第二話:煤煙の嘘、透明な罪

 巡査が扉を叩いたのは、霧の深い火曜日の夜だった。帝都の霧は石炭の粒子を含み、吸い込むと肺の奥がざらりとする。

 僕は窓の外を眺めながら、古い真空管ラジオから流れるバッハを聴いていた。さっきまでグールドのアリアが鳴っていたのに、気づけば別の演奏になっている。帝都では、音楽も信号も、いつの間にか別のレイヤーにすり替わる。

「蓮見さん、今日のお客様は、いつにも増して生真面目な足音をさせていますよ」

 小春がチェスボードの黒いナイトをカチリと進める。

「生真面目というのは、往々にして、逃げ場のない後悔の裏返しであることが多いんだ」

 僕が答えるのと同時に、ドアが開いた。


 入ってきたのは糊のきいた制服の若い巡査だった。佐藤。帽子を脱ぎ、深々と頭を下げる。その律儀さが、かえって痛々しい。制服の袖口から、雨と煤の匂いがした。

「口寄せ師、蓮見殿。……折り入ってお願いがございます」

 差し出されたのは銀の円盤ではなく、警察備品の無機質な黒いケース。角が擦れている。制度の角だ。

「一年前、私が誤認逮捕してしまった男の、口寄せをお願いしたいのです」


 話は典型的な「制度の犠牲者」だった。

 帝都の裏通りで起きた窃盗事件。功を焦っていた佐藤は、現場近くにいた浮浪者の老人、徳次を強引に連行した。老人は無実を訴えたが、状況証拠だけで起訴され獄死した。

 三ヶ月前、真犯人が別件で捕まり、徳次の無実が証明された。

 佐藤は証拠の写真を一枚、机に置いた。痩せた老人が留置場の柵の向こうで笑っている。笑っているように見えるだけで、たぶん笑ってはいない。写真というのは、いつも人間の表情を勝手に決める。

「私は、彼に謝らなければならない。彼を死に追いやったのは私の未熟さだ。このままでは私は一生、警察官としての誇りを取り戻せないのです」

 声は真っ直ぐで、真っ直ぐ過ぎて危うい。誇りという言葉が、刃物みたいに立っている。


 やれやれ。彼が求めているのは徳次の許しというより、自分を許すための「承認」なのだろう。

 僕は黒いケースを開け、ログ・ディスクを取り出した。写し鏡装置にセットし、義体の胸にケーブルを差す。真空管が一段、熱を増す。

 起動音。徳次の像が立ち上がった。頬はこけ、唇は乾いているのに、目だけが妙に澄んでいる。生きている時より、死んでからのほうが血色がよく見える。そういう死者は少なくない。死者はときどき、死んだことでようやく『完成』する。


「徳次さん……」佐藤は膝をつき、言葉を探した。「私は――」

「泣くなよ、お巡りさん」

 徳次はけらけら笑った。喉の奥で石が転がるような笑い。

「まだ信じてるのか。俺が無実だって」

 佐藤の顔から血の気が引く。

「……違うのですか?」

 徳次は、しばらく佐藤の顔を眺めていた。まるで生前の時間の続きを、ここでゆっくり巻き戻しているみたいに。

「……なあ、お巡りさん」

 声が、ふいに年寄りらしい柔らかさを帯びた。

「俺はあんたを恨んじゃいない。あんたは仕事をしただけだ。世の中には、もっと悪い奴が山ほどいる」

 佐藤の肩がわずかに落ちる。救われた、と顔が言ってしまう。

「だから、もういい。謝らなくていい。……俺は、俺の人生を自分で片づける」

 徳次は穏やかに笑った。

 その笑いが『いい人の笑い』に見えた瞬間、僕は嫌な感覚に襲われた。口寄せの場で、あまりに都合のいい救済が出てくる時、たいてい裏に刃がある。


「でもな」

 徳次の声が、急に冷えた。

「嘘をつくのも、これで終いにしよう。……やったよ。あの晩、盗んだ。証拠が薄かった? そりゃそうだ。俺は手際がいいんだ」


 佐藤は愕然としたまま、言葉を失っている。

 小春がコンソールを操作し、ログの「深層」へ潜る。モニターに、どろりとした赤黒いノイズが溢れ出した。僕はその色を見て、嫌な予感を確信に変えた。窃盗の赤黒さではない。もっと古く、もっと粘ついた赤黒さだ。


「徳次さん、あんたのログには妙な『欠落』がある」

 僕は冷めたコーヒーを一口含み、義体を見据える。

「窃盗の容疑で捕まった夜、あんたの服には返り血がついていたはずだ。だが当時の調書にはそんな記述はない。あんたが川で念入りに洗い流した後だったからだ。……違うかい?」

