第五章(三)
「真弓、今日の午後、空いてる?」
「四時間目休講だから空いてるけど、うーん、どうしようかな? デートのお誘いですか?」
「デートというほどのことでもないよ。喫茶店でお茶でもどうかなってくらいさ。でも、何か予定でも入ってるの?」
「うん。美容院行こうかなあって思ってただけだけど」
「髪、切っちゃうのかい?」
「うん。暑くなってきたから、鬱陶しくって。先輩はショートの女の子は嫌い?」
「好みを言わせてもらえれば、ロングの方がいい」
「ふふっ。だろうと思った」
「どうしてわかるの?」
「普段の言動とそれから・・・あのときにわたしの髪を触る仕草」
「なるほどね。真弓さんは何でもお見通しってわけだ。で、真面目に髪、短くするのかい?」
「ううん、うそです。安心して。毛先を切り揃えてもらいに行くだけだから。ねえ、ちなみに先輩はどのくらいの長さが好き?」
「肩から下三センチ以上、胸までの範囲内」
「うーん。素敵な表現だわ。まるで、生徒手帳に載ってたスカートの丈の規定みたい」
「そう。色は白でワンポイントまで許す」
「それじゃあ、靴下です。あ、ねえ、ソバージュとかしてもいいですか?」
「真弓はもともと素直な髪してんだから、ストレートのままでいいよ。ちなみに、ああいうのってパーマ当ててするの?」
「うん。そうだと思う」
「ふうん。ますます日本語は衰退してゆく。ソバージュっていうのは、フランス語で『野生の』って意味だ。野生の髪を人工的に作るのは矛盾してると思わない?」
「別に思いませんけど……ニューエイジだから」
「理由になってない。まあ、髪型に関して希望を言わせてもらえれば、現状維持が望みです」
「むう。里見雅彦も恋人の外見にはこだわる、と」
「まあね。その程度は俗世の垢にまみれているということさ。でも、真弓がそうしたいんなら僕のことは気にしなくていいよ」
「ううん。あなたの色に染まりますことよ」
「それはどうも。でも、本当に真弓の好きなようにしたらいいよ。おかっぱ以外なら許す」
「え? おかっぱ、嫌いなんですか?」
「いいや。別に嫌いなわけじゃないけど、思い出さない? 妖怪展。うん、あの写真は永久保存にしよう」
「ああっ、忘れてた! 大学祭のときの写真、破棄したんじゃなかったんですか?
「いいや、まだ持ってる」
「もおっ、知らない! どうせ、ガマガエルですっ。あのときの言葉、今でも引きずってるんだから」
「ごめんごめん。あれはさ、ほら、真弓の自主性を引き出すためのだね・・・発言というか、戯れというか。まあ、親愛の表現だ」
「ふうん。なるほどね、先輩ってば、昔、スカートめくりするような男の子だったんだ」
「いいや、残念ながらそういう甘美な少年時代は過ごしていない。大体、真弓は自分のルックスに自信あるだろ? 鏡、見てみろよ。アイドル並の美少女だ。だから、こっちも安心して冗談言えるんだよ。わかるだろ? もう、いい加減勘弁してくれって」
「それ、本心から言ってくれてます?」
「言ってる。じゃなければ、アイドルとは言わずにチャイドルと言うさ」
「どうせ、幼児体型だもん。本当に意地悪なんだから。真弓さん、可哀想……」
「あはは、機嫌直ったみたいだね」
「まだです。真弓さんは埋め合わせを所望します」
「喫茶店でパフェでもおごるよ」
「それだけ?」
「じゃあ、それを食べながら、思索の旅に連れてってあげよう。一泊二日の」
「一泊二日は余計です。最近外泊多いわねって小言言われたばかりだから」
「マジで? やばいなあ」
「ふふっ、里見先輩も普通の男の子の悩みを持ってるんですね」
「当たり前だろ。式を挙げるまでは、おじさんとおばさん、二人とも怖い」
「大丈夫ですって。気に入られてるから」
「なら、いいけど……じゃ、まあ、歩きながら話をしようか?」
「うん。どんな話題?」
