第二部 雨

第5章:溶け始めた氷


二月に入った。

少しずつ、日が長くなってきた。

午後五時でもまだ薄明るい。

寒さは続いているけれど空気が変わった気がする。

冬の終わりと、春の始まりの間。

そして、彼との関係も、少しずつ変わり始めていた。


火曜日の午後。

いつものように一条家へ。

彼の母親が玄関で迎えてくれた。


「いらっしゃい。詩織さん、最近息子の様子が変わったの」


「……変わった、ですか?」


「ええ。朝ごはんをちゃんと食べるようになったし」


母親が嬉しそうに微笑む。


「夜も、少し早く寝るようになったみたい」


「それは……よかったです」


「あなたのおかげよ。ありがとう」


母親の目が潤んでいる。

言葉にできないぬくもりが残った。


リビングの掃除を終えてアトリエへ向かう。

庭の木々に小さな芽が増えていた。


ノックすると。


「……どうぞ」


声が前より明るい気がした。


ドアを開けると彼が振り返った。


「……こんにちは」


「こんにちは」


「待ってた」


胸の奥で何かがゆっくり動いた。


「……掃除、しますね」


「うん。ありがとう」


今日はカーテンが少し開いていた。

光が部屋に入ってくる。

窓辺の彼の姿が明るく見える。


掃除をしながら彼を見てしまう。

今日は、何を描いているんだろう。


「……見る?」


彼が気づいて聞いた。


「……いいんですか?」


「うん。君には、見せたい」


近づいてキャンバスを見る。


庭の木々。

芽吹き始めた枝。


「綺麗……」


「もうすぐ春だな、と思って」


彼が筆を置いた。


「……ねえ、詩織」


「はい?」


初めて、「さん」なしで呼ばれた。


「コーヒー、淹れるね」


「ありがとうございます」


「……敬語、やめない?」


彼が少し照れたように言った。


「同い年くらいだと思うし」


「……いいんですか?」


「うん。その方が、話しやすい」


「……分かった」


私も敬語をやめた。


「じゃあ、彩人も」


「うん」


二人で微笑んだ。


コーヒーを飲みながら窓辺に並んで座る。

外では雀が木の枝にとまっていた。


「……詩織は、なんでこの仕事を?」


彼がカップを持ったまま聞いた。


「就活が、うまくいかなくて」


「……そうなんだ」


「毎日、不採用メールばかりで」


「辛いね」


彼がじっと私を見た。


「でも、ここに来られて良かった」


私が正直に答えた。


「……なんで?」


「あなたに、会えたから」


彼の手が止まった。


「……」


しばらく沈黙。


そして。


「……僕も」


彼は、窓の外を見たまま言った。


「君が来てくれて、嬉しい」



掃除を終えて部屋を出ようとした時。


「……ねえ、詩織」


「うん?」


「次、来る時……青の絵の具、持ってきてくれる?」


「ウルトラマリンだね。分かった」


「ありがとう」


彼が少し笑った。



金曜日。

画材屋でウルトラマリンの絵の具を買って、一条家へ向かった。

アトリエに入ると彼が嬉しそうに迎えてくれた。


「……持ってきてくれたんだ」


「うん」


絵の具を渡すと彼は大切そうに受け取った。


「ありがとう。これ、好きな色なんだ」


「……どんな色?」


「深い青。夜の空みたいな」


彼が絵の具を見つめる。


「君の目の色にも、似てる」


「……え?」


「詩織の目、綺麗な黒だけど。光が当たると、少し青く見える」


そんなところまで見ていたんだ。

顔が、熱くなる。


「……ありがとう」


「いや、本当のことだから」


彼が微笑んだ。

包帯の下で。


掃除の後、一緒にお茶を飲んだ。


「……ねえ、詩織は絵、描いたりする?」


「昔は、少し」


「……今は?」


「やめちゃった」


「……なんで?」


「才能ないし、仕事にもできないから」


彼が首を傾げた。


「才能なんて、関係ないよ」


「でも……」


「描きたいって思う気持ちが、一番大事」


彼が真剣な目で私を見た。


「僕、才能があるかなんて分からない。ただ、描きたいから描いてる。……それだけ」


「……」


「詩織も、また描いてみたら?」


「……でも」


「僕が、教えてあげる」


彼が少し照れたように言った。


「一緒に、描こう」


