第七章(二)
台所から戻ってくる先輩の足音で、わたしは思考の淵から上がった。
「補足になるけど――」
里見先輩は琥珀色の液体の入ったグラスをわたしに差し出すと、コンビニの袋からスナック菓子を取り出しながら続けた。
「それでいくと、よく子供の方が霊を見ることができるなんていう新興宗教なんかの言い分もうまく説明できる。彼らが主張するようにまだ汚れていない魂を子供が持っているからなんじゃなくて、経験上、子供たちは脳の中に蓄積されているデータが少ないからだってね。どうだい? やっぱり、スマートだろ?」
「え・・・う、うん」
「どうした? あ、さては、お前、また何かややこしいこと考えてたろ?」
「人を疑う練習をしてたんです。今の場合は、里見先輩の言葉とこのお酒の意味」
彼の指摘が図星だったので、わたしはむっとして言い返した。
「さっさと酔わせてうやむやにする気かしらって」
「こいつ」
里見先輩は笑いながらわたしの頭をこづくと、グラスに口をつけて話を促した。
「先輩の言う『幽霊は脳の所産物』であるっていう仮説は確かに幽霊の存在を否定して、かつ、いろんな現象をうまく説明してると思います。幽霊を見た人たちの描写が共通しているのも、幽霊の原型っていうのが、すでに日本人の脳の中にあるからっていうので矛盾はないし……。あ、そうだ、先輩、じゃあ、ユングじゃないけど、そういう日本人の抱いている幽霊の原型を作った人は誰なんですか? 四谷怪談の鶴屋南北あたり?」
「いいや、時代的にはもうちょっと古い。真弓が連想する幽霊像ってのは、腕をこう曲げてる足のない幽霊だろう? 足のない幽霊が一般化したのは、享保の頃の画家で
「ふうん」
「でもね、余談になるけど、それ以前については、幽霊にも立派な足があったんだ。享保期以前の『発心集』や『男色大鑑』、『拾遺お伽
「うん。バンジーはやったことないけど、ジェットコースターは好き」
「やっぱり。僕には理解できないなあ。まあ、ともあれ、止よせばいいのに、より恐ろしいものを求めて、新たに創造したその対象に恐怖する。人間っていうのは、不思議な動物だね」
「そういう言い方されると、少し悲しい。今度の合宿が山梨に決まったら、帰りに富士急ハイランドで一緒に遊ぼうと思ってたのに。里見先輩、全然理解できませんか?」
「個人的にはね。だけど、人工的な恐怖っていうか、そうだな、安全が保証されてる恐怖を求める人間の心理はわかるよ。特に日本で暮らしていると、普段の生活の中で死の恐怖なんか感じられなくなってるからね。アドレナリンを放出する機会が少ない。だから、怖いものを求めるんだろうとは思う。アドレナリンの放出による高揚感は一種の快感だから。それに『死』を意識することで、初めて『生』を意識できるということもあるんじゃないかな? 恐怖を感じることで、自分が生きていることを実感したいって心理だね。だけどさ、ジェットコースターなんかに頼ってそれを求めるのは、現代人の想像力が貧困なせいだと思わない?」
「どうせ、貧困です。もう、完全に赤貧状態。これで満足ですか?」
「いや、真弓のことをだね――」
「貧困だと言ってるんですよね」
「わかった。しょうがないなあ。一緒に乗るよ。今度の合宿まで待たなくたって構わない。冬はそれじゃなくても風が冷たいのに、体感気温が間違いなく下がる秒速何十メートルの世界を経験したくない」
「秒速何十メートルもないと思うけど……」
「揚げ足を取らないの。言葉の綾だよ。秒速一桁だったら迫力ないじゃないか。分速に直すといまいちピンと来ないし」
「里見先輩って典型的な文系ですよね」
