第5話:都会という名の迷宮、微笑みの裏の牙
中学一年の初夏。父が叔母の仕事を手伝うことになり、私たちは県外へと居を移した。
新しい中学校の制服は、紺青色のセーラー服だった。
鏡の前で、何度も襟を整えた。田舎の小学校にはなかったその意匠に、私は淡い期待を抱いていた。この制服を着れば、これまでの自分を脱ぎ捨てて、新しい「誰か」になれるのではないか――。
しかし、現実は甘くはなかった。
転校早々に始まった期末テスト。同じ公立中学校とは思えないほど、授業のレベルは桁違いだった。黒板に踊る数式も、同級生たちが当然のようにこなす課題も、私にとっては未知の言語のようだった。
「ついていけない」
その焦燥感は、転校生という頼りない肩書きに、重い鉛を流し込んだ。
席の近い子が、屈託のない笑顔で声をかけてくれたとき、私はようやく肺に空気が満ちるのを感じた。「友達ができた」。そう安堵したのは、致命的な勘違いだった。
彼女たちの遊びは、徐々に度を越した「儀式」へと変貌していく。
体育の準備運動では、体が痛いと訴えても二人がかりで背中を無理やり押し込まれる。水泳の授業では、ふざけ合う歓声の中で、私の頭は幾度となく水底へと沈められた。
水の中で、ぶくぶくと吐き出される自分の息を見つめながら、私は死の淵にいたあの三歳の頃の静寂を思い出していた。
学校という閉鎖空間には、奇妙な掟が存在した。
校舎の両端にあるトイレ。一方は一年生用、もう一方は二年生用。
一年生用の入り口には、いつも誰かが「通せんぼ」をして立っている。「あんたの入る場所なんてないよ」。言葉にされない拒絶。朝から放課後まで、一度も用を足せないまま授業を受けるのは日常茶飯事となった。
ある日、膀胱の限界が訪れた私は、弾かれるように二年生用のトイレへ駆け込んだ。
案の定、上級生たちに囲まれた。けれど、震える声でありのままの窮状を話すと、返ってきたのは意外なほど柔らかな言葉だった。
「大変だったね。いいよ、いつでもこっち使いなよ」
その優しさに触れたとき、私は初めて涙が出そうになった。
けれど、その小さな光さえ、教室の闇は容易く飲み込んでいく。
放課後の掃除の時間。トイレ当番だった私を個室に閉じ込め、彼女たちは笑いながらホースで水を浴びせかけた。
びしょ濡れになったセーラー服は、驚くほど冷たかった。
重く肌に張り付くその感触は、私が憧れた未来そのものが、冷たく腐敗していく合図のように思えた。
「遊びに行こう」と誘われ、期待と不安を抱えて出かけたあの日。辿り着いたのは、見たこともない知らない土地だった。気づけば、一緒にいたはずの友達の姿は消えていた。
右も左もわからない。都会の道は無機質にどこまでも続き、見上げる空はあまりに広すぎた。
「もう二度と、家には帰れないんじゃないか」
一人きりで自転車を漕ぎながら、込み上げてくるのは恐怖というより、静かな絶望だった。都会の夕暮れは、私一人を消し去るには十分すぎるほど暗かった。
ようやく辿り着いた家で、父と叔母が冷淡に放った言葉が、最後の一撃となった。
「さっき、あの子たちが工場まで謝りに来たぞ。あんたを置いて行っちゃったって」
私を置いてきぼりにした彼女たちは、私が帰り着く前に大人たちの元へ駆け込み、「善意の失敗」として先手を打っていたのだ。
父に真実を打ち明ける勇気などなかった。小学生の頃から、怒れば何をするかわからない父。
学校にも、家にも、友達の輪の中にも、私の居場所は一ミリも残されていなかった。
「もう、終わりにしたい」
十年前、一度は止まったはずの鼓動。
生き延びてしまったことを呪いながら、私は暗闇の中で膝を抱えていた。
まだ、あの「伝説の少女」が、テレビの中から私を連れ出しに来る、その少し前のことである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます