第5話 聖女と再会

『奈落の迷宮』。 王都の地下深くに広がるそのダンジョンは、階層が深くなるにつれて強力な魔物が跋扈する、死への片道切符だ。 通常、上層から中層へ進むだけでも数日を要する。慎重な索敵、トラップの解除、そして休息が必要だからだ。


だが、今の俺たちにそんな時間はなかった。


「し、師匠ぉぉぉぉッ!! 速すぎますぅぅぅッ!!」


背後でアルの悲鳴が聞こえる。俺は彼の襟首を掴み、小脇に抱えて走っていた。 走る、といっても地面を蹴ってはいない。 一歩踏み出すたびに、風に感謝し、摩擦に感謝し、重力に感謝する。すると、世界が俺を前へと押し出してくれる。 滑るように。あるいは、最初からそこにいたかのように。俺たちは風になっていた。


階層主フロアボスですッ! 師匠、止まってくださ――」


目の前に、通路を塞ぐ巨体が現れた。 第五階層の主、ミノタウロス。鋼鉄の斧を持った牛頭の巨人が、侵入者を排除しようと咆哮を上げる。


「ヴォォォォ――ッ!?」


ミノタウロスが斧を振り上げる動作に入った。 俺は速度を緩めない。ただ、すれ違いざまに木刀を一閃させた。


「――感謝」


パンッ。


乾いた音が一度だけ鳴る。 俺たちがその横を通り過ぎて数秒後、背後でドスンという重い音が響いた。 ミノタウロスの巨体ではなく、その手に持っていた鋼鉄の斧と、角、そして腰布の紐だけが切断され、戦意を喪失した怪物が恥ずかしそうにうずくまったのだ。


「え? ええええ!?」


アルが混乱した声を上げる。


「殺生は無益だ。それに、あいつの筋肉は見事だった。鍛錬への敬意として、武器だけをもらった」


「武器だけ斬るほうが難しいですよ!? ていうか今、斬りました!? 通り過ぎただけに見えましたけど!?」


俺は答えずに足を速めた。 十階層、十五階層、二十階層。 本来なら数週間かかる道のりを、俺たちはわずか数十分で駆け抜けていた。 罠が作動するより速く、魔物が認識するより速く。


ただ、胸のざわめきだけが大きくなっていく。 深層部に近づくにつれ、空気中の魔素が濃くなり、どこか禍々しい気配が漂い始めていた。


(急がねば……)


俺は木刀の柄を強く握りしめた。 聖女様。どうか、無事でいてくれ。


『奈落の迷宮』最下層、第五十階層。 そこは、腐臭と血の匂いが充満する絶望の檻だった。


「……ハァ、ハァ……ッ! みなさん、しっかりしてください……!」


聖女エリスは、傷ついた冒険者たちを背に庇い、必死に祈りを捧げていた。 彼女はSランクではない。希少な「聖女」の職能を持っているだけで、戦闘力は皆無に等しい。 今回は、王都でも中堅のBランクパーティ『雷光の牙』に護衛され、この階層にある慰霊碑へ祈りを捧げに来ただけだった。


だが、運が悪すぎた。 最奥に鎮座していたのは、通常のボスではなかった。数百年に一度生まれるかどうかの変異種――『深淵のキメラ』。


獅子、山羊、蛇が混ざり合った巨体は、すでに護衛の冒険者たちをなぎ倒していた。 Bランクの戦士たちが束になっても、その圧倒的な暴力の前には無力だった。


「グゥルルルル……ッ!」


キメラの獅子の頭が、涎を垂らしながらエリスを見下ろす。 背後にいる冒険者たちはピクリとも動かない。エリスの治癒魔法も、もう魔力切れで発動しなかった。


「……神よ」


エリスは震える足で一歩前へ出た。 逃げることはできない。自分がここで喰われている時間を稼げば、もしかしたら誰かが助かるかもしれない。 そんな、あまりにも悲壮な自己犠牲。


(……ああ、私、ここで終わるんですね)


死を前にして、走馬灯のように記憶が巡る。 故郷の風景。神殿での日々。そして――三年前に出会った、一人の不器用な冒険者。


『俺の夢は金じゃ買えないか』


あの時、彼に渡したお金。あれは私にとって精一杯の賭けだった。 彼はどうしているだろうか。 夢を叶えられただろうか。それとも、厳しい現実に折れてしまっただろうか。 もう一度会って、彼が胸を張る姿を見たかった。


「ガアアアアアアッ!!」


キメラが大きく口を開けた。 死の顎が迫る。 エリスはギュッと目を閉じた。


その時だった。


「――感謝」


場違いなほど穏やかな声が、鼓膜を揺らした。


ドォォォォォンッ!!


轟音と共に、迷宮の壁が爆ぜた。 いや、壁だけではない。エリスとキメラの間にあった空間そのものが、強烈な衝撃波によって弾け飛んだのだ。


砂煙が舞う中、キメラが驚いて飛び退く。 そして、その砂煙の中から、一人の男がゆらりと姿を現した。


ボロボロの服。伸び放題の髪と髭。 背中には、なぜか薪のように束ねられた「ドラゴンの鱗」を背負い、手には一本の木刀。


「……え?」


エリスが呆然と声を漏らす。 その背中は、記憶の中にある彼よりも一回り大きく、そして山のように頼もしく見えた。


「……間に合ったか」


男――リックは、ふぅと息を吐くと、腰の木刀を構え直した。


「グルァッ!?」


キメラが警戒して唸り声を上げる。 野生の勘が告げているのだ。目の前の薄汚い男が、異常な存在であると。


リックはゆっくりと振り返り、エリスを見た。 ボサボサの髭の奥にある瞳が、優しく細められる。


「少し遅くなりました、聖女様」


「あ……あなたは、まさか……リック、さん?」


「はい。借金を返しに来ました」


リックは背中の鱗の束を親指で指し、ニカっと笑った。


「利子がつきすぎて、鱗になっちまいましたが」


「そ、そんな……どうして、ここに……?」


「あなたがくれた時間のおかげで、俺は少し散歩が得意になりましてね」


リックは軽口を叩きながら、再びキメラに向き直った。 その瞬間、彼の纏う空気が一変する。 静寂。 嵐の前の静けさではない。世界そのものが凪ぐような、完全なる「静」の領域。


「ガァァァァッ!!」


痺れを切らしたキメラが飛びかかった。 速い。Bランク冒険者ですら反応できなかった神速の飛びかかり。 巨大な爪が、リックの頭上から振り下ろされる。


「危ないッ!!」


エリスが悲鳴を上げる。 だが、リックは動かない。避けない。防御もしない。 ただ、木刀に手を添え、小さく呟いた。


「この爪に、感謝」


ヒュン。


風の音すらしなかった。 リックが木刀を一閃させた――ように見えた時には、彼はすでに木刀を鞘(腰帯)に戻していた。


直後。


ボトッ。


キメラの巨大な右腕が、根元から落ちた。


「ギャッ!? ガアアアアアアアッ!?」


遅れてやってきた激痛に、キメラが絶叫する。 切断面は鏡のように滑らかで、数秒間は血すら出なかった。


「……すごい」


エリスは言葉を失った。 魔法でも、スキルでもない。ただの素振り。 けれどそれは、あまりにも洗練され尽くした「美」の領域にあった。


キメラは恐怖した。 だが、恐怖は獣をより凶暴にする。 背中の蛇が毒液を吐き、山羊の頭が冷気を放ち、獅子の頭が炎を吐く。 広範囲を焼き尽くす複合攻撃。


「リックさん、逃げて!」


「大丈夫です」


リックは一歩前に出た。


「この炎に、この毒に、この冷気に――そして、俺をここまで強くしてくれた世界に」


リックが構える。 その姿は、まるで祈りを捧げる神官のように神々しかった。


「――感謝」


ブンッ!!


リックが木刀を横に薙いだ。 たったそれだけ。 だが、その一振りから放たれた衝撃波ウィンドプレッシャーは、炎を吹き飛ばし、冷気を粉砕し、毒液を霧散させ――


そして、その奥にいたキメラの巨体をも、塵一つ残さず吹き飛ばしていた。


壁に巨大な風穴が空く。 キメラだったものは、もはや肉片すら残っていない。 ただの空気の振動が、ダンジョンのボスを「消去」してしまったのだ。


「…………」


静寂が戻る。 リックは木刀の汚れを払う仕草をして、腰に戻した。


彼はエリスに近づくと、その場に膝をつき、目線を合わせた。


「ただいま戻りました、聖女様。……お怪我はありませんか?」


エリスの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。 冒険者でも英雄でもない、ただの心優しい彼女は、汚れも気にせずボロボロの冒険者に抱きついた。


「おかえりなさい……! 本当におかえりなさい、リックさん……!」


「……服が汚れますよ」


「いいんです! だって、あなたは……私の英雄ヒーローですから!」


その日、王都のギルドは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 「ドラゴンの鱗を薪のように背負った男」が、行方不明の聖女とBランクパーティを担いで帰還したからだ。


のちに『感謝の剣聖』と呼ばれることになる男の伝説は、ここから静かに、そして騒がしく幕を開けるのだった。

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