その言葉に涙が出そうになった。


「……本当に?」


「うん。君となら、楽しいと思う」


「……ありがとう」


「次、来る時、スケッチブック持ってきて」


「分かった」



その夜。

midnight_canvasから、投稿。

—青い絵の具のチューブ。

キャプション。


『今日、誰かが僕の好きな色を持ってきてくれた。些細なことだけど、すごく嬉しかった。気にかけてもらえるって、こんなに温かいんだね』


私はコメントを打った。


『喜んでもらえて、よかったです』 


すぐに、既読。

返信。


『……詩織、ありがとう』


画面越しでも、名前で呼んでくれるようになった。


『こちらこそ。次は、一緒に絵を描くの楽しみにしてるね』


『うん。僕も』


しばらくやり取りが続いた。

こんなに長く会話したのは、初めてだった。

画面越しでも、心が近づいている気がした。



次の火曜日。

スケッチブックと鉛筆を持って、アトリエへ。


「……ほんとに、持ってきたんだ」


彼が、嬉しそうに迎えてくれた。


「うん」



「じゃあ、掃除の後、やろう」


「分かった」


今日は、いつもより早く掃除を終えた。

気持ちが急いているから。


「……じゃあ、始めよっか」


彼が、椅子を二つ並べた。

窓辺に。


「何を描きたい?」


「……窓から見える景色」


「いいね。じゃあ、一緒に描こう」


二人で並んで座る。

肩が触れる距離で、彼が私のスケッチブックを見て囁く。


「まず、大きく形を捉えて」


彼の手がそっと重なる。

指先の温度が伝わってきた。


「力を抜いて。そう」


「絵は、自由でいいんだよ」


彼の声は、優しい。


「上手く描こうとしなくていい。君が感じたままに」


私は、彼の言葉に導かれるように、線を引いた。

木々、空、庭。

不器用な線。

それでも、楽しかった。


「……いいね」


彼がふっと微笑む。


「君らしい」


「下手だけど」


「そんなことない。優しい絵だね」


その一言が、胸の奥にそっと残った。


二人で絵を描いているうちに、時間の感覚がほどけていく。

気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。


「……もう、こんな時間」


「あ、ごめん。引き留めちゃって」


彼は申し訳なさそうに言う。


「ううん。楽しかった」


「……本当?」


「うん。また、教えて」


「もちろん」


彼が安心したように微笑んだ。


「いつでも」


帰り際、母親が玄関で待っていた。


「詩織さん、遅くまでありがとう」


「いえ」


「よかった。あの子、あんなに笑うの、久しぶり」


母親の目が潤んでいる。


「ありがとう。本当に」


「私も、楽しかったです」


母親はほっとしたように微笑んだ。



その夜。

midnight_canvasから、新しい投稿。


——並んだ二つのスケッチブック。


キャプション。


『今日、一緒に絵を描いた。

人に教えるなんて初めてだったけど、

すごく楽しかった。ありがとう』


私はそっと涙を拭ってから、コメントを打つ。


『こちらこそ。素敵な時間をありがとう。

また、教えてね』


すぐに、返信。


『うん。いつでも。

君と過ごす時間が、一番好きだ』


窓の外を見ると星が見えた。

冬の夜空は澄んでいて、心の中だけが春だった。




第6章:描かれた想い


二月の中旬。

街は、甘い色で満ちていた。


ショーウィンドウの赤いリボン。

棚いっぱいのチョコレート。

誰かに向けた気持ちが、形を持って並んでいる。


友達は楽しそうに笑う。


「誰にあげるの?」


私は曖昧に笑った。


心はそこにいなかった。

考えていたのは、ただひとつ。


アトリエで過ごす時間。

彩人と並んで、絵を描く午後。


それだけだった。



火曜日。

冬の光が低く差し込む午後。


いつもより少し早く一条家に着く。

リビングを整え足音を忍ばせてアトリエへ。


ノック。


「……どうぞ」


ドアを開けた瞬間、

彼は慌てて何かを隠した。


「……あ、詩織」


声がわずかに揺れる。


「どうしたの?」


「……ううん。なんでもない」


伏せられた視線。

理由は分からないまま、胸に小さなざわめきが残る。


聞かない。

踏み込まない。