 徳次は愉快そうに、それでいて心底冷え切った笑みを浮かべた。

「さすがは口寄せ師様だ。目ざといねえ。……そうさ、お巡りさん。あんたが俺を路地裏で見つけた時、俺の手はまだ震えてたんだ。直前に、欲張りな金貸しの一家を、この手で皆殺しにしてきたばかりだったからね」


 佐藤が椅子から転げ落ちるように後ずさる。制服のボタンが、床に当たって乾いた音を立てた。

 三十年前から帝都を震撼させていた未解決の連続殺人事件――その最後の一件。老人は死刑台に送られる前に、若くて「生真面目な」巡査にわざと捕まったのだ。捕まることで、別の罪を隠す。制度の光を、都合よく反射させる。


「あんたが『無実の老人を誤認逮捕した』という罪悪感に震えれば震えるほど、俺の真実の罪は闇に深く沈んでいく。刑務所の中は温かかったよ。三食昼寝付きで、最後は聖人君子のような顔をして、国費で治療を受けて死ねたんだ。これ以上の極楽があるかい」

「そんな……私は、あなたを……」

「あんたは俺の命の恩人だよ、お巡りさん。あんたのおかげで、俺は『無実の被害者』として歴史に名を刻めたんだ。あんたのその涙が、俺の汚れた人生を洗い流してくれたのさ」


 接続終了まで残り五分。真空管が激しい音を立てて鳴り、ホログラムが歪む。老人の笑い声がデジタルなノイズとなって壁に反響した。

 佐藤は膝をついたまま呆然と義体を見上げていた。彼が求めていた「許し」は最悪の形で与えられた。謝罪していた相手は救われるべき弱者ではなく、自分を利用して逃げ切った怪物だったのだ。


 理屈だけなら簡単だ。記録を保存し、上に報告し、制度に投げ込めばいい。

 だが、その理屈で救われる人間がどれだけいる。正義は正しい。しかし正義は、別の誰かの夜を平然と踏み抜く。踏み抜かれた夜は、二度と元には戻らない。


「小春、記録を切れ」――本来なら、プロトコルにない判断だ。

 僕は短く言った。

 小春が一瞬だけ僕を見た。レンズの奥で、ほんの僅か、ためらいのようなものが揺れた。次の瞬間、スイッチが落ちる。

 小春は僕の命令の意味を理解している。記録を切れば、制度は『知らないまま』でいられる。知らないままでいられる人間は、明日も制服を着て出勤できる。

 けれど同時に、切った瞬間から真実は行き場を失う。行き場を失った真実は、たいてい僕の引き出しの奥へ回り込んでくる。チップの形になって。


 義体から力が抜け、徳次の像は霧のように霧散した。事務所には重苦しい沈黙と、バッハの旋律だけが残された。


「……蓮見殿。私は、どうすればいいのでしょうか」

 佐藤が消え入るような声で訊く。

 真実を報告すれば、警察は「凶悪犯を英雄として死なせた」という未曾有の醜態を晒す。彼は免職になり、組織の信頼は失墜するだろう。

 だが黙っていれば、彼は一生、この怪物の笑い声を胸の中で聴き続けなければならない。

「それは僕が決めることじゃない。僕はただ、死者の声を繋いだだけだ」

 僕は窓の外を見やった。帝都の煤煙はすべてを等しく灰色に塗りつぶしていく。正義も罪も、この街ではすぐ判別がつかなくなる。

「ただ一つ言えるのは、あんたが背負っているのは『誤認逮捕』という目に見える罪じゃない。一生消えない、透明な罰だということだ」


 佐藤は帽子を深く被り直し、ふらつく足取りで去っていった。階段を降りる音が消えるまで、僕は次のコーヒーを淹れる気にはなれなかった。


    *


 事務所に残されたのは僕と小春、そして冷え切った静寂だけだった。

 僕は引き出しから古いチップを出した。誰の記憶(ログ)でもない。切断された記録の断片、宛先を失った感情が自動保存された欠片。僕はそれを「未完の供養」として手元に残している。

 信号を止め、記録を切る。僕がこの街で繰り返しているのは、いつも「切る」という動作だ。切った瞬間、世界は少し静かになる。でも、切り落とされたものは消えない。切り落とされた端が、こうして手の中に残る。まるで指先に刺さった小さなガラス片のように。


「人間はどうして、あんな不確かなものに縋るのでしょう」

 小春が言った。「記憶断片も感情も、結局は電気信号なのに」

「不確かだからだよ」僕はチップの冷たさを指先で確かめ、そっと戻した。「だから物語が要る。完璧な制度も、完璧な救済も、どこにもない。……それでも、誰かの夜は続く」



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