箱庭のアトリエ
ひとひら
第一部 雪
第1章:冬の夜と光
一月の夜は、冷たい。
音がなく、世界そのものが眠ってしまったみたいだった。
窓の外は暗く、街灯の光だけが細く滲んでいる。
ときどき、雪が思い出したように舞い落ちて、闇に溶けていった。
暖房を最大にしても、心の奥までは届かない。
私はベッドに座り、スマホを見つめていた。
画面に浮かぶ、見慣れた文章。
『残念ながら、今回は見送らせていただくこととなりました』
また、だ。
何度目なのかは、もう分からない。
数えることをやめた頃から、不採用はただの通知になった。
エントリーシートは、何度も読み返した。
言葉を削り、整え、「ちゃんとした自分」を必死に並べた。
面接の練習も、声が枯れるまでやった。
それでも、足りなかった。
私は、何がダメなんだろう。
どこを、間違えたんだろう。
スマホを握る指に、無意識に力が入る。
深く息を吸っても、胸の奥は冷えたままだった。
SNSを開くと、眩しい言葉が並ぶ。
「内定承諾しました」
「夢だった会社です」
おめでとう、とコメントを打ちながら、
心の中で何かが静かに剥がれていく。
みんなは前に進んでいる。
私だけが、同じ場所に立ち尽くしている。
私は、何がしたいんだろう。
どこへ、行きたいんだろう。
答えは、見つからなかった。
ただ、疲れていた。
笑顔を作るのも、期待に応えるのも。
頑張っても、何も掴めない日々に。
部屋の隅に、使いかけのスケッチブックが置いてある。
高校生の頃、授業で使っていたもの。
絵を描くのは、好きだった。
無心で線を引いている時間だけは、呼吸が楽だった。
でも、絵では生きていけない。
そう思って、蓋をした。
現実は、もっと厳しい。
時計は、午前二時。
今日も、眠れない夜だった。
なんとなく、SNSを開く。
指が勝手に画面を滑らせる。
その中で、不意に一枚の絵が目に留まった。
――雪の降る夜の図書館。
誰もいない空間。
古い本棚が並び、窓から街灯の光が差し込んでいる。
雪がガラスに触れ、世界が外側から切り離されているみたいだった。
思わず、画面を拡大する。
光と影の境目が、やわらかい。
空気まで描かれているようで、
その場所に、今すぐ行けそうな気がした。
アカウント名は、
midnight_canvas。
フォロワーは、五千人ほど。
他の投稿を見る。
雨の窓辺。
月明かりの森。
古い喫茶店のカウンター。
どれも、人はいない。
けれど、人の気配だけが残っている。
静かで、きれいで、少しだけ寂しい。
――どうしてだろう。
気づいたら、涙が頬を伝っていた。
この絵の中なら、息ができる。
ここに、居場所がある気がした。
キャプションには、短い言葉。
『雪の夜は、世界が静かになる。そんな夜が、好きだ』
それなのに、胸の奥にそっと触れた。
私は震える指で、コメントを打つ。
『とても綺麗です。癒されました』
送信。
この気持ちを、どこかに置きたかった。
スマホを伏せて、窓の外を見る。
雪は、静かに降り続いている。
冷たい夜。
でも、さっきより、少しだけ心が温かかった。
翌朝。
目を覚まして、無意識にスマホを開く。
通知が、一つ。
midnight_canvas。
鼓動が、早くなる。
『ありがとう。そう言ってもらえると、描いた意味があります。
辛い時は、また見に来てください』
たったそれだけの言葉。
なのに、驚くほど優しかった。
何度も、何度も読み返してしまう。
『また、見に来てください』
――また見てもいいんだ。
ここに、いてもいいんだ。
そう思えた。
それから、毎晩のように彼の絵を見るようになった。
新しい投稿があると、少し嬉しくなる。
コメントを残すと、必ず返信が来た。
『君の言葉、励みになります』
顔も知らない。
名前も、年齢も、住んでいる場所も。
それでも、この人は、私を見てくれている気がした。
ある夜。
また、不採用のメールが届いた日。
私は、絵を見ながらコメントを書く。
『今日は、少し辛い日でした。でも、あなたの絵を見ると、楽になります』
数時間後。
『辛かったんですね。無理しないで。
少しでも穏やかな気持ちになれますように』
涙が、止まらなかった。
こんな言葉をもらったのは、いつぶりだろう。
思わず、打ち込む。
『あなたは、どんな人なんですか?』
送信してから、少し後悔する。
でも、既読がついた。
『ただの、絵を描く人です。
……孤独な人間かもしれません』
孤独。
この人も、一人なんだ。
『いつか、会えたらいいですね』
返事は、なかった。
けれど、翌朝。
『会えるといいですね。でも、僕は人に会うのが苦手で。
それでも、あなたの言葉には、いつも救われています』
胸の奥が、静かに満たされた。
その夜。
――窓辺に置かれた、一輪の花。
朝の光。
透明な小瓶。
白く小さな花が、一輪。
頼りないのに、
光を受けて、確かにそこに立っている。
『今日、少しだけ嬉しいことがあった』
私は、そっと微笑んだ。
数日後。
大学の掲示板で、一枚の求人票が目に留まる。
『お手伝いスタッフ募集』
『掃除、整理整頓、簡単な家事』
『時給2500円』
今の私には、お金が必要だった。
電話をかけると、柔らかな女性の声。
「ありがとうございます。では、面接にいらしてください」
明後日、午後二時。
名前と住所を伝える。
まさか、これが運命の始まりだなんて、
この時の私は、まだ知らなかった。
その夜。
midnight_canvasの新しい投稿。
――冬の庭。
『冬の夜。新しい朝を待ちながら』
真っ白な雪。
裸の木が一本、静かに立っている。
外では、雪が降り続いている。
明後日。
何かが、変わるかもしれない。
そんな予感だけが、
胸に残っていた。
第2章:白い門の向こう
一月の午後。
面接の日は、骨の奥まで冷える寒さだった。
厚手のコートを羽織っても、風は容赦なく頬を刺す。
吐く息は白く、すぐに空へ溶けていく。
その白さを追いながら、高級住宅街の静かな通りを歩いた。
並ぶ邸宅はどれも立派で、高い塀に囲まれ、冬の庭が凛と立つ。
私が育った音の多いアパートとは、あまりにも違う世界。
——場違いかもしれない。
胸の奥が、きゅっと縮む。
こんな場所で、ちゃんと役に立てるだろうか。
スマホで地図を確認して、ようやく立ち止まる。
表札には端正な文字で「一条」。
白い門。
その向こうに、洋風の大きな邸宅が静かに佇んでいた。
深く息を吸い、インターホンを押す。
「はい」
柔らかく、穏やかな女性の声。
「あの、早川と申します。お手伝いの面接で……」
「ええ、お待ちしていました。どうぞ」
小さな音を立てて門が開く。
石畳のアプローチを歩く。
足音だけが、静かな空間に吸い込まれていく。
玄関の扉が開き、上品な女性が立っていた。
四十代後半くらい。
微笑みは柔らかく、どこか疲れた影を帯びている。
「寒かったでしょう。さあ、どうぞ」
靴を脱ぎ、足を踏み入れる。
吹き抜けの玄関。淡い光にきらめくシャンデリア。
大理石の床、曲線の美しい階段。
「最近は、家事のお仕事を避ける方も多くて。応募してくださって、本当に助かります」
「いえ……私でよければ」
案内されたリビングは、広く、静かだった。
大きな窓の向こうには冬の庭。雪が残り、葉を落とした木々が立っている。
壁に掛けられた、一枚の絵。
——雪の森。
音のない世界。白と灰色のあいだで、時間が止まったような風景。
思わず、足が止まる。
「……素敵な絵ですね」
声が、わずかに震える。
どこかで、見たことがある。
確かに、この絵を——。
「それ、息子が描いたんです」
心臓が跳ねた。
「息子さんが……?」
「ええ。絵を描くのが好きで。少し、才能があるんですよ」
誇らしさと、寂しさが混じった微笑み。
「でも……息子は、今、部屋から出ないんです」
その言葉に、沈黙が滲む。
「もう、三年になります」
私は言葉を失い、ただ絵を見つめた。
筆致。色の重ね方。構図。
——知っている。
でも、思い出せない。記憶の手前で、何かが引っかかる。
「さ、お茶をどうぞ」
差し出されたカップ。湯気が指先に温かく伝わる。
面接は穏やかに進み、週に二、三回。火曜と金曜、午後二時から。
「では、火曜日からお願いできますか」
「はい。よろしくお願いします」
握手した手は、驚くほど温かかった。
帰り際、玄関で靴を履きながら、もう一度、あの絵を振り返る。
雪の森。
やっぱり、見覚えがある。
「息子の絵、気に入ってくださった?」
「はい……とても」
「嬉しいわ。あの子も、きっと喜ぶ」
窓の奥を指さす。
「庭の奥に、アトリエがあるんです」
木々の向こう。白い小さな建物。
「あの子、そこから出ないんです。絵だけは、ずっと描いている」
——あそこに、彼はいる。
門を出て振り返る。
白い門、広い庭、奥のアトリエ。
胸の奥が、少し痛んだ。
その夜。
部屋に戻り、スマホを開く。
midnight_canvas。
最新の投稿は、冬の庭。
一条家で見た庭と、あまりにも似ていた。
雪の森の絵。構図も、色も、同じ。
「……まさか」
偶然だと、自分に言い聞かせる。
でも、心は否定しきれない。
眠れぬまま、午前二時。
コメントを打つ。
『新しい仕事が決まりました。不安だけど、頑張ります』
すぐに、既読。
『おめでとう。君なら大丈夫。応援しています』
涙が、静かに滲んだ。
そして、新しい画像。
——窓から見える雪景色。
『明日から、少し変化がある。怖いけど、楽しみでもある』
明日。日曜日。
月曜日を挟んで、火曜日から、私はあの家で働き始める。
このタイミング。
この景色。
――もしかして、本当に。
胸が高鳴る。
火曜日。
白い門をくぐり、掃除をする私のすぐそばで、
閉ざされたアトリエは、ただ静かにそこにあった。
夜。
スマホに届いた通知。
『今日、誰かが来た。会わなかったけど、悪くない気配だった』
――やっぱり、そうなのかもしれない。
私たちは、同じ場所にいた。
会わなかったけれど、確かに。
雪は降り続いている。
けれど、心の奥に、小さな灯りがともっていた。
金曜日。
また、あの白い門をくぐる。
いつか。
本当に、いつか。
その日が来るまで。
第3章:包帯の向こう側
金曜日が来た。
朝から、心が落ち着かない。
講義室に座っても、先生の声は遠く、意味を結ばない。
ノートの端に、文字を書いては消す。
一条家。
インクがにじみ、消しゴムで擦るたび、胸の奥がざわつく。
今日も、彼はあそこにいるのだろうか。
白いアトリエで、窓に背を向け、絵を描いているだろうか。
私の存在を、少しでも、意識しているだろうか。
午後一時。
授業が終わると、私は急いで準備した。
服は、いつもより少し丁寧に選んだ。
派手じゃない。
ただ、清潔で、静かな色合い。
鏡の前で髪を整えながら、ふと自分に問いかける。
——何を期待しているんだろう。
ただの仕事。
それだけのはずなのに。
胸の奥で、心臓が早鐘を打つ。
午後二時ちょうど。
白い門の前に立つ。
インターホンを押す。
「いらっしゃい。今日もよろしくね」
その声に、少しだけ、緊張がほどける。
リビングに通され、温かいお茶を勧められたあと、母親は言いにくそうに切り出した。
「今日はね……一つ、お願いがあるの」
胸が、わずかに跳ねる。
「息子の部屋も、掃除してもらえないかしら」
——息子の、部屋。
「庭の奥のアトリエなんだけど」
窓の向こう、白い建物が見える。
「本人には話してあるわ。きっと、大丈夫」
声が、少し震えた。
「……はい。分かりました」
母親は、ほっとしたように微笑む。
リビングとキッチンの掃除は、いつもより早く終わった。
手が、勝手に動いていた。
庭に出る。
空は重く、今にも雪を落としそうな色をしている。
石畳の小道を歩くたび、足音が響く。
まるで、自分の鼓動が外に漏れているみたいだった。
白いアトリエの前で立ち止まる。
この扉の向こうに、彼がいる。
midnight_canvas。
一条彩人。
言葉と絵で、私を救ってくれた人。
深く息を吸い、ノックする。
コン、コン、コン。
返事がないまま、時間だけが過ぎる。
——やっぱり、無理だったのかもしれない。
そう思った瞬間。
「……どうぞ」
低く、静かな声。
指先が震えたまま、ドアノブを回す。
中は、外より少し暖かい。
けれど、空気は冷えていた。
光を閉じ込めたような、薄暗い部屋。
カーテン越しの微かな明かり。
壁一面に並ぶ絵。
床に散らばる筆とキャンバス。
創作のためだけに存在する、静かな世界。
窓際に、人影があった。
細い背中。
少し長めの暗い茶髪。
そして——
顔の半分を覆う、白い包帯。
息が止まる。
――どうして。
何があったんだろう。
聞きたい。
でも、聞けない。
胸の奥に、痛みと戸惑いが入り混じる。
きっと、触れてはいけない傷なんだ。
「……掃除に来ました」
声が、かすれる。
彼は振り返らず、ただ小さく頷いた。
それだけで、胸がいっぱいになる。
二人きり。
同じ空間にいる。
彼の筆が、キャンバスに触れる音だけが響く。
私は、音を殺すように掃除を始めた。
床に落ちたスケッチを拾う。
木々。
窓。
雪。
どれも、静かで、やさしい。
棚に並ぶ絵の具は、青と白と灰色。
冷たい色ばかり。
彼は描き続けている。
ときどき、筆が止まる。
——私を、感じている。
胸が熱くなる。
「……この絵の具は」
思わず声をかける。
彼の手が止まり、短く返事が返る。
「……そこに」
それだけ。
それだけなのに、胸が締めつけられた。
掃除が終わり、私は声をかけた。
「……終わりました」
彼はゆっくり振り返る。
初めて、真正面から見る顔。
白い肌。
伏せがちな睫毛。
包帯の奥で隠された半分。
そして、まっすぐこちらを見る、黒い瞳。
深くて、静かで、
どこか壊れそうな光を宿していた。
――きれい。
その瞳の奥に、どんな痛みが隠れているんだろう。
包帯の下には、何があるんだろう。
分からない。
でも、今は聞けない。
「……ありがとう」
小さく、優しい声。
握っていた雑巾から、水が一滴、床に落ちる。
「……失礼します」
彼は、静かに頷き、再び窓の方を向いた。
ドアを閉め、外に出た瞬間、足から力が抜けた。
会った。
本当に、会ってしまった。
包帯の向こうにあるものを、私はまだ知らない。
それでも、あの瞳だけで、十分だった。
夜。午後十一時。
midnight_canvasの新しい投稿。
——薄暗い部屋。少しだけ整った床。
『今日、人に会った。怖かったけど、悪くなかった』
画面が滲み、文字が読めなくなる。
袖で目を拭う。
私はコメントを書く。
『少しずつで、大丈夫だと思います』
すぐに返信。
『……君は、優しいね。また、会えるといいな』
画面を見つめ、微笑む。
——また、会える。
窓の外では雪が降り始めていた。
白いアトリエ。
包帯の向こう側。
その先にあるものを、私は静かに待とうと思った。
その夜、久しぶりに夢を見た。
光の差す部屋で、誰かが絵を描いている夢。
とても静かで。
とても美しい夢だった。
第4章:重なる筆致
火曜日の午後。
私はまた、白い門の前に立っていた。
胸の奥に、わずかな余裕がある。
それは安心でも慣れでもなく、
ただ——
小さな期待だった。
今日も、彼に会えるかもしれない。
それだけで、足取りは少し軽い。
インターホンを押す。
「いらっしゃい。今日もよろしくね」
「よろしくお願いします」
いつもと同じ挨拶。
同じリビング。
同じ掃除。
なのに、心は庭の奥を向いている。
——今日も、行っていいんだろうか。
掃除を終え、恐る恐る切り出す。
