第三部 桜
第9章:凍てつく日々
三月に入った。
暦の上ではもう春。
でも、今年の冬の名残はまだ街を覆っていた。
冷たい風が桜の芽を揺らす。
春の匂いはするのに街は冬のままだった。
彩人に会えなくなって、一週間。
静かに心の中が凍っていく。
彼の母親から電話があった。
「詩織さん……お仕事、続けていただけませんか?」
「……すみません」
「息子が、何か言ったんですよね」
声が少し震えていた。
「あの子、また閉じこもって、誰とも話さなくなって……」
胸が締めつけられる。
「お願いです。どうか、また来てください」
「でも、彩人さんが……」
「何を言っても、来てください」
涙声の母親の声が、耳の奥に残る。
電話を切ったあと涙が止まらなかった。
大学に行き、授業を受け、友達と話す。
でも、心は空っぽ。
「詩織、大丈夫? 最近元気ないよ」
友達の声が遠くに響く。
「うん、大丈夫……」
嘘をついた。
就活のことなんてどうでもよかった。
頭の中は彼でいっぱいだった。
あの日の言葉が、何度もよみがえる。
――さようなら。
夜、部屋でひとり。
スマホを開く。
midnight_canvas。
あの日以来、投稿は止まったまま。
最後の投稿。
――包帯を握りしめる手。
『醜い自分が、憎い』
何度も何度も読み返す。
――違う。
あなたは、決して醜くなんかないのに。
机の引き出しから、スケッチブックを取り出した。
二人で描いた、あのページ。
窓から見える景色。
下手な線。
でも、彩人は「君らしい絵だ」と言ってくれた。
涙が紙に落ちる。
どうしようもなく描きたくて。
記憶を辿り、彼の姿を写す。
窓辺に座る背中。
細い肩。
長い髪。
包帯。
何度描いても似ない。
でも、描かずにはいられない。
描くことで少しだけ彼を感じられる気がした。
二週間後。
心は、まだ冬。
キャンパスも友達も、春の足音も、届かない。
母親からまた電話が来た。
「あの子、絵も描いていないみたいです……キャンバスに触れた形跡もない」
胸が痛む。
「……私のせいです」
「違います。あなたのせいじゃない。あの子が臆病なだけ」
母親の声は、揺れているけれど強かった。
決めた。
このままじゃ、だめだ。
彼も、私も、壊れてしまう。
机に向かい便箋を取り出す。
ペンを握る手が震える。
でも、書かなければ。
彼に伝えなければ。
――書き始める。
彩人さんへ
あなたが自分を醜いと思うなら、私は受け入れます。
一緒にいられないと言うなら、離れます。
でも、一つだけ聞いてください。
私があなたを好きなのは、同情ではありません。
あなたの優しさに惹かれました。
繊細な心も含めて全部、あなたが好きです。
あなたは、こう言いました。
「外にも連れて行けない」
「普通の恋人みたいにできない」
でも、私はそんなこと求めていません。
あなたと話せるだけで嬉しい。
あなたといられるだけで幸せです。
別れ際、あなたは言いました。
「君を不幸にする」
でも、不幸なのは今です。
あなたがいない今が一番辛い。
あなたがいてくれるなら、
どんな形でもいい。
ただ、そばにいさせてください。
それでも答えが変わらないなら、諦めます。
でも、もう一度だけ会ってもらえませんか。
早川詩織
手紙を封筒に入れ、母親に電話する。
「……手紙を、渡してもらえますか?」
「はい、必ず」
母親の声にかすかな光が混ざった。
翌日、手紙は一条家へ届く。
母親が玄関で受け取る。
「必ず、息子に渡します」
「……お願いします」
庭の奥のアトリエ。
カーテンは閉まったまま。
あの中に、彩人がいる。
私の手紙を読んでくれるだろうか。
彼の心に届くだろうか。
夜、midnight_canvasのページを開く。
まだ投稿はない。
でも、待とう。
彼の言葉を。
彼の答えを。
窓の外、雲の切れ間から星が見えた。
寒の戻りもそろそろ終わる。
春が来る。
二人の、春が――。
三日後。
母親から電話があった。
「息子が……会いたいと言っています」
心臓が跳ねる。
「……本当ですか?」
「ええ。明日、来てくれますか?」
「はい……」
電話を切って、部屋で泣いた。