「違いない。それでどうなんだよ? 行くの? 行かないの?」
「行きます。来週の連休でいいですか?」
「いいですよ。――ったく、とんだ藪蛇だった。さて、幽霊の話に戻ろうか。そういった、恐怖の対象を追求する人間の性向が、幽霊のイメージをより恐ろしくしたわけだね。本当に人間というのは不思議な動物だ。ついでに言えば、当時すでに定型となってしまった足のない幽霊とは逆の造型を試みた芸術家もいるよ。江戸後期の小説家、山東京伝がそうだ。彼の『
「そうかしら? あんまり怖くなさそうだけど」
「真弓は手厳しいなあ」
「先生に似たんです。……じゃあ、話を戻しますけど、仏教では霊はどんなふうに解釈しているんですか? お墓とか永代供養だとか、ありますよね。ああいうのって、御先祖様の霊を認めていることが、前提条件でしょう?」
「うん。そこが日本仏教の抱える問題点なんだよね。もちろん、仏教だけが悪い訳じゃないんだけど、今、真弓が指摘したような仏教が掲げる宗教的真実に矛盾する社会習慣を容認したのは、やはり責任があるのかなあ。歴史的に見て、仏教にはキリスト教のように宗派同士の闘争もなかっただろう? まあ、中には立川流に対する弾圧のように例外もあるけど、あれは仏教の本流から見てあまりにも異端だったからだし……」
「立川流なら聞いたことがあります。髑髏の前で、その……エッチなことする日本の黒魔術みたいなものでしょう?」
「ったく、お前はどこでそんなつまらない知識を仕入れるかなあ?」
「……少女マンガ」
「どうして女の子の読むマンガにはオカルト系が多いんだろうねえ。ったく、また脱線しちまうのか。……あのねえ、立川流に限らず、宗教や思想と名がつくものには、必ず大多数の人間が納得できる真実が含まれているんだ。じゃなければ、一個人の考えが『思想』と呼ばれるまで広まるわけがないだろう? これはこれから真弓がいろんな思想を吸収していく上で、忘れちゃいけない大切なことだから話すんだよ。立川流に関して言えば、僕もさっき異端と評したけど、それは母胎となる仏教から見たときにその派生した姿が表面的に全く異質なものに見えるから、そう言っただけだ。確かに真言密教立川流は上っ面を見れば、真弓が読んだマンガと同じだよ。本尊とする髑髏の前で男女
「……う。一応、伺います」
「あはは、そんなに恐縮することはないよ。立川流は平安時代後期に
「うん」
「で、その実態だ。髑髏を礼拝の対象とする宗教は、僕らには奇異に感じられるけど、土俗的な民俗信仰を入れれば、世界中にごまんとある。『日本霊異記』なんかにも喋る髑髏の話とかあるだろう。人間の髑髏というのは、古来からそれだけ神秘的なイメージを持っているもので、それが礼拝の対象に祀り上げられても別に不思議なことじゃない。その点だけを挙げて立川流を邪教と考えるのは、思想的に貧しい僕らの側に問題があると言えるよね。それから、よく槍玉に挙げられる黒ミサまがいの性交儀式だけれど、立川流の即身成仏の秘術は男女の性的な結合にあることは確かだ。ただそれにはものすごく長い時間がかかる。だいたい、五、六年くらいかな? ……ああ、別に想像しなくていいよ」
「してませんっ」
「でもさ、それってすごい労力がかかると思わない?」
「――馬鹿っ」
「真面目に話してあげてるのに、馬鹿はないだろ」
「真面目なんですか?」
「もちろん。儀式そのものに多大な労力と長い時間がかかるっていうのが味噌なんだよ。このパターンは、いろんな宗教にあるけれど、特に立川流の母胎である仏教の十八番だ。例えば、禅でいう公案がそうだよ。有名な公案に『趙州狗子』があるだろ?
「えっと、犬に仏性はあるかないか、でしょ?」
「そう。この公案は『従容録』や『道樹録』なんかにもあるけど、一番短いやつが『無門関』にこう出てる。『
「その『無』ですか?」
「いいや、僕の言ってることだよ」
「それだったら、わかります」
「OK。さて、ここでこの禅問答の目的は何でしょう?」
「あ、そっか。『無』を持っていくことより、それを探す過程で、悟りを得るのが目的です」
「合格。まさしく、その『過程』が大切なんだ。立川流の秘儀も同じだよ。立川流においては乱交パーティーのようにセックスの相手をとっかえひっかえはしない。初めから最後までずっと同じパートナーで行うんだ。儀式だとか宗教色をなくせば、まさしく夫婦だ。そして、髑髏を拝し、性交を重ねていく『過程』の中で、ある真理を悟らせる。即身成仏を遂げるというのは、まさにそのことだ。詳しく説明しなくちゃ分かりにくいかも知れないけれど、その時にはもう本尊である髑髏も何も要らなくなる。立川流にとって、本尊である髑髏はまさに悟りに至る『過程』を演出する道具に過ぎないんだ。……そうだな、こう考えると、真弓はある意味で立川流に共感するかも知れないね。立川流は、男だけでも女だけでも即身成仏は得られない。文化的にも宗教的にも男尊女卑の時代にあって、男女平等の原理を内包した数少ない宗教のひとつであると」
「……うん。ごめんなさい」
「誰に謝ってるの?
「その開祖の人」
「仁寛、ね」
「固有名詞覚えるの苦手なんです」
「そうだな、今度資料見せてやるよ。そしたら、何故、本尊が髑髏なのか、何故儀式に時間がかかるのか、今日話さなかった詳しい理由がわかる。固有名詞もね。……ええっと、本題はどこまでいったっけ?」
「んと、仏教は各宗派同士であんまり揉めなかったってとこです。
「そうだった。そこでつまんない例を出したから、話が長くなったんだよな。まあ、とにかくだ。そういう宗教的に怠惰とも呼べる仏教変遷の歴史の中で、宗教社会内部による淘汰を受けないまま、様々な教義解釈が蔓延してしまった。こんにち、聡明で敬虔な信者である真弓さんまでもが霊の存在がどうのこうの言ったり、変な誤解をしてるのは、それが一番大きな要因だろう。他宗を攻撃したのは、日蓮さんくらいのもんだ。この例外はいいよね?」
「知ってます。それから、わたしに対する形容詞は余計です」
「それは失礼」
「もう。でも……先輩が言いたいのは、もしかして仏教に対するわたしの見解が違ってるってことですか?」
「そうだ。真弓はもう気がついたみたいだから、最初に解答を言うけど、仏教を含めた世界三大宗教のすべてが霊の存在は認めてないんだ。つまり、幽霊だの祟りだの、そういうことを持ち出す宗教は本来その中にないはずなんだよ。仏教にだけ関して言えば、お墓も戒名も同じだ。仏典の中にそれを支持する記述は一切ない。現代仏教にそうした矛盾が蔓延したのは、前に話した日本仏教の気質と日本人特有の民俗学的心霊観や身分差別に根ざした世間体とか、見栄とか……原因を挙げればきりがないよ。過去に融合していた儒教や神道の影響もあるだろうし、そうだな、寺請制が廃止されたことによって、従来、お寺を養ってきた壇家が日常的にお寺に寄進や寄付をしなくなったことも大きな要因だろう。経済基盤の瓦解だね。日本人の精神性の崩壊と言ってもいい。まあ、そういったことが、一層、宗教としての仏教をいわゆる葬式仏教に変化させていったんだ」
「戒名もお墓も違うんですか?」
「そうだよ。『涅槃経』の中で、釈尊は死後自分の骨を各地に埋めることを指示したけど――いわゆる舎利塔だね、でもこれは輪廻の鎖を断ち切って解脱した自分だから許されることであって、一般の信者が同様の行為をすることは堅く戒めているよ。戒名だって、仏典の中に死んだら名前を変えるような記述はない。大体、戒名なんてものは、死者の名前じゃなくて、仏教に帰依した者の名前だ。僕らの場合で言えば、洗礼名に当たる。それでいうなら戒名も出家名じゃなきゃいけない。確かに、最近じゃお寺に頼めば生前授戒をしてくれるところもあるけど、ほとんどの場合は死んでから高い戒名料を払ってつけてもらうよね。これは僕らキリスト者から見ると不思議な慣習だよ。会員ナンバーをもらうために入会料を払うようなものだ。第一、戒名に格があるのも不思議だね。ホニャララ院の下に一文字『殿』とつけるだけで格が上がったり、戒名の値段も数倍から数十倍になる。僕らの持ってる洗礼名には『マリア』の方が『ヴェルナデッタ』より格が上なんて区別はないだろ? それに差別戒名なんて問題もあるしね」
「差別戒名ってどんなのですか?」
「戒名の中に動物に関する文字を入れるんだ。『畜男』とか『禅革門』とかね。そうやって、死んでからも差別する」
「信じられない……。それ、お寺の和尚さんがつけるんですか?」
「まあね。だけど、そうした慣習の全部が全部、仏教だけの責任じゃない。そういうことを求める人たちがいるからあるわけだし……そうだな、真弓には少し刺激が強すぎたかな? もちろん、今では仏教の内部から過去のそうした歴史を清算しようとする動きが出てきてる。だから、さっきの話は忘れていいよ。蛇足だった」
「でも、何か嫌な感じ」
「それはそうだね。だけど、今の仏教は概ね健全だ。それにさっきも言ったように地域の住民と結びついてこその宗教だろう? だから、宗教の側だけを責めるのは間違いなんだよ。話が長くなっちゃったけど、こうしたお墓だとか戒名とかを仏教が公然と認めてる点が問題なんだ。それらは霊魂の存在をも暗に認めた大きな矛盾となる。すべての魂が生まれ変わってくるのなら、御祓いだとか霊魂をダシに商売をしたり、死後の名前を設けてるなんてのは変だと思わない?」
「うん……
「――と、まあ、そういうこと」
「え? それが結論ですか?」
「そうだよ」
「ん? ――もうっ、まわりくどい言い方! 要するに、先輩は輪廻転生を認めているわけですね」
「うーん。まあ、確かに、原始キリスト教をはじめ世界のほとんどの宗教が輪廻の思想を提出していたのは刮目すべき事実だ。そして、現在、新世代の科学でも輪廻転生の検証を行い、それを肯定する証拠をいくつも発見しているのに対して、それを否定する反証は乏しい。真弓、僕はずっと以前からこう思ってた。――太古の昔から、人は……そう、神秘を知る力を持っていたじゃないかって」
「人は神秘を知る力を持っている――か。素敵な考え方ですね。……でも、里見先輩ってば、どうして、素直に信じてるって言えないかなあ?」
「僕はキリスト者だよ。それに輪廻の思想にはある種の危険性も感じてる。死を見つめて生きることは、人生において大切なことだからね。キリスト教が輪廻の思想を禁じたのは、教会支配の体制を維持するためだけれど、もしかすると、当時の宗教者がまだ一般の信者がその宗教的真実を知るには時期尚早だと考えたのかも知れないとも思うんだ。実際、原始仏教が勢力を持ってる国々とか自殺率がすごく高いって言うしね」
「何かうまく誤魔化されたような気もする」
「――あのね、はっきり言うけど、真弓の聞き方が悪いんだよ。僕に踏み絵でも踏ませる気かい?」
「え? あ・・・そっか。ごめんなさい。じゃあ、質問を変えます」
「うん」
「先輩は輪廻転生の考え方が好きですか?」
「素敵な思想だとは思う」
「輪廻転生が現実にあるとして、また、来世もわたしのことを好きになってくれますか?」
「もちろんさ」
「――それが聞きたかったんです」
わたしは里見先輩の胸にもたれかかりながら、ティンクのことを思い出していた。
わたしが高校生だったときに無惨な殺され方をした最愛の猫。
彼の魂は今どこにいるのだろう?
もうこの世界に転生してきているのだろうか?
輪廻転生が本当に宇宙の摂理に組み込まれているのならば、わたしのもとに戻ってきて欲しい。
そうすれば、貴方の存在そのものが輪廻の証明になるから。わたしを優しく抱いてくれるこの人と再び来世で見まみえることの希望になるから。
「ったく、精神的な前戯も楽じゃないよ」
わたしの身体を後ろから優しく羽交い締めにすると、彼は微笑みながらそうぼやいた。
「――ごめんね」
わたしは悪戯っ子のように舌を出して答えた。
そして、パジャマのボタンを外してゆく彼の指先を見つめながら、彼の唇をわたしは静かに受け入れた。
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胎動 蒲公英薫 @kaoru_tanpopo
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