それが、今の私たちの距離。



「……掃除、するね」


「うん」


部屋に入ってすぐ気づく。

空気が昨日と違う。


壁際に立てかけられた、小さなキャンバス。

ひとつ、ふたつ……増えている。


そっと近づく。


——窓辺に座る、後ろ姿。

長い髪。細い肩。

冬の光に溶ける輪郭。


私だった。


「……これ」


声にした瞬間、

彼が慌てて近づく。


「見ないで」


でも、もう遅い。


「……いつ?」


「……この前。一緒に描いてた時」


かすれた声。


「君が、外を見てて……」


少し、間。


「……綺麗だったから」


胸の奥が静かに熱を帯びる。


「……勝手に、ごめん」


「ううん」


もう一度絵を見る。

柔らかな光の中の私。

こんなふうに、見られていたんだ。


「……嬉しい」


彼の表情が、ほどける。


「……本当?」


「うん。すごく」


その笑顔が、胸に沁みた。



掃除を続けるうちに気づいてしまう。

スケッチブックに挟まれた何枚もの紙。


横顔。

笑った口元。

考え込む横顔。


全部、私。


「……たくさん、描いてたんだ」


「……うん」


観念したように彼は言う。


「描かずにいられなくて。君が来るたび、記憶を辿って」


「……どうして?」


彼は窓の外を見る。


冬の庭。

まだ眠る枝。


「分からない」


静かな声。


「ただ、描きたかった。……君の表情も、仕草も」


彼の言葉に、胸が温かくなる。

お茶を飲み終えたあと。


「……ねえ、詩織」


「なに?」


「……お願いがある」


少し迷ってから。


「モデルに、なってくれない?」


時間が止まる。


「ちゃんと、向き合って描きたい。……君を」


胸が早くなる。


「……いいよ」


彼の表情がぱっと明るくなる。


「ありがとう」


新しいキャンバス。

窓辺の椅子。


「そのまま、外を見て」


芽吹きかけた枝。

確かに近づく春。


視線を感じる。

じっと、優しく。

恥ずかしいのに逃げたくならない。


筆の音。

静かな呼吸。

時間が溶けていく。


「……もう、いいよ」


近づいてキャンバスを見る。


光に包まれた私。

穏やかな横顔。


「……綺麗」


「君が、綺麗だから」


小さな声。


「君は、いつもこんな顔をしてる」


胸がきゅっと締まる。



帰り際。


「……詩織」


「なに?」


「君がいてくれて、嬉しい」


包帯に触れながら。


「ずっと、一人だった。でも、君が来てから、毎日が、少しだけ明るい」


その言葉が、優しくて、切なかった。



その夜。

midnight_canvasに、新しい投稿。


——窓辺の後ろ姿。


『誰かを描くって、こんなに幸せなんだ』


画面を見つめる。


言葉にならない想いが、

確かにここにある。


涙が静かに落ちた。



数日後。

机の引き出しで見つけた古いスケッチブック。


包帯を巻く前の自画像。

左半分の赤褐色の痕。

顔は、何度も黒で塗りつぶされている。


「……見た?」


背後の声。


「……ごめん」


「いいよ」


淡く笑う。


「描けなくなったんだ」


「自分の顔が、嫌で」


「だから、消した」


少し間。


「でも、今は」


私を見る。


「君を描くのが、好きだ」


「君を見ていると、自分を忘れられる」


胸が静かに痛んだ。



その夜の投稿。


——真っ白なキャンバス。


『自分は描けない。でも、誰かを描くことで、救われている』


画面を閉じる。


彼にとって、私は——

居場所。


そして、

私もまた彼の絵に救われている。


同じくらい、静かに。




第7章:明かされた真実


二月の終わり。

冬と春の、あいだ。

昼は少しだけ空気がゆるみ、夜になると、まだ冬が戻ってくる。

そんな曖昧な季節に、私と彩人の関係も、同じ場所に立っている気がした。



火曜日の午後。

アトリエに入ると、彩人は窓辺で絵を描いていた。


けれど、いつもと違う。


空気が張りつめ、

音のない緊張が、部屋を満たしている。


「……彩人?」


声をかけると、彼はゆっくり振り返った。

その表情は硬く、何かを決めた人の顔だった。


「……詩織」


「どうしたの?」


「……ううん」


彼は筆を置き、少し間をあけて言う。