嬉しくて、ほっとして。
会える。
また、彼に会える。
窓の外。
雨はやみ、月が光っている。
春の月。
柔らかく、二人の未来を照らしていた。
最終章:春の訪れ
翌日。
朝から胸が落ち着かなかった。
何度も鏡を見て、髪を整え、服を選ぶ。
けれど、どれもしっくりこない。
結局、選んだのはいつものシンプルな服。
彼が見慣れている私。
午後二時。
約束の時間。
一条家の門の前で深く息を吸う。
指先がわずかに震えた。
会える。
また、彼に。
でも、少し怖い。
彼は何を言うだろう。
インターホンを押す。
「いらっしゃい、詩織さん」
明るく、温かな声。
門が開き玄関で母親が微笑んだ。
「来てくれて、ありがとう」
「……」
「息子は、アトリエで待っています」
「……はい」
母親がそっと私の手を包む。
「あの子、あなたの手紙を何度も読んでいました」
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「お願いします。あの子に会ってあげてください」
「……はい」
庭に出ると、まだ少し冷たいけれど春の風が吹いた。
膨らみ始めた芽が冬の名残をやさしく溶かしていく。
石畳の小道を歩く。
足音が静かな庭に響く。
アトリエが見えた。
窓は少し開きカーテンが風に揺れている。
ドアの前で立ち止まる。
深呼吸を、何度も。
コン、コン。
「……どうぞ」
低く、けれど柔らかな声。
ノブを握りゆっくり扉を開ける。
窓辺に立つ彼は外を見ていた。
「……来てくれたんだね」
「……うん」
久しぶりに二人きりの空間。
彼はまだ振り返らない。
「……手紙、読んだ」
「……」
「何度も」
声がわずかに揺れる。
「君の言葉、全部……胸に残ってる」
沈黙。
やがて、彼が振り返った。
少し痩せた頬。
目の下の淡い影。
それでも、その瞳は――
前よりも柔らかく光を帯びていた。
「……ここ、座って」
差し出された椅子に腰掛ける。
「……君がいないあいだ、ずっと一人だった」
ぽつり、ぽつり。
「話すことも、描くこともできなくて……ただ、外を見てた」
彼の手が静かに握られる。
「……寂しかった」
その言葉に胸が締めつけられる。
「……ごめん」
彼が私を見る。
「君を好きだって言いながら、突き放した。
君を不幸にするのが、怖かった」
その言葉に、私の目から涙がこぼれた。
「……僕は、すぐには変われない」
包帯に触れ視線を落とす。
「外にも出られない。普通のことも、できない」
少し間を置いて、彼が小さく問いかける。
「……それでも、いいの?」
私は迷わず頷いた。
「いいよ」
彼が、驚いたように名前を呼ぶ。
「……詩織」
「ここで、一緒にいられるだけでいいの。
あなたと話せるだけでいい」
彼は堪えきれず、涙をこぼした。
「それが、私の幸せだから」
彼は唇を噛みしめ、声を殺して泣いた。
「……ありがとう」
言葉はいらなかった。
痛みも、想いも、すべてがそこにあった。
やがて、彼が顔を上げる。
「……詩織」
「うん?」
「好きだ」
まっすぐな声。
「君が、好きだ」
「……私も」
「……本当に?」
「本当だよ」
彼が立ち上がり、私も立つ。
「……抱きしめてもいい?」
「……うん」
細い腕が確かに私を包む。
私はその背中に腕を回した。
時間がゆっくりと溶けていく。
そっと離れ目が合う。
私は包帯の上から頬に触れる。
「……いい?」
彼は小さく頷いた。
頬に、そっとキスをする。
その瞬間、彼が崩れるように抱きついてきた。
「……詩織」
「大好きだよ」
「……僕も」
窓から春の風が入る。
「……春が来たね」
「うん」
「君が、僕の春を連れてきた」
彼の手が私の手を握る。
「君となら、少しずつ変われる気がする」
「……焦らなくていいよ」
「うん」
二人で窓辺に座り静かな時間を過ごす。
帰り際、ドアの前で立ち止まる。
「……また、来てくれる?」
「もちろん」
「火曜と金曜?」
「うん。それと……」
彼の手をそっと握る。
「他の日も、来ていい?」
彼は嬉しそうに笑った。
夜。
部屋でスマホを開く。
midnight_canvas に新しい投稿。
――開いた窓。青い空。
