第六章

 午前十時を少し過ぎると、母が林檎を持って御見舞いに来てくれた。


 林檎はわたしの好物だ。


 家では水洗いしてから、そのまま囓って食べる。

 皮を剥いたあと、色が変わるのを防ぐためによく塩水につけるけれど、食塩の咳き込むような辛さが林檎の微妙な味わいを壊してしまうような気がしてわたしは嫌いだった。

 それに林檎の皮もぱりぱりしてて美味しいと思う。


 でも、病室にはまだ千波さんもいることだし、自分の年齢も考えると、里見先輩に言われたみたいに、もう人前ではやっちゃいけないのかしら。


 そう思っていると、千波さんは母からもらった林檎を受け取って、ピンク色のカーディガンの袖で表面を拭いてからそのまま囓った。


「とっても美味しいですね、この林檎」


 と、千波さん。


 目の前にある林檎だけを見つめて、「食べる」という行為に腐心する彼女の姿はとても微笑ましかった。


 まるでリスみたいだと思った。


 天衣無縫という言葉がこれほど似合う女性も珍しい。


 わたしも彼女の真似をして、パジャマの袖で林檎を拭うとそのまま囓って食べた。


 ぱりっ、しゃりっ、と心地よい音が響く。


 千波さんは仲間を認めて微笑んだ。


 林檎を食べるのに作法マナーも何もないけれど、ホテルでフランス料理を食べるときのようにスプーンひとつの使い方にもこだわりを見せることの愚かしさ。

 大地の恵みである食べ物に対する本当の作法は美味しい物を食べられることに感謝して、笑顔で食べてあげることだ。


 幼い子供が嬉しそうに笑ってお菓子を食べる無邪気な姿。

 その食べ物に対する真摯な態度には、どんな作法もかなわない。


 禅宗の僧堂では三〇人、五〇人で食事をしても茶碗の音一つしないという。

 それは「食」という自然な生活の中で、指先、箸の上げ下ろしに至るまで、心の充実を表現するものとされている。

 少し堅苦しいのは別にして、食べ物の恵みに感謝し、食べるという行為にも一生懸命になるという姿勢はとても共感できる。


 フランス料理の作法も本来はそうしたものなのだろうけれど、今は精神を失った形骸だけが一人歩きしている。


 千波さんは母に林檎の礼を言うと、病室を後にした。出ていくとき、小さく手を振ってくれた。


「すっかりお友達になったのね」


 手を振り返したわたしに向かって母が言った。


「うん」


「迷惑かけてるんじゃないの?」

「そんなことないってば」


「それならいいけど」


「千波さんって素敵な人だよ。それに綺麗だし」

「そうね」


 父はどうしても抜けられない仕事の都合で東京に帰っていた。

 明日の午後には山梨に戻ってくるからね、と母が言った。


 わたしの父は、その方面では結構名の知られたソフトハウスで営業の仕事をしている。

 中小企業向けにその会社の業種に応じた財務管理などのコンピュータ・プログラムを開発提供するのが主な業務らしい。


 しかし、少ない資本で開業できるというソフトハウスの性質上、最近では競争相手が増える一方で経営状態はあまり思わしくないと聞いている。

 何でも、去年の秋くらいから、ソフト開発のコストを下げるために、プログラムを幾つかのブロックに分けてあらかじめ作成しておき、プールしておいたその中から顧客となる個々の企業に必要な機能だけを選んで、それを組み合わせる方式の統合ソフトの開発に社運を賭けているのだそうだ。


 営業畑の父としては、そのソフトの開発にはほとんど関わっていないのだろうけれど、日進月歩で進んでいるコンピュータの知識を得るために夜遅く帰ってからも色々と専門誌などを漁って勉強していたようだ。


 最近ではイーゼルに向かう時間もないとこぼしている。


 とはいうものの、わたしも多くの同年代の学生同様、自分の父親が会社でどのような仕事をしているのか、詳しいことは何も知らない。


「お父さん、何してるのかな?」


 何気なく心に浮かんだ疑問を、わたしは覚えず口にした。


「仕事よ」


 母がおかしな顔をして答えた。


「うん……」


 わたしは小さく頷いてみたが、父の仕事している姿を頭の中に思い浮かべることはできなかった。

 そんな自分が何となく情けなく思えた。


 娘がベッドに横たわっている今も、外で働いている父。

 自分を育て、慈しみ、愛情を注いでくれた彼の生活の大部分を知らないでいる娘わたし。


 知らなくてはならないことがたくさんある。

 顔も知らぬ思想家が想い描いた宇宙観よりも、多くの人間の手垢にまみれた宗教論よりも、わたしを愛してくれる人の昼間の姿。


 その苦労や払い続けてきた代償を理解してあげることがはるかに大切なことなのかも知れない。


 そう思うと、ふいに父に会いたくてたまらなくなった。

 父の胸に顔を埋めて、懺悔と感謝の言葉を囁きながら、抱きしめてあげたいと思った。


 こみあげてくる熱いものを母に誤解されたくなかったので、わたしはベッドから降り立つと病室の窓辺へ向かった。

 クリーム色のカーテンを開けようとすると、母が厳しい声で制した。


「どうして?」


 振り向きざまに涙を拭う。


「テレビ局の人とかが大勢来てるの」


 心配そうな声音で母が言った。


 わずかに開けたカーテンの隙間から外の様子を窺うと、カメラを抱えた人間やテレビ局の中継車の姿が見て取れた。


 唯一の生存者――彼らが柳瀬真弓という人間に与えた一方通行の人格。


 それがわたしだった。


 わたしは渦中の人間なのだ。



          *



 午後から脳波の検査があった。


「外傷から見て、頭は打ってなさそうだけどね。一応、念のためだから」


 と、穂澄先生。


 昨日はわたしが取り乱していたのでできなかったのだそうだ。わたしは昨日の醜態を思い出し、顔を紅潮させながら、迷惑をかけたことを謝罪した。


 ベッドに横たわると、額とこめかみにゼリーのようなものを塗られる。

 脳波というから頭のそばだけかと思ったら、あごの両側にまでセンサーをつけられて、わたしは少し閉口した。


「それじゃ、検査が終わるまで、目を閉じてリラックスしていてください」

「はい」


 なるほどね、とわたしは思う。


 こうして照明の落とされた薄暗い部屋で検査するのも、そういうわけかと合点した。


 自分では取り立てて何かを見ているつもりのない状態でも、脳は視神経から送られてくる電気信号をフルカラーの三次元像として意識の中に再構成する。

 同時に再現した像の中の個々の物体に対して、蓄えられている過去のデータと照合し、名前の判別や様々な意味づけを行う。


 そのように、視覚情報を処理するのは、脳にとっても大変な作業だ。


 当然、脳の働きは活性化され、脳内の電気信号のやりとりは高速化される。

 周波数が上がるのだ。


 脳波は脳の活動状態を電気信号として受け取り、波形グラフとして具現化するものだから、目を開けているだけで、グラフの描く周期は小さくなる。


 それにしても、こんなふうに簡単な仕組みで微弱なシナプスの電気信号を感知できるとは、科学の進歩も大したものだ。

 しかし、たとえ検知できるとして、それだけで人の脳の活動状況を判断しようというのはグラフや数値データだけを重視する現代医学の傲慢だと思う。


 検出できるのは、ただの波形だ。

 だとすると、その個性は振幅の大きさとその周期だけではないか。


 それだけのデータで複雑な人間の思考形態や精神の状態を解析しようというのだから、何とも心許ない話だ。


 穂澄先生に言われたとおり、目を閉じて静かに呼吸しながら、わたしはぼんやりとそんなことを考えていた。


 検査が終わると、穂澄先生は難しい顔をしていた。


 わたしが、何かおかしいんですかと聞くと、


「柳瀬さん、ちゃんと目を閉じてたかい?」


 と、先生は言った。


「はい」


 指示された内容が意味することは知っていたから、検査の間、わたしは先生の言いつけを守って大人しく目を閉じていた。


「あの・・・どこか悪いんですか?」

「うん、ちょっと不安定なんだよね。ほら、グラフのこことここの部分の幅が違うでしょう。気分が落ち着いているとき、普通はこうならないんだけど」


 先生が指し示した出力用紙の部分には波の周波が激しく変動している部分が何ヶ所かあった。


「考え事をしていたからかなあ?」


 わたしは先生に同意を求めるように呟いた。

 考えるという行為も脳内で行われる理知的活動だから、脳波に影響を与えるはずだ。


「どんなことだい?」

「別に大したことじゃないですけど・・・」


 先生の言葉に答えながら、わたしは自分の思考過程を瞬間的にリプレイしてみた。


 目という感覚器を通して伝えられる現実の映像。

 その電気信号を元に構築される脳の中の現実リアル


 そして、浅学故に許された現代医学への批判。


 本当に大したことじゃない。


 目を閉じていなさいという穂澄先生の指示が、以前聞いた里見先輩の話を喚起しただけで、わたしは何も考えていやしない。

 あれは、確か輪廻転生の話にかこつけて、里見先輩に甘えていたときのことだ。


「すみません。まずかったですか?」

「うん。――まあ、昨日の今日だからね。なに、昨日ここに運ばれてきたときに撮ったCTでは何も異常はなかったから、そう心配することもないでしょう。また、明日、再検査をしようね」


 穂澄先生はそう言って、わたしを安心させるかように微笑んだ。

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