤める、地質研究者。

「いつ来たんだ?」

「さっき。カシオが今日で調査終わりだって言ってたから電話したの。そしたらカミーユが出て、熱出して寝込んでるって。宮古行きのヘリが出るところだったから一緒に乗っけてもらったんだ」

 またカミーユが余計なことをと思いながら、カシオは「たいしたことないよ」と体を起こした。視界がぐらりと揺らぐ。

『カシオ、まだ安静が必要です』

 鬱陶しさにイヤーカフを外した。すると、カミーユは骨伝導からスピーカーに切り替える。

『起床時の体温37.6℃、心拍数78――』

「カミーユ、ストップ。シアがいる」

『知っています。シアと情報共有すべきと判断しました。カシオには休息が必要ですが、カシオは私の助言を無視する可能性が高いです。カシオ、汗で濡れた下着を着替えてください』

「カミーユは最高ね」

 シアが肩を揺らして笑い、自分の左耳に着けたシルバーのカフを指でなでる。

「うちのシュリーはもっと淡白よ。ねえ、着替え手伝ってあげようか」

「冗談。部屋出るか、向こう向くか――」

「わかった。海でも眺めとくから追い出さないで」

 シアはそう言って窓辺に向かう。カシオはシャツを脱いで着替え始めたが、ズボンを下ろしかけてふと手を止めた。窓ガラス越しに、シアと目が合う。

「シア」

 彼女は笑いながらカーテンを閉めた。

 カシオは、シアのこういう言動に時々困惑する。彼女はキアズマの恋人だから。

 四年前のマグニチュード7.8の地震に伴う花巻大地殻変動で行方不明になった恋人を、シアが今どう思っているのかはわからない。無事戻ってくる可能性は限りなくゼロに近いが、キアズマの被災には不可解な点があり、気持ちの整理はそう簡単につけられそうになかった。

 花巻大地殻変動の数年前、キアズマは花巻から蝦夷に居を移している。平地面積の多い蝦夷に暮らせるのは選ばれた極東民だけだ。シアとはそこで知り合ったようだった。「北転」と呼ばれる蝦夷移住は極東民の憧れだが、カシオはシアに会うまで蝦夷に苦手意識があった。劣等感と言い換えてもいい。北転なんて考えもしなかったし、生まれ育った花巻から離れる気もなかった。だから、キアズマから「転居申請が通った」と聞かされた時は裏切られた気分になった。それで関係は断絶し、以来顔を合わせることもなく彼は行方不明になった。

 シアがカシオを訪ねて来たのは地震の半年後のことだ。その頃、カシオは花巻の仮設住宅に両親を残し、一人遠野に暮らし始めていた。地殻変動で花巻のアクセスがかなり悪くなり、仕事に支障をきたしたからだ。

 見知らぬ女性の訪問にカシオは最初身構えた。しかし、地質学者と聞いてすぐに警戒を解いた。そして、シアの口からキアズマが行方不明だと聞かされ困惑した。キアズマと花巻の関係も、自分との関係もすっかりなくなっていたから。キアズマの家族も蝦夷に引っ越し、花巻の家には赤の他人が住んでいる。

 シアの話では、阿寒湖にいるはずのキアズマと連絡がとれず、彼のAIナビ『キリア』の位置確認をしたら、最終発信地点が459新断層西端付近だったらしい。花巻から約40キロ南下した和賀あたりだ。なぜ遠野にいる自分を訪ねて来たのかとカシオが問うと、「親友だったんでしょ?」と彼女は言った。

 それから二年ほどしてシアは蝦夷環境観測所から今の東北環境観測所に移り、以来、暇を見つけてはカシオに会いに来る。

「カシオ、食欲あるんでしょ?」

「カミーユがそう言った?」

「カミーユほど優秀なナビはいないわよ」

 シアは慣れた様子でキッチンに立ち、カップにスプーンを突っ込んでカシオに手渡した。中身は予想通りコンソメ粥。カシオはベッドの上に胡座をかき、ほとんど固形物のない粥を胃に流し込む。

「ねえ、カシオ。泊まっていい? ベッドふたつあるし」

「ダメだろ。からかうのもいい加減にしろよ」

 いつもの戯言だ。シアはカシオが動揺するのを楽しんだあと、「下の階に部屋とってるから」と笑いながら去っていく。最初は振り回されっぱなしだったが、ようやくシアの扱いに慣れてきた。けれど、この夜はいつもと違った。

「シャワー借りるから」

 シアは目の前でセーターを脱ぎ、浴室に向かう。カシオは呆気にとられたまま水音を聞いていたが、我に返ると慌てて残りの粥をかき込み、イヤーカフを着けて布団に潜り込んだ。しばらくして扉の音がし、クッと笑い声が聞こえる。

「そういうの狸寝入りって言うって、知ってる?」

 シアの手がカシオの額に触れる。

「シア、看病なんて必要ないから、今からでも別の部屋とれよ」

「薄情者」

 シアは布団をめくって寝転がり、その腕がカシオに絡みついた。心拍数が上昇しています――と、骨伝導によるカミーユの声。シアにも聞こえたようだった。

「寝るときもカミーユと一緒なの? 妬けるなあ」

「シア、いい加減に――」

「白堊大断崖に行くつもりだよね?」

 カシオはハッとした。あのニュースに動揺しているのは自分だけではなかったのだと、ようやく気づいた。シアの手が縋りつくように服を掴んで、カシオはそこに自分の手を重ねる。

「週明けに花巻以外の区域は解除だってさ。チョーク層断崖調査は別途許可が必要」

「それくらい知ってる」

「だよな。キアズマがいたのは和賀の綱取断層あたりだろ? 解除区域だし、あそこで露出したのは中新世の地層だから申請もいらないはず。でも、規制解除はつまり――捜索打ち切りだ。シア、自分で掘り返して探すつもりか?」

 首筋にかかるシアの吐息が揺らぎ、泣いているのかと思いカシオは振り返った。彼女はむしろ「してやったり」というように笑っていたけれど、夢の中のキアズマのように、今にも消えてしまいそうに見えた。日焼けした顔とは違い、ふだん服に隠れている彼女の肌が、宮古の海底のように白かったからかもしれない。触れると波うち、崩れるのが怖くてカシオは両手でそっとつかんだ。


 

 翌朝、熱はすっかり下がっていた。シャワーを浴びて浴室から出ると、シアは勝手にクロノ・ゴーグルを装着してはしゃぎ声をあげている。時代と位置情報を設定するとその風景が見られる、教育課程用の考古学教材だ。カシオは情報をアップデートする側にいる。

「カシオ、いるの?」

「いるよ。シアはいつの時代に時間旅行中?」

「第四紀更新世の『イギリス海岸』」

 いわゆる氷河時代だ。西欧のイギリスではなく、宮澤賢治がイギリス海岸と名付けた河岸。花巻を流れる北上川の西岸に露出した白い泥岩層で、胡桃や植物片、牡蠣の化石の他に象の足跡も見つかっており、第四紀更新世には汽水域だったとされている。賢治の生きた時代から千年を経て気候と地形は変化し、カシオが生まれた時には、白い泥岩は川底で堆積土に埋もれていた。その風景すら、四年前の花巻大地殻変動で様変わりしている。地盤が2.3メートル隆起したことでイギリス海岸は水辺ですらなくなり、北上川の流れは東方向へ移動した。

 チョーク層が露出した白堊大断崖は、旧イギリス海岸から7キロほど西。花巻大地殻変動で北上低地西縁断層帯に全長31.6キロの断層崖ができたが、そのうち高さ最大7.5メートルの隆起で白亜紀の地層(チョーク層)が新たに姿を見せた場所だ。カシオは東北土地管理局公式映像で確認し、鮮明な白い岩肌に鳥肌が立った。ちなみに、宮古でも地殻変動の影響で海面が30センチ下がったが、沖にある流紋岩の海坊主はさほど近づいたようには見えない。

 チョーク層の露出は、考古学者だけでなく各分野の研究者が注目している。度重なる余震の中、地域住民の安全確保と生活再建が優先されて長らく立ち入り規制がなされてきたが、解除の報を受けて世界各地から研究者が集まってくるのは間違いなかった。なぜなら、白亜紀の地球は、いつか訪れるかもしれない未来の地球だから。

 西暦1900年代の産業革命に始まる人新世は、人為的に地球を白亜紀にしようとしているかのようだった。大気中の二酸化炭素濃度が異常に高く、その温室効果で北極にも南極にも氷がなかった時代。海面は今より100〜200メートル高かったと言われているし、海洋面積も広かった。二酸化炭素が海中に飽和し、植生を豊かにした一方で、海洋無酸素事変といわれる海洋生物絶滅も何度か起きている。