「座って」


向かい合って、テーブルを挟む。

距離は近いのに、どこか遠い。


「……話したいことがある」


その声は、かすかに揺れていた。


「君に、ちゃんと話さなきゃいけないと思って」


彼の指が、無意識に包帯に触れる。

胸の奥で、嫌な予感が鳴った。



「……僕は、生まれつき」


静かな声。


「顔の半分に、大きなあざがある」


言葉が、空気に落ちる。


「赤褐色で……隠せないくらい」


視線を窓の外へ逃がしながら。


「物心ついた時から、あった」


「小さい頃は、まだよかった」


「でも、成長するにつれて……」


言葉が、途切れる。


「『かわいそう』って言われるのが、一番きつかった」


「同情する目」


「気遣うふりをした、距離」


彼の手が、強く握られる。


「中学で、いじめられた。でも……」


一息置いて。


「一番辛かったのは」


こちらを、まっすぐ見る。


「優しい言葉だった」


「『気にしなくていいよ』『大丈夫だよ』」


「そう言いながら、目を逸らされる」


「……同情はされる。でも、隣には来ない」


胸が、締めつけられる。



「高校で、好きな人ができた」


声が、さらに小さくなる。


「勇気を出して、告白した」


「返事は、『友達としてなら』」


短い沈黙。


「あとで聞いた」


「『顔さえ普通なら、付き合えたのに』って」


涙が、静かに落ちた。


「それで、もう無理だって思った」


「外に出ると、視線ばかり気になって」


「鏡を見るのも、嫌になった」


包帯を押さえる。


「誰にも見せないため」


「……自分にも、見えないように」


「高校を出て、引きこもった」


「この部屋が、世界の全部になった」


キャンバスを見つめながら。


「両親は優しい。でも、どう触れていいか分からない」


「友達も、いない」


「ただ、絵を描くだけ」


「絵を描いている時だけ、忘れられた」


「この顔も、この人生も」


「……全部」


「だから、SNSに絵を載せた」


「顔も、名前も、消して」


「そしたら……」


視線が、私に戻る。


「君のコメントが来た」


『綺麗です。この絵に、救われました』


「初めてだった」


「顔を知られないまま、喜んでもらえたの」


「それが……嬉しくて」


「君の言葉だけが、本当だって思えた」


私は、そっと涙を拭う。


「……私も」


声が震える。


「あなたの絵に、救われてた」


「うまくいかない日々で」


「でも、あなたの絵を見ると、呼吸ができた」


彼は、黙って聞いている。


「だから、会いたいって思った」


「この絵を描く人に」


「優しい世界を描く人に」


小さく笑う。


「……そしたら」


「こんな近くに、いた」



沈黙が、二人を包む。


「……詩織は、怖くない?」


包帯に触れたまま。


「僕の顔」


「見たら、きっと引く」


「みんな、そうだった」


俯いた彼の手を、私はそっと取った。


「顔だけで、人を好きになったわけじゃない」


彼が、はっと顔を上げる。


「あなたの絵を知ってる」


「言葉を知ってる」


「それで、十分だった」


「……どうして」


「見なくても、分かる」


静かに言う。


「あなたが、どんな人か」


涙が、彼の頬を伝った。


「……ありがとう」


「君みたいな人、初めてだ」


「同情じゃなくて」


「ちゃんと、見ようとしてくれる」



その日は、長く話した。

彼の過去。

孤独だった時間。


帰り際、母親が立っていた。


「ありがとう」


震える声。


「この子、誰にも話せなかったのに」



その夜。

midnight_canvasの投稿。


——開いた窓。星の光。


『初めて、全部話せた。

怖かったけど、受け入れてもらえた。

世界が、少し広がった気がする』


続く一枚。


——並ぶ二つの影。


『これからどうなるか分からない。

でも、今は君といる時間が、何より大切だ』


画面を閉じる。


窓の外。

澄んだ夜空に、星が静かに瞬いていた。




第8章:告白と拒絶


二月の、最後の週。

告白の後、数日が過ぎた。


彩人との距離は、確かに近くなった。

それなのに、どこか不安定だった。

彼の笑顔が、時々遠くを見る。

楽しそうに話していても、ふと黙り込む。