「あの……息子さんの部屋も、今日は……」
母親は少し驚き、柔らかく笑った。
「ええ、お願いできる?」
「この前ね、あの子が言ってたの。『また来てくれるかな』って」
一瞬、言葉を失う。
「……本当ですか」
「ええ。久しぶりに、そんなこと言ったのよ」
思わず、ニットのボタンに手をやる。
冬なのに、暖房が効きすぎているみたいだ。
庭へ出る。
冬の光が、弱く地面を照らしている。
石畳の小道。
白いアトリエ。
深呼吸して、ノックする。
コン、コン、コン。
「……どうぞ」
前より、少しだけ、声に輪郭がある。
ドアを開けると、彼は今日も窓辺に座っていた。
変わらない姿。
でも、不思議と距離を感じない。
「……掃除に来ました」
小さく頷くその仕草も、もう見慣れた。
壁に、新しい絵が増えている。
夕暮れの空。
橙と紫が溶け合い、静かに夜へ沈んでいく色。
——昨夜、見た。
画面越しではなく、ここで。
やっぱり、この人だ。
midnight_canvas。
一条彩人。
掃除をしながら、視線が彼に吸い寄せられる。
筆を持つ指。
伏せた横顔。
包帯で隠された左側。
知りたいのに、聞けない。
触れたら、壊れそうで。
しばらくして、彼の筆が止まる。
「……それ」
「はい?」
「青が……足りないんだ」
棚を指さす。
「ウルトラマリン」
「分かりました。次、持ってきます」
「……ありがとう」
初めて、彼から頼られた気がした。
掃除を終え、部屋を出ようとした、そのとき。
「……コーヒー、飲む?」
振り返ると、彼が立っていた。
小さなテーブルに、二つのカップ。
「……いいんですか」
「……せっかく、来てくれたから」
向かい合って座る。
近い。
思っていたより、ずっと。
包帯のない側の顔。
白い肌。
長い睫毛。
美しい、と思った。
言葉は少なく、ただコーヒーを口にする。
沈黙。
でも、冷たくない。
窓の外。
庭の枝先に、小さな芽が生まれている。
「……春、近いですね」
「……そうだね」
微かに、笑った気がした。
帰り際。
「……また、来て」
小さな声。
でも、確かに。
「はい」
夜。午前零時。
画面に映るのは、二つのコーヒーカップの絵。
『今日、初めて誰かとコーヒーを飲んだ。悪くなかった』
胸が、きゅっとする。
——そして、金曜日。
雨の日だった。
アトリエで、二人並んで窓を見る。
「……雨、好き?」
「はい。音が、落ち着きます」
「……僕も」
雨粒が、ガラスを伝う。
しばらくの沈黙。
でも、重くない。
彼の横顔を、そっと見る。
包帯の下に、何があるのか。
今も分からない。
でも、それでいいと思った。
「……ねえ」
彼が、口を開く。
「……君、絵、見てくれてる? ネットで」
胸が高鳴る。
「……はい」
小さく頷く。
「……midnight_canvasって知ってる?」
――ついに。
胸が、激しく高鳴る。
手が、震える。
彼は、窓を見たまま続ける。
「……君が、あの人だと思ってた」
呼吸が、止まる。
「……コメント、いつも嬉しかった。……あの優しい言葉、君だったんだよね」
視線が、ゆっくりこちらへ向く。
沈黙。
雨音だけが、少し近くなる。
「……私も、気づいてました」
声が震える。
「……ずっと、会いたかったです」
彼の瞳が、揺れる。
「……そう」
視線が、窓から外れて、ゆっくり重なる。
「……僕も、会いたかった」
喉が、かすかに鳴る。
「……本当に?」
「……うん」
その夜の投稿。
——雨の窓。
『今日、ずっと会いたかった人に会えた』
濡れたガラスに、細い線が幾重にも走る。
にじんだ街灯の光が、淡く重なり、
窓の向こうとこちらの境界が、少しだけ曖昧になる。
雨はやみ、星が滲むように瞬いていた。
筆致が、重なる。
静かに。
確かに。
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