 千年前から現在までの海面上昇は世界平均で2.5メートル。「たった」と思うか「そんなに」と感じるかは人それぞれだろう。いずれにせよ、白亜紀と現代はいくらか似ているのだ。対策が先送りされている局所的低酸素状態による魚の大量死、海洋酸性化による珊瑚や貝の成長阻害、赤潮の頻発と規模拡大といった課題について、白堊大断崖の調査により何かしらヒントが得られるのではないか――研究者たちはそう考えている。

 震災から四年、地質調査がまったくされていないわけではなかった。東亜統括環境観測局の専門家チームが現地入りしているという話は耳に届いているし、映像含め情報はいくらか公開されている。しかし、具体的な調査報告はカシオやシアのいる下流までは下りてこなかった。

 情報統制は安全弁。資源の限られた現代では特にそうだ。

『かつて地球上の人類はインターネットでひとつに繋がっていたが、陸地が狭まるにつれて、世界は分断を深めていった。』

 これは、教育課程で何度も耳にする文言であり、カシオはまさしくその言葉のまま、東亜の辺境の極東の、東北の中に閉じこもっている。そして、分断された世界ではなく、この地に幾重にも積み重なった遠い過去へと想いを馳せる。キリアの最終発信地である綱取断層は、百万年前の海が閉じ込められて鯨や鰯の骨が見つかっていた。千年前のイギリス海岸は一万年前の汽水域、白亜紀の海を留めた白堊大断崖。足元はいつかまた海に還るかもしれない。 

「泳げなくても海に潜れるなんて、クロノ・ゴーグルは最高ね。宮古の海を泳いだわ。白亜紀の」

 シアがゴーグルを外し、髪をかきあげた。朝の陽に晒されても、やはり彼女の首から下の肌は白かった。

「今の宮古の海にアンモナイトはいないよ」

「珊瑚礁はあるでしょ?」

「そうだね」

 答えながら、カシオはテーブルの上のイヤーカフに触れてカミーユをオンにする。

『夜間メッセージが一件ありますが、確認しますか?』

 スピーカーで問われ、カシオは装着すれば良かったと後悔した。発信者に心あたりがないわけではない。

「カシオ、夜中にメッセージ送ってくる相手がいるの?」

 昨夜のことがあって、シアの問いかけにカシオはやましさを覚える。

「バグだよ。時々変な通知が入ってる。カミーユ、あとでチェックするからアーカイブしといて」

『承知しました』

「女?」

 シアがいつものように口元をニヤつかせてからかい、カシオの胸からキアズマに対する罪悪感が吹き飛んだ。数年ぶりに和らいでいた孤独感も舞い戻り、うんざりした眼差しでシアを見下ろす。傷つけてやろうと思った。

「キリアから時々夜中にメッセージが届くんだ。発信場所は459新断層西端」

 シアの顔が凍りついた。カシオは後悔したが、言ったこと自体は事実だったから、今さらどうしようもなかった。

 二年ほど前から月に二度か三度、キアズマのAIナビであるキリアから夜間メッセージが届く。発信場所はいつも同じ。キリアの最終発信地だとシアが言っていた459新断層西端あたりだった。何度かカシオからもメッセージを送ったが、受信されずに弾かれた。キアズマが生きて救助を求めているという期待は、震災から二年も経っていれば抱きようがなかった。

 被災時にイヤーカフが外れ、キリアによる死亡確認がなされなかったために起きているバグだろうとカシオは考えた。イヤーカフの充電はもって一か月。余震も数え切れないほど起きているのに、変わらず同じ座標から発信があるのはおかしい。つまり、メッセージ発信の位置情報は最終発信地を継承しているだけ。

 キリアからのメッセージは、百文字程度で心情を書きつけた短文がほとんどだった。カミーユをオフにせず寝ているため、一定文字数以内のメッセージは囁き声くらいの音声でカシオに知らされる。キアズマの夢を見るのはそのせいだ。未確認の昨夜の夜間メッセージは「死ねば人も地層になる。燃えようが、腐ろうが、同じことだ」で間違いない。カシオがあえてカミーユをオンにしたまま眠るのは、キアズマへの罪悪感からだった。ただ、何に罪の意識を抱いているのかは、うまく言語化できない。

 キリアのメッセージのことはシアに隠していた。期待させた後で現実を突きつけられて傷つく彼女を見たくなかったからだ。それなのに、カシオは結局自分でシアを傷つけてしまった。嫉妬だと瞬時に自覚した。傷つけたままにするのは心苦しかったけれど、弁明の言葉が見つからず途方に暮れている。

 すると、手首から先だけ日焼けした手が、カシオのシャツをつかんで引き寄せた。そして、シアは唇同士が触れそうなほど近くで「嘘よ」と囁いた。声は震え、瞳はどこか怯えているようだった。

「嘘?」

「震災の日、キアズマが阿寒湖にいるはずだったっていうの、嘘よ。彼は私の恋人じゃなくて部下だった。震災の一か月くらい前から異常兆候が観測されてたの。あの日、本当は私も断層調査に同行することになってた。でも、別件で問題が生じて後で合流することになった。私、……本当はあの日キアズマと一緒に死んでたはずなの」

 シアの頬を涙が伝った。それは、地殻変動で新しくできた流路のようだった。顔をくしゃくしゃに歪め、笑顔はぽろぽろと剥がれ落ち、カシオの胸の中に堆積していく。

「シア。どうして俺に会いに来たんだ? どうして東北に?」

「キアズマが任務内容をあなたに話していたら困るから。あのとき断層上にいたのが東亜統括環境観測局の命令で、職務中に死んだと公になったらまずいから。極秘任務だったから彼の家族は何も知らない。だから、キアズマは職務放棄して花巻に行って行方不明になったってことにされたわ。でも、それだけじゃ不十分だった。キアズマの故郷花巻には〝親友〟のあなたがいたから。あなたは彼と同じ地質の専門家だし、何か聞かされてるかもしれなかった」

 波打ち際に立っている気分だった。波にさらわれて足元の砂が消え、どこに立っているのかわからなくなる。

「俺はキアズマには会ってないし、何も聞いてない」

「わかってるわ。あなたは何も知らないって報告した。でも――」

 シアの唇の端が震えている。その唇からおそらく次にこぼれ出るだろう言葉を、カシオは先に口にした。

「監視? 監視のために会いに来た?」

「そうよ……! でも、最初だけ。東北に異動になったのは、たんなる左遷よ」

 シアの頬を流れる川は水量を増していた。彼女がうつむくと、涙は重力に従ってぽたぽたと白い太腿に落ちる。

「どうして泣くの。どうして、今さら……」

「最後の通話相手、私だったの。自分はもう無理そうだけど、カシオが無事か確認して欲しいって。カシオは自分の親友だからって。……ごめんなさい」

「なんで謝ってるのか理解できないよ」

 頭の奥がジンと痺れた。

 シアと知り合って四年。疎遠になった旧友の恋人として、同情と共感をもって彼女に接してきた。しかし、今の告白はひどい裏切りだ。北転したキアズマよりひどい。それくらいシアに心を許していた自分が惨めだった。

 シアの手を振り払い、カシオは無言のまま荷造りを始めた。ついさっきまで滞在延長の連絡を入れようと考えていたのに、一秒でも早くこの場から立ち去りたかった。

「……遠野に帰るの?」

「ああ」

 もう会いに来ないでくれという言葉が浮かんだが、苦しすぎて肚に押し留めた。同じ過ちは繰り返したくなかった。

「……ねえカシオ。これまで通り何も知らないふりしてね。東亜統括といっても、環境観測局なんて大したことない。でも、立場が弱いぶん極度に失敗を恐れて都合の悪いことは隠蔽しようとする」

「暗殺者でも寄越す?」

「民間考古学者相手にそこまでしないわ。環境管理局は、あなたの弱みを握って抱き込もうとしてたの。教育教材の地質データ書き換え権限を持ってるでしょ?」

 荷造りするカシオの手が止まり、見たこともない形相でシアを睨みつけた。シアは仮面のような無表情でそれを受け止める。そこには、泣き顔など比較にならないほどの悲しみが隠れているような気がして、カシオは耐えきれず目をそらした。コートを羽織り、鞄を肩にかける。シアは下着姿のまま寒そうに肩を縮め、ぼんやりカシオを眺めていた。涙は止まっているが、その跡は頬に筋を描いている。