何かが、彼の中で揺れている。

それが何なのか、

まだ私には分からなかった。



金曜日の午後。

天気予報は言っていた。

――今年で、いちばん寒い夜になる、と。

空は低く、重たい雲が垂れ込めていた。

今にも泣き出しそうな色。


一条家に着くと、母親が玄関で迎えてくれる。


「いらっしゃい。寒いわね」


「はい」


「息子、待ってると思うわ」


柔らかな微笑み。

けれど、どこか心配そうだった。


掃除を終え、アトリエへ向かう。

石畳を踏むたび、冷たい風が頬を撫でる。


ノック。


「……どうぞ」


ドアを開けると、

彩人は窓辺に立ち、外を見ていた。

雨が、落ち始めている。


「……彩人?」


振り返った彼の顔は、

どこか遠くを見ているようだった。


「……座って」


向かい合って、椅子に座る。


沈黙。

長く、深い沈黙。

雨音だけが、部屋を満たしていく。


「……ねえ、詩織」


「うん?」


「この前、全部話したよね」


「……うん」


「君は、受け入れてくれた」


彼の指が、包帯に触れる。


「すごく、嬉しかった」


「……」


「でも」


息が、止まる。


「考えれば考えるほど、怖くなった」


窓の外を見る。


「僕は、ずっとこの部屋にいる。外に出られない。人の視線が、怖くて。君は、外の世界の人だ」


立ち上がり、背を向ける。


「友達がいて、学校があって、普通に生きてる。……僕と一緒にいたら」


声が震える。


「君まで、変な目で見られるかもしれない」


「そんなこと……」


「それが、怖いんだ……!」


初めて聞く、荒い声。


「生まれてからずっと、この顔で生きてきた。視線も、言葉も、全部が重くて」


雨音が、強くなる。

涙が、零れる。


「誰かを好きになっちゃいけないって、ずっと思ってた。

……でも、君が来てくれて。楽しくて、温かくて」



「……好きになってしまった」


包帯を、握りしめる。


「君のこと、本当に好きだ」


胸が、熱くなる。


「でも……」


「僕は外に出られない。

君と並んで歩けない。

普通の恋人みたいなこと、何もできない」


「そんなこと……」


「僕には、できないんだ」


叫びは、雨に溶けた。


「君を、幸せにできない」


沈黙。


「……だから」


背中が、震える。


「もう、来ないでほしい」


私は、動けなかった。

彼の背中を、ただ見つめる。


言葉を探す。

伝えたいことは、山ほどあるのに。


「待って」


やっと、それだけ。


「私は……」


息が詰まる。


「私は、気にしないって……」


「分かってる」


遮る声は、静かで冷たい。


「君は優しい。でも……」


「僕が、許せない。こんな自分を」


膝が、震えた。


どんな言葉も、

彼を救うどころか、追い詰めてしまう気がした。



「……ねえ」


もう一度。


「本当に、それでいいの?」


肩が、わずかに揺れる。

でも、答えはない。


雨音だけが、流れる。


やがて――

言葉が、尽きた。


「……分かった」


それだけ言うのに、

どれほど時間がかかったか分からない。


「でも、一つだけ」


振り返らない背中に告げる。


「私の気持ちは、本当。同情じゃない。

……あなたが、好き」


肩が、少しだけ震えた。

それでも、彼は振り返らなかった。



ドアに手をかける。

開ける前に、もう一度だけ振り返る。


彼は、窓の外を見たまま。


「……さよなら」


小さく言って、ドアを閉めた。


冷たい空気が、頬を打つ。


外は、本降りの雨。

冬が、最後の力で泣いているみたいだった。


母親の声が、背中に届く。

それでも、振り返れなかった。



夜、午前二時。


通知。

midnight_canvas。


――雨に濡れた窓。


『さよならを言った。大切な人に。好きだから、離れた』


続く投稿。


――包帯を握る手。


『普通に生まれたかった。普通に、恋がしたかった』


画面が滲む。

指が震え、言葉が打てない。


何度も消して、何度も書いて。

結局、何も送れなかった。


二月の、最後の夜。

いちばん寒い夜。


心の奥で、

春が、遠ざかっていく音がした。




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