『長い冬が終わって、春が来た。
君がくれた春。ありがとう』
続いて、もう一枚。
――包帯に触れる、やさしい手。
『初めて、触れてくれた。
それだけで、救われた』
私は画面を胸に抱き窓の外を見る。
春の夜空に星が瞬いている。
明日も。
明後日も。
――彼のそばで、春を生きていく。
エピローグ:光の中の影
三月の終わり。
桜が、ようやく淡い花を咲かせ始めた。
街は柔らかなピンクに染まり、春の気配で満ちている。
就職活動が、ようやく終わった。
小さな美術系の出版社。
絵や芸術に触れる仕事。
面接のとき、ふいに聞かれた。
「なぜ、この仕事を?」
少しだけ笑って、答えた。
「大切な人が、絵を描く人で。その人の世界を、もっと知りたくて」
面接官は、そっと微笑んだ。
その笑みに、心が少し軽くなった気がした。
内定の連絡が届いたとき、真っ先に彼に伝えた。
アトリエの小さな窓辺で。
「……よかった」
彼が、言葉よりも先に笑った。
その笑顔は、春の陽だまりのように柔らかくて、胸の奥に溶けていった。
「彩人のおかげだよ」
「僕?」
「うん。あなたに出会えて、私、本当にしたいことが見つけられた」
少し照れたように、彼は俯いた。
「……そう言ってもらえて、嬉しい」
あれから、毎日のようにアトリエに通う。
もう、お手伝いではない。
彼女として、恋人として。
母親も、喜んでくれている。
彩人はまだ外に出ない。
包帯も外していない。
でも、変わった。
少しずつ。
今日もアトリエへ向かう。
庭の木々は緑を濃くし、花も咲き誇る。
春の庭を、風がそっと撫でる。
ノックすると、明るい声が返ってくる。
「どうぞ」
ドアを開けると、彼は窓辺で絵を描いていた。
「……今日も、来てくれたんだね」
振り返り、微笑む。
包帯の下の表情は見えないけれど、笑っているのが分かる。
「うん」
「待ってた」
彼が筆を置き、私に見せる。
壁には、私を描いた絵がたくさん並ぶ。
笑う私、絵を描く私、窓の外を見つめる私。
また、私を描いてくれていた。
「こんなに……嬉しい」
「君が、綺麗だから」
二人で窓辺に座る。
外では桜が満開で、風に花びらが舞う。
「綺麗だね」
彼が窓の外を見てつぶやく。
「うん」
「……ねえ、詩織」
「うん?」
「包帯、外そうかと思ったことがある」
私は、彼を見つめる。
「……本当?」
「うん。君の前でだけでも」
彼が包帯の端に、そっと指をかける。
私は息を止めた。
「……」
数秒の沈黙。
やがて、彼の手が離れた。
「……ごめん。やっぱり、まだ」
声が震えている。
「大丈夫。急がなくていいよ」
私は、彼の手を握る。
二人で外を見て、桜の舞う庭を静かに眺める。
「……いつか、一緒に外へ出かけたいな」
私がぽつりと言うと、彼は答えずただ手を握り返す。
外の世界は、まだ遠い。
それでも、いつかを信じて待つ。
「……ねえ、詩織」
「うん?」
「一緒に、絵を描こう」
大きなキャンバスを持ってきた彼。
「二人で、一つの絵」
「何を描くの?」
「君が決めて」
窓の外を見ながら、私は答えた。
「春の庭、どう?」
「いいね」
二人でキャンバスの前に座る。
右側を彼、左側を私が担当する。
筆を交わし、互いの色と線が重なる。
違うけれど、自然に調和していく。
時折、筆が触れ合うたび、顔を見合わせて笑う。
静かな時間。温かい時間。
やがて、二人の世界が形になる。
春の庭、満開の桜、そして木の下の二人の影。
寄り添うシルエット。
「素敵だね」
「うん」
彼が私を見つめる。
「二人の世界だ」
「……うん」
陽が傾き、オレンジ色の光が部屋に差し込む。
窓辺に並んで座り、二人で沈む夕陽を見つめる。
「……ずっと、ここにいるよ」
私は、包帯の頬にそっとキスをした。
「……ありがとう」
彼が小さく呟く。
「愛してる」
「私も」
外の世界は、まだ遠い。
でも、ここに二人の世界がある。
それで、十分だった。
窓から差し込む光の中で、二人の影は寄り添い、静かに揺れていた。
——終——
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます