第七章(一)

「先輩は輪廻転生を信じますか?」

「キリスト教にはない」


 里見先輩はそっけなくそう答えると、わたしのパジャマの中に手を入れた。


「こら――」


 乳房を探る彼の手を軽く押さえてわたしは続けた。


「そんなことは知ってます。真面目に答えてください」

「僕らにとって、死からの復活は重要なテーマだからね。キリストの神性の証でもある。まあ、確かに原始キリスト教には生まれ変わりの思想はあったよ。でも、それは現在では認められていないことくらい真弓だって知ってるだろ?」

「うん」

「だから、ノーコメント」

「そんなのずるいです。宗教という思想体系が科学の発展をどれほど阻害してきたか、先輩は問題視してたじゃないですか」

「今夜、僕の部屋に泊まりに来たのは、そういうことを話すためなの?」

「そういうわけじゃないですけど、図書館で本を読んでたら興味が出てきて。――先輩はどう考えてるのかなって」

「しようがないなあ。真弓が求めているのは、宗教思想から見た輪廻かい? それとも、科学的実証主義に基づくもの?」

「先輩がどう考えているのか知りたいんです。だから、先輩が思うように論じてください」

「わかった。じゃあ、仏教徒としての真弓さんは幽霊とか信じてるのかな?」

「え、……うーん。笑ったりしませんか?」

「もちろん」

「それじゃ、信じてます。子供っぽいようでやだけど」

「真弓はいい子だね」

「ほら、馬鹿にする。約束が違います」

「違うよ、本当に評価したんだ。幽霊を信じているということは正常な民俗学的教育を受けてきた人である証拠だ。それに肩肘張って信じていない振りをするよりは、そうやって認める方が素直でよろしい」

「じゃ、先輩も信じてるんですか?」

「いいや」

「もう、やっぱり馬鹿にしてるんですね」

「違うってば。民俗学的には間違いなく存在している。だけど、それを除けば、現実世界に幽霊なんてものはいない。でも、この場はとりあえず存在するということにして話を進めた方が都合がいいんだ。本題は輪廻の話だろ?」

「うん」

「じゃあ、しばらく話に付き合いなさい。すべての魂が輪廻転生をするという仏教の立場では、幽霊を認めることは大きな矛盾となる。そこで、質問。真弓さんはこの矛盾を避けるためにどう考える?」

「うーん。一般的には成仏できない霊魂があるからですよね。この世に未練を残している……例えば、恨みごととか。わたしもそう思ってますけど」

「そうだね。古来からその考え方は、怨霊大国の国民である日本人に代々受け継がれてきた」

「他の国にはないんですか?」

「アジア圏にはあるよ。魂魄結兮天穴穴こんぱくむすんでてんけつけつ

「え? 何ですか、それ」

「唐の詩人、李華りかが詠んだ『弔古戦場文こせんじょうをとむらうふみ』の中の一節だよ。人が死ぬと魂は天に、魄は地に還るものなのに、非業の死のために結ばれてほどけない。と、まあ、そういう意味かな。これも日本的に言えば成仏できないってことだろ」

「何となくピンときません。……その、結んでほどけないってあたり」

「あれ? 真弓は『魂魄』っていう言葉は知らない?」

「それくらい、知ってます。『たましい』のことでしょう……違うんですか?

「まあ、確かにそうだけど、『魂』も『魄』も一文字で『たましい』の意味を持つよ。それを了解した上で、なお両者の意味の違いがわかる?」

「わかりません。何か重要なんですか?」

「僕の持説の上ではね、一応了解事項なんだけど」

「不勉強でごめんなさい。教えて、先輩」

「辞書にも載ってんだけどな。まず、漢字の成り立ちからいこう。『魂』は『云う』に『鬼』って書くよね。『鬼』は日本人がよくいう化け物のことじゃなくて、漢字の発祥の地、中国での本来の意味は『死者』のことだ。日本でも『鬼籍に入る』とか言うだろ? 『云』は『雲』を表す象形文字だ。雲がわきたつ様子を表しているらしいね。すなわち『魂』とは、純粋に霊的なもので、天に属するたましいのことを指す。と、まあ、ここまではいいかい?」

「はい」

「次に『魄』は『白』に『鬼』と書く。『鬼』はさっきと同じ意味だ。そして、『白』は、髑髏のことを指している。これはすなわち『魄』は肉体、要は地に属するたましいのことを言うんだ」

「その『白』が骨を表すっていうのは、こじつけっぽくないですか?」

「あのね。真弓はもともとの意味を取り違えているよ。『骨が白い色をしている』じゃなくて、『骨の色のことを白という』んだ。『白』という漢字はもともと頭蓋骨をかたどった象形文字なんだよ」

「本当ですか?」

「そうさ。日本語はすでに廃れているからね。真弓が本来の意味を知らないのも無理はないだろうけど。……でも、何も書いてない答案を見て、学校の先生が白紙で提出なんて騒ぐのはいただけないね。日本語教育のためには『骨の色の紙のまま提出』と表現するのが本当だ」

「それも、本当?」

「真弓は少し人を疑うことを覚えなさい。まあ、よし。本線に戻るよ」

「もうっ!」

「とにかく『魂』と『魄』の意味は以上でいいね。すなわち、「たましい」を『魂魄』と書くと、天に属する部分と地に属する部分の二つの性質を見事に表現できるわけだ。確か僕の持っている辞書には、『魂は人が天から受ける陽のたましい、魄は地から受ける陰のたましい』と書いてあったと思う。五経のひとつ、『礼記』には『魂氣は天に帰し、形魄は地に帰す』とある。昔は人が死ぬと魂と魄に分かれ、魂は天上にのぼり、魄は地上にとどまるとされたんだ。こう考えた場合、俗にいう幽霊は輪廻転生と矛盾しないよね」

「そっか。幽霊は死後のたましいの中の『魄』の部分であるということですね」

「そういう考え方もできるっていうだけさ。僕は基本的に幽霊は信じないって、さっき言ったろ」

「でも、現実に……っていうか、わたしの場合は伝聞ですけど、怪談話ってよくあるじゃないですか。それを鵜呑みにするわけじゃないけど、伝説や民話には一片の真実が隠されているというのは、里見先輩の持論でしょ?」

「うん。その隠された真実っていうのが、民俗学的なものなんだよ。最初に、民俗学的には幽霊は存在するって言ったろ。日本のように怨霊がここまで国政を動かした国家は世界に類を見ない。でも当時の為政者は怨霊そのものよりも、怨霊となる生前の人物に忠誠を誓った生き残りの人間たちの動向を恐れていたんだと思うね。その方が現実的で、スマートだろ。科学的には遅れていても、昔の人を物事を知らない愚か者だと思っちゃいけない。日本には主人に絶対の忠誠を誓った武士集団がいたからね。主人を討った後、その勢力の残党をどうするかで考え出された方法じゃないのかな。逃亡を重ねて地方に散った彼らを探し出して討伐するよりは、怨霊と化した主人の霊魂を鎮めるための神社を建てて彼らを宥めた方が得策と判断したんだろうと思うよ。最初にこの方法を考えた人は頭がいいね。でも時代が経つにつれて、それは慣例化され、本来の目的よりも本当に怨霊を鎮めることが一般化していったんだ。その傾向に拍車をかけたのが、お上の事情を知らない一般の庶民だろう。お偉いさんがああまでして怨霊を鎮めるのは、実際に恐ろしいことがあったのだろうと邪推してね。そんな風評に尾ひれが付き、やがては浄瑠璃なんかで怪談をやるようになった。つまり、文化の一形態になったんだ。その文化は、時とともに日本人の心に深く根付いていった。民俗学的に幽霊がいると言ったのはそういうことさ」

「でも、実際に被害にあった人だとか、御祓いが効いたっていうのは、どう解釈するんですか? それも本当はただの噂で、里見先輩の言う民俗学的真実ってやつですか?」

「八割方、そうだと思うよ。残りの二割は人の心の中の問題だ。民俗学じゃなくて、精神医学の扱う分野だね。『病は気から』って言うだろ。現代風に言うなら、プラセボ効果だ。呪いや御祓いが時として効果を現すのはそのせいだよ。でまかせじゃなく、実際に幽霊を見た人がいたとしても、それも心の作用だ。日本人特有の伝統気質の中に眠る幽霊を何かの拍子で脳が現実世界に作り出してしまうんだろう」

「脳が……作り出すんですか?」

「そうだよ。真弓が今見ている世界の姿が、本来の姿と全く同一であるという保証はない。真弓は自分の目を通して送られてきた信号を、脳の中で世界の姿として再構成しているんだから。その再構成の作業の中で何らかの誤差が生じても不思議じゃないだろ? 脳は現在見ている像に対して、保有するデータの中から照合、類推して、無理矢理にでも何らかの意味づけを行わなきゃいけない。そこに誤差が生じるのさ。例を挙げれば、隠し絵なんかがそうだ。最初は絵の中に何が隠れているのか、なかなかわからなかったのに、いったん解答を知ってしまうと次からはそれが簡単に見えるようになるだろう。それは脳がそのディホルメされた画像情報と今まで蓄積された過去の情報とのリンクに成功したから、これまでになく良く見えるようになったんだ。それと同じ。光線の加減なんかで柳の枝が幽霊に見えたりするのは、現在見ている像にはっきりとした意味づけを行えないから起こる現象なんだろうと思うよ。つまり、幽霊を信じている人の脳は、その像が過去のデータとうまく照合できずに、仕方なく柳の枝が作る複雑な陰影に幽霊という意味づけをしてその人に見せてしまったと。言ってること、わかるかい?」

「うーん。そういうふうに言われれば、納得できるような気もするけど……」

「何だか騙されているみたい、かい? まあ、無論、これは単なる仮説だけどね。でも、そういう考え方のほうがすっきりすると思わない?」


 そう言って、里見先輩は台所に立った。


「真弓も飲むだろ? ウイスキー」

「え、あ……うん」


 生返事を返しながら、わたしは里見先輩の言葉を反芻していた。


 わたしの脳の中に棲まう幽霊。

 それが存在し得る条件は、わたしの中の神様のケースとほぼ同一だ。


『我思う、ゆえに神あり』


 以前、里見先輩が冗談めかして言ったその言葉が、今はすごくリアルに感じられた。


 自分の肉体や精神に限って言うなら、聖痕や超意識体験などの奇蹟も、内に棲まう神のイメージが為す偽薬効果なのだろうか。


 いや、それだけではない。


 里見先輩が指し示してくれた考えは、個人レベルにおいて世界そのものが相違しているということを指している。

 世界という巨大なイデアにアクセスする、参照データも思考ルーチンも処理能力も異なる個性的な端末――それがわたしたちの脳なのだと。


 彼は幽霊の存在は否定したけれど、まがい物だとは言っていない。ある人にとっては幽霊は現実の存在であり、ある人にとっては違うと言うだけだ。

 それはすなわち、真実も世界も、認識し思考する存在の数だけあるということに他ならない。


 そこまで考えて、わたしは少し淋しくなった。


 どんなに言葉を尽くして話し合っても、どんなにからだの隙間を埋め合っても、わたしと先輩が本当に理解し合うことはないかも知れないと思ったからだ。

 住んでいる世界が重ならないのだから。


 しかし、だからこそ人は幸福になれるのかも知れないとも思う。

 それぞれの脳ハードの中で作り出す仮想現実に住んでいても、知識や愛の言葉を抽象的な言葉という媒体で交換しているから、人はそれぞれの世界から足を踏み出すことなく、人生を生きていられるのかも知れない。


 単一の概念であるはずの宗教が多くの人間に支持されるのも、それが原因だろう。


 人がその宗教的真実を自分の仮想現実の中に、微妙に、そして好意的に変化、解釈して取り入れているからこそ、多くの人間を幸福にする力を宗教は維持できるのだ。


 壇上の教祖が熱っぽく語る、癒しや救済という教義の意味が、彼の想う形のまま信者の仮想現実の中で再構成されることはないのだから。

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