第四章(二)

 その不敬ゆえに、キリスト教は彼を罪に問う。

 彼は悪だと。


 仏教においてはどうだろう?


 全ての人間は仏になる種を秘めている――一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょうの思想は仏教の根幹だ。この思想は、日本においてすでに八世紀には拡大され、万物に仏性があるとされた。それは中国仏教における草木国土悉皆成仏そうもくこくどしっかいじょうぶつの思想に酷似している。人に仏性があるように、道ばたの石にも仏性がある。

 わたしはこの思想に感銘し、自身の中にある神の肥やしとした。


 しかし、文献を読み解くにつれて、魅力的だった仏教の一元論的な救済思想にも、キリスト教的な善悪二元論の匂いを感じるようになった。


 一切衆生悉有仏性を説いている大乗の『涅槃経』の中に、同時に「一闡提いっせんだい」の人間だけは救済できないとされていたからだ。


 一闡提とは、己の罪を慚愧しない善根を持たない人間を指す。

 すなわち、仏法を誹謗する人間だ。


 仏教においても、救済できない悪はあったのである。


 有情無情を問わず全てのものに仏性がある、

 一見、善悪を超越したかにみえる近代日本仏教のこの解釈は、むしろ善悪の問題を放棄しただけのような気がした。


 無論、仏教者の中にも善悪の問題を真剣に問うた人物はいる。


 親鸞聖人がそうだ。


「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」


 悪人正機説と呼ばれる親鸞聖人の思想は、弟子の唯円ゆいえんが著したとされる『歎異抄』第三節であまりにも有名だ。


 しかし、これには著者である唯円の主観が大きく影響している。

 聖人の善悪に対する考え方は主著の『教行信証』から学ぶべきであり、『歎異抄』はあくまで二義的な資料でしかない。

 何故なら、『歎異抄』は師である親鸞聖人の言葉を、彼の死後、唯円が編集し著した聞書に過ぎないからだ。


 自力があって、初めて他力がある。


 主著『教行信証』の中で親鸞聖人は、父を殺害するという五逆罪を犯した阿闍世あじゃせ王を決して無条件に成仏できるとはしていない。


『涅槃経』の中の釈迦が阿闍世王にしたように、悪人が心から慚愧の念を起こし、善き師につき、仏法に帰依して、はじめて救われるのだと親鸞聖人は言っているのだ。

 聖人を心の師と仰いだ蓮如が『歎異抄』を秘本としたのも、半ば無条件に悪人の成仏を説く『歎異抄』の持つ危険性に気付いたからであろう。


 宗教は個人を救済するとともに、社会を救済する義務を負う。


 それは言うなれば、武士に帯刀を許し、殺人さえもが横行していた中世の社会に対してある意味で強制力の伴う指導力が必要だったということである。


 地獄や因果応報と呼ばれる「脅迫」という名の指導力が。


 その際、宗教において不敬を叫ぶものを悪とするしかなかったのだ。

 何故なら、悪を失った宗教はその指導力をも失うからである。


 わたしはそっと溜め息をついた。


 全ての宗教に生ぐさい偽善を感じる。

 布教という名の勢力闘争とその時代を統べる権力への媚び。そのためには「真理」の変形さえも辞さない。


 西洋宗教史をひもとけば、キリスト教にも現在では認められていない輪廻転生の思想があったことがわかる。


 しかし、四世紀、コンスタンチヌス帝の時代にローマ帝国の国教となるべく、その思想は棄てられた。

 さらに六世紀に行われたコンスタンチノープルの宗教会議において、輪廻転生の思想は異端であると公式に宣言される。


 これらは全て国家や教会支配体制の維持のためだ。

 輪廻転生の「真理」を信仰していたカタリ派やグノーシス派の人々は異端とされて虐殺まで受けた。


 ユダヤ教においてもそうだ。

 かつて、ギルガルと呼ばれた輪廻の思想は科学志向の西欧社会に対応するため、やはり歴史の闇へと葬られている。


 同じような生き残りのための方策は、日本でも行われた。

 わたしの家は浄土真宗だけど、真宗を代表とする近代の日本仏教もまた、国家と時代に阿るためにその根本となる教義ドグマを歪めて解釈した歴史を持つ。


 元来、日本の仏教は、明確な「儒釈道合一論」が確立された隋の時代に中国から輸入されたものだ。

 それを基盤にした「神儒仏合一論」、例を挙げれば本地垂迹説のような神仏混淆論が日本仏教の奥底に流れているのは当然だろう。


 だけど、そのような奈良期の神仏習合や明治維新における神仏分離は別にして、昭和の大戦で日本仏教が自らの「真理」を曲げてまで組織の存続を謀った所業を、わたしは認めることができない。


 天皇を神とした大戦下の国策のもと、「戦地に赴き皇国のために死ぬことが仏の道に通じる」と説法し、多くの人々を死地に追いやる手助けをした仏教の罪を。


 仏教もまた他の多くの宗教同様、思想が生き残るための最も恥ずべき道を選んだのだ。


 ――果たして、宗教とは何なのだろう?


 この問題に対して、わたしは何度か里見先輩と話したことがある。


 里見先輩は、わたしの想う神様を健全だと評価したけれど、宗教的な神にはなれないねと言って笑った。


 わたしは宗教の神の性質を一面でしかとらえていないと。


「宗教が目指していることは、人間に涅槃を提示することだ。涅槃というのをわかりやすくサンクチュアリと言い換えてもいい。それがどういうことかわかるかい?」

「救済……じゃないんですか? 天国とか」

「うん。確かに正解だけど、それはほんの一部分だ。宗教はそれぞれの宗派における『真理』を提示して、人間存在の意味を解き明かし、神という究極の母胎に人間存在の根を下ろさせることを目的としている」

「あ、そうか。そういう表現をすると解釈しやすくなりますね。要するに、『人間とは何か』という疑問に答えるのが宗教であると」

「その通り。宗教はもともと哲学から生まれたものだからね。『人間とは何か』っていう哲学の基本的な命題が下地になっていて当然なのさ。それについて、ほとんど全ての宗教では、『人間は神への途上にある』という解釈を与えているよね。真弓はどう思う?」

「わたしは……人間は人間で、やっぱり神様は近寄りがたい存在だと思うけど」

「甘えんぼだなあ」

「だって、そっちの方が安心できるでしょう? 見守られていたいんです」

「相手が神様じゃなきゃ、嫉妬してるところだ」

「――本当ですか?」

「うそ」

「……ひどい。嬉しかったのに」

「まあまあ。むくれないの。こういうふうに話したのは、こないだ真弓が分かりにくいって言ってたことに繋げるためだったんだから」

「あ、ニーチェですか?」

「そう。嬉しくない?」

「うーん。……許可します」


 人間とは何か。


 この疑問にドイツの生んだ偉大な思想家フリードリッヒ・ウィルヘルム・ニーチェは答えて言った。


「人間は、自己の中に眠る、キリスト教が知り欲したよりももっと完全で偉大な人間性への途上にある」と。


 この完全で偉大な人間性に至った人間こそニーチェの唱えた「超人」である。


 彼は言う。


「自己の能力の領域が人間の唯一の領域である。人間に作ることのできないものは、人間的ではない。人間は人間の能力の領域の中に止まるべきであるが、しかし、この領域の中にも人間の偉大なる姿、目標となる姿が隠れている。人間は神を作ることはできないだろうが、しかし、超人を作ることはできるのだ。それを最上の営みとせよ」と。


 そうして生まれたのが「神は死んだ」という有名な言葉である。


「神は死んだ」と叫び、人間には原罪などないのだと言い切った彼は、キリスト教の倫理観や道徳観を言葉を極めて批判する。

 さらに、偽善的なキリスト教の善悪二元論を『善悪の彼岸』という著書をもって看破した。


 その善悪を超越した人間を具現化したのが、ドストエフスキーであろう。


『悪霊』の中で彼は、あらゆる罪悪と放蕩の限りを尽くし、まるで悪魔と神が共存しているかのような人間性を持つスタヴローギンという男を創造して、キリスト教的善悪二元論では伺い知ることのできないような深遠な精神世界を構築した。

 また、『白痴』においては、スタヴローギンとは対照的な「無垢なる人間」像として、善と寛容の支配する社会の実現を願った純粋な心の持ち主、ムイシュキン公爵を造型している。


 しかし、わたしは彼らの言わんとした世界もまた、幻想に過ぎないような気がしてならない。

 宗教や道徳、共同体の倫理を否定し、徹底した個人主義を突き詰めた彼ら。

 宗教が説かんとする道徳を弱者の奴隷道徳とし、人間の真なる尊厳の探求を高らかに歌った彼らの思想は壮絶なまでに美しい。


 しかし、人はそれほど強くなれるのだろうか?


 神なしで生きられるのだろうか?


 そういうことを考えるのは、ただわたしが弱いだけかも知れないけれど、個人主義を貫く人間の中にも自己を超越したところにある神の像を求めていなくては、人は生きられないような気がする。


 ニーチェの唱えた「超人」は宗教の枠を越えた独自の存在であるとはいうものの、あくまで人間であり、自己である。


 暗黒の海原で迷子にならないためにはどこかに燈台が必要だ。

 進むべき道を指し示してくれる大いなる光が。


 作品の中でスタヴローギンは自殺し、ムイシュキンは挫折した。

 ニーチェも四十四歳にして発狂している。


 彼らは「超人」になったのだろうか。

 それとも神の光を見失ったのだろうか。


 わたしは後者だと思う。

 人の人生や幸福は、その本人でさえわからないものだとロシアの詩人は言うけれど、わたしには彼らの噎び泣く声が聞こえてくるような気がする。


 やはり人には宗教が、いや、宗教の説く安息場所が必要なのだ。

 導いてくれるものの存在が必要なのだ。


 それは動かしようのない事実だと思う。


 その点において、宗教は人間を熟知している。

 居場所を求めて彷徨う人間の弱さを知り抜いている。


 何故なら、宗教は人にあわせて作られたのだから。

 人間があってはじめて、そこに宗教が生まれたのだ。


 釈尊は言う。


「わたしは人がよりよく生きる道を説いているだけである」と。


 人がよりよく生きる道。

 これを国家憲法になぞらえるなら、神だの、救済だの、地獄などというものは、その憲法を掲げた国家を円滑に動かすための法に過ぎないのではないかと思う。


 父を殺すこと。

 母を殺すこと。

 僧を殺すこと。

 仏教の組織を乱すこと。

 仏の躰から血を流すこと。


 仏教における五逆罪は、まるで仏教そのものを守るために制定された刑法のようだ。

 ならば、審判を下す神とは、単に人々の心を警邏する憲兵に過ぎない。


 それなのに、立場を忘れた憲兵はいつのまにか一人歩きを始めた。


 神とは、ただそれだけのことなのかも知れない。


 善悪の狭間に揺れる人の心を戒めるために、方便として生み出された天界の怪物。

 宗教そのものの守護神。


 確かに宗教はある意味で人を癒しているかも知れない。


 だが、癒しの根本は宗教などではない。

 人は宗教によって癒されているのではなく、自分で自分を癒している。


 ティンクが死んだときのように、母は今度もわたしを癒しつつある。


 それは母がわたしを愛してくれるように、わたしも母を愛しているからだ。

 彼女に愛を注いでいるからだ。


 両親でも良い、恋人でも良い、信念や趣味、仕事でも良い。


 人は何かに愛を注ぐことで己れを癒している。

 現在において、多くの場合宗教がその対象になっているに過ぎないだけで、真の癒しの根源はその人個人の愛を注ぐ対象であり、生き甲斐であるとわたしは思う。


 本来、そこに神は無用なのだ。


 人が、さえ見つけることができるなら。

 人が自分の中に愛を注げる生き甲斐を持ち、日々の生活の中でよりよく生きる道を踏み外しさえしなかったならば、神などと称する信仰の対象も心の憲兵も不要となる。


 曲がりくねった人生の山道を、倫理や道徳といったガードレールなしに安全に走ることができるようになったとき、初めて人は宗教的な枠組みを越えた涅槃に到達し、誇り高く生きてゆけるようになるのだろう。


 ニーチェの言う「超人」とはそういうことなのかも知れない。


「人間は自由な存在だ。何をやっても許される」


 ドストエフスキーは作品の中でそう語った。


「あそこにいる少女を強姦しようが、何をしようが、本来構わないのだ。しかし、そのことに気付いたとき、君はそんなことはしなくなるだろう」と。


 この、一見矛盾している言葉の中にこそ、宗教や倫理、そしてヒトという種を呪縛してやまぬ「思考の檻」からさえも解放された魂の涅槃があるような気がする。


 ゆらゆらと揺れるわたしの思考。

 行きつ戻りつを繰り返し、保護者の名前を呼んで彷徨う迷子のように、わたしは神をなじり、そして、庇護を求めた。


 平安初期の僧景戒けいかいが著した『日本霊異記』に語られる数々の因果応報の物語。

 善行を積んだ人間には仏の救済の手が差しのべられ、悪行を積んだ者は報いを受ける。

 心正しき人を暖かく見守る神の姿がそこには描かれている。


 ほんの二日前までは、わたしはそうした神の存在を疑わなかった。

 あの悲劇からわたしだけを救う前までは。


 でも、いまはわからなくなってしまった。


 そんなものはただの夢物語に過ぎない。

 人を裁き、救う者、そんな都合のいいものは天界にはいないのだ。


 人を裁くのは人以外にない、と里見先輩は言った。


 冤罪や偏見は人間の不完全さゆえになくなることはないけれど、最終的な善悪の判断は人に委ねられている。


 情けは人のためならず。

 現世人間界における因果応報のサイクルが神の創った賞罰の摂理だと。


 今はまさしくそう思う。


 ――運命こそ神。


 里見さんの考えが何となくわかった。


 でも、わたしは彼ほど強くはなれない。


 わたしの中の神様はわずかだけど、まだ息をしている。

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