「そうだな。じゃあ、さっきの真弓の言葉を導入に使おう。真弓はさっき自分のことを『可哀想』って表現したよね」
「うん。あ、また、日本語になってないって言うんでしょう?」
「まあね。『可哀想』って言葉は、『不憫だ』とか『同情を感じる』という意味だから、基本的に外の対象に使用する言葉だ」
「わかってます。でも、みんな、わたしみたく使ってませんか?」
「そうだね。でも、『可哀想』という言葉がそういう使われ方をするのは、個人の中の自我が不健全に肥大化してる証拠じゃないかと思うんだ」
「うーん。そんなに深く考えて使ったわけじゃないけど……気に入らない?」
「いいや。誤解してるかも知れないから言っとくけど、真弓に注意をしてるわけじゃないんだよ。個人の表現に対して、僕の主観が混じることの方が問題だ。だから、別に構わない。今は真弓の言葉をダシに使って話を進めているだけだって。それに僕個人は真弓の言葉遣いやレスポンスはユニークで好きだよ」
「ああ、よかった。話の腰を折ってごめんね。――先輩のさっきの考えはわたしも理解できます。だけど、それがそんなに大きな問題なんですか?」
「現状ではまだ表面化されていないけど、いずれ大きな問題になるような気がする。自我の肥大化とともに、人は自分のことさえ他人事のように感じるようになってきているとも言えるな」
「え? でも、その二つの精神の変化は対立してませんか? それに客観性の向上は悪いこととは思わないけど……」
「対立してるけど、矛盾してはいない。心の中の問題だからね。多重人格者のようにはっきりと独立していないだけで、誰の意識の中にもいろいろな価値観を持った人格は間違いなく存在している。それから、客観性の向上だけど、真弓はそうした変化の良い面ばかりを考えようとしてるだろう? 真弓のそうしたプラス思考は評価するけど、人間の未来についてはもう少し悲観的に考えておいた方がよい」
「どうしてですか?」
「真弓が傷つくのを見たくないからさ。ヒトという種はね、確実に衰退していってる。そして、これからもますます駄目になっていくよ」
「そんなことないと思います。わたしが良い面ばかりを考えているとしたら、先輩は悪い面ばかりを考え過ぎです。昔と違って、人は自然保護にも乗り出してるし、川に落ちた鹿とか、岸に乗り上げてしまった鯨なんかを大勢が協力して助けてあげたりしてるじゃないですか。ああいうの見てたら、まだまだ人間も捨てたものじゃないって気になりませんか?」
「人間が環境に配慮するようになったのは、科学が発達して自然の摂理や許容量なんかがわかってきたからだよ。自分たちのための環境保護だ。その証拠に人間は疫病のウイルスを絶滅させようとしているだろう。すでに米露の研究所にしか生き残っていない天然痘のウイルスはテロ対策という名目で廃棄が延期されたけど、生命倫理の問題からウイルスを救おうなんて動きは全くない。自我がないとはいうもののウイルスも生命の一つだよ。人が自分たちの暮らしのために意図的に一つの種を絶滅させようとしていることに違いはない」
「うーん。確かに天然痘は人間しか宿主に出来ないっていうから自然界で平和的に共存するのは無理ですね」
「そうだろ? そういう結論に落ち着くしかないんだ。二者択一の問題では、ある種が繁栄するためには敵対する種を滅ぼすしかない。天然痘ウイルスの悲劇は人間の敵にまわったことだ。だから、人は環境を擁護してるんじゃなくて、自然の良いところだけを残しつつ、自分たちの都合のいいように環境を改造しているだけさ。もちろん、僕はそれを悪いと言っているわけじゃない。人為も自然の摂理の一つだからね。すべては神の御心のままにってやつだ」
「でも、一方で共存可能な種は可能な限り助けようとしてるでしょう? 少しくらい日常生活が不便になっても」
「それは自らの精神的安寧を得るための行為だよ。都会の人間がガーデニングと称して土に触れたがるのはそうした理由からだ。自然は本来動物である人間のストレスを大幅に軽減する。同じように鯨や鹿を助けるのも娯楽の一種だ。自分の利益とは関係の薄い事象に対してヒューマニズムを振りかざして奔走する。退屈な日常を忘却するためにね。何にせよ、不純な動機だと思わないかい?」
「思いません。動機に不純も純粋もないわ。同じように、善と偽善の違いもないと思う。最終的に善を裏切れば、それは偽善じゃなくて悪でしょう。逆を言えば、偽善や不純な動機からくる行動だって最後まで貫き通せば、それは善の行為と区別なんて出来ないわ。すなわち、偽善なんて存在しない。偽善なんてものは、客観の中だけにある幻想です」
「真弓の言いたいことはわかるよ。確かにその通りだ。だけど、偽善は主観の中にも存在するだろう?」
「それは偽善じゃなくて、自嘲とか、内省とか、照れと表現される感情です。だから、人が環境に関わってゆくのだって、どうしても共存できない種もあるけど、その他多くの生命を大切にしようと努力を続けてる限りはどんな動機が背景にあってもいいと思う。その中にはきっと愛とか優しさが含まれてると思うから。どう? これでもまだ先輩は人は駄目になっていくって主張する?」
「むう、なかなか手強いな」
「勝利?」
「いいや、まだ抵抗する。そうだな。映像や活字というメディアだけで表現された娯楽作品があるよね。映画だとか小説だとか」
「うん」
「『可哀想』という言葉が自分のことを表現するものに変化していけば、近い将来、そうしたメディアが人を感動させることはなくなると思うよ」
「言葉が変化しただけでそうなるとは限らないと思うけど」
「いや、それは真弓の見解が間違ってる。言葉は自分から変化するものじゃないだろう? 時代や人間の概念の変化が言葉を変化させるんだ。言葉というのは人間の思考形態の鏡だ。だから、ナポレオンは自分の辞書に不可能という言葉はないと言った。原始的な共同社会では『盗む』という言葉がなかったっていうけど、それも同じ理由だよ。所有という概念がなかったから、他人のものを盗むという行為もそれを表現する言葉も生まれなかったんだ」
「うーん。確かに言われてみればそうですね」
「だから、虚構であれ現実であれ、人は他人の行動や人生に感動できなくなる。それは主人公や他人に対して感情移入する人間の能力が衰えつつあるからだ。他人の気持ちを自分のことのように想像する能力の退化だね」
「泣いたり笑ったりすることが出来なくなるんですか?」
「そうだね。娯楽作品を見て、笑うことは出来るかも知れない。感情移入したり自己を投影したりする必要がないからね。自分の殻の中に閉じこもったまま他人を笑うことはたやすい。すでに現在、他人の不幸を見せて笑わせるお笑いのパターンは隆盛を誇っているだろう? しかし、そこから生まれるのは嘲笑の類だ。ほのぼのとした笑いなどそこにはない」
「うーん、嫌な世の中だわ。じゃあ、人は自分のことでしか泣けなくなるんですね」
「最終的にはそれもなくなるかも知れないけどね。外の世界に対して不感症になってしまえば、感動するという心も鈍化してゆくだろう? 何にせよ、自我の肥大は種そのものに悪影響をもたらす。同種であれ、他種であれ、それらに共感する能力を失ったとき、人がどこまで自己中心的になるか想像もつかないよ。――さて、この店でいいかい?」
「うん。どこでもいい。――でも、パフェっていう気分じゃないなあ」
「じゃあ、何にするの?」
「シロップ抜きのアイスコーヒー。今のわたしみたいに冷え切ってるやつ」
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