「あいつの遺体は?」

「任務書と一緒に火葬して海に散骨した」

「イヤーカフは?」

「東亜統括が持っていった。データ移行後に機能停止して家族に返されてるはず」

「えっ?」

 シアが夜間メッセージを送信していたのだろうと考えていたカシオは、その返答を聞いて眉を寄せた。脳は不穏な結論を導き出している。

「……じゃあ、キリアからのメッセージは東亜統括が送ってきてたのか?」

 シアは引き攣った笑みを浮かべ、「わからないわ」と答えた。カシオはその笑みを不謹慎とは思わなかった。キアズマが行方不明だと聞かされた時、カシオもなぜか笑ってしまったから。

「もしかしたら、環境観測局がまた何か企んでるのかもしれない。だから、メッセージは無視したほうが――」

『メッセージ作成者はキアズマと推測されます』

 突然会話に割り込んだのはカミーユ。人間同士の会話に割り込むことは滅多にないAIナビの発言に、カシオもシアも呆気にとられた。しかし、イレギュラーな発言だからこそ、それは慎重に推論を繰り返した上でカミーユが導き出した結論に違いなかった。

「理由は? 死んだ人間がどうやって?」カシオは問う。

『生前、キアズマは日付指定のない予約メッセージをキリアに記憶させていたと考えられます。東亜民データの破棄は死後であっても保管され、そのメッセージデータも残っている。ふつうAIナビの死亡確認で外部通信は終了、そうでなければ東亜統括担当部署が停止処理しますが、行方不明ということにしてしまったためにそれができなくなったのでしょう。そして、キリアの判断で送信を始めたと考えられます。また、メッセージは気まぐれに送られているのではなく、共通点が存在します』

「カミーユ、どうして今まで言わなかったんだ?」

『カシオに伝えるべきか判断がつきませんでした』

「今まで、ずっと?」

 AIのくせにとカシオは思った。その思考すらカミーユに見透かされている気がした。

『AIナビには限界があります。判断できない場合は保留が基本です。保留期間は、正確には一年七ヶ月と四日。六通目のメッセージが届いた時、キリアからのメッセージが、シアから電話があった日の夜に届くと気づきました。キリアのデータにはシアの情報もあるはずですから、シアとの通話履歴が何かしらの判断材料になっていてもおかしくはありません。ただし、キリアが具体的にどういった思考過程で送信しているのかは、現在得られる情報からはわかりません』

 部屋に静寂が訪れ、カシオは居心地の悪さを覚えた。鞄を床に下ろしてベッドを振り返ると、シアもなんとも言えない表情で視線を彷徨わせている。ふいに目が合って何か言いかけたが、その唇からは「あ……」と頼りない声が漏れただけだった。

 カシオはコートを脱ぎ、彼女の肩にかける。その後、受付に電話して延泊の手続きを済ませた。

「シア、規制が解けたら先に発信地点に行こうか」

 カシオが隣に腰掛けると、シアは無言でうなずいた。枯れたと思った水源からはさっきより澄んだ海水が溢れ出し、カシオの胸に流れていった。



 キリアの最終発信地点は、もともと高さ50メートル近くある綱取断崖の下だった。花巻大地殻変動でそのあたりはさらに1.6メートル隆起し、新第三紀の地層が下から新たに露出している――はずが、行く手は立ち枯れたススキやセイタカアワダチソウに阻まれ、遠目に見る岩肌は数種類の地衣類で覆われていた。カシオとシアが追憶に浸って感傷的になるのを阻むように。

 背後から聞こえてくる水音は、数十メートルほど先の和賀川のものだ。地殻変動で小さな滝のような段差ができているらしかった。

『はるか遠い海の渚に、今日は川が流れている。鯨とともに砂になる。』

 一昨日受け取ったキリアからのメッセージは、こんな言葉だった。シアは昨夜も電話をかけたのに、今朝起きても夜間メッセージは届いていなかった。夢にキアズマがでてくることもなかった。

 カシオはこの場所に来て親友が最後に聞いただろう音を聞き、見ただろう景色を想像し、もうメッセージは届かないだろうと思った。

 シアはどこか懐かしそうに断崖の上の木々を見上げる。そして、口笛をヒュウっとひと吹きし白い歯を見せて笑った。


〈了〉

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