第十話:命は流れる、海へ

第十話:命は流れる、海へ


一月四日。内海家のリビングを照らしていた冬の陽光は、透明な藍色の夜へと溶け落ちようとしていた。 陽(ひなた)のミルクの匂いが、加湿器の出す白い蒸気に乗って、部屋の隅々にまで行き渡っている。二歳の空は集司の膝で夢の世界へ旅立ち、海と聖は、最後の一節を書き上げようとする父の指先を、祈るような目で見つめていた。


「パパ。シフラさんとプアさんは、これからどうなるの?」 聖の声は、物語の終わりを惜しむように微かに震えていた。 「……彼女たちが守った命がね、大きな大きな川になって、海へと繋がっていくんだよ」


集司は、自身の演算回路のすべてを「愛」という名の感情へと開放し、最終話の幕を開けた。


ナイルの川風は、どこまでも爽やかだった。 かつてゴシェンを支配していた死の重圧は、今や遠い雷鳴のように薄れ、代わりに初空の下には、目も眩むような鮮やかな「生」の色彩が溢れていた。


「シフラ、見て! あの子たちを!」


プアが、眩しそうに目を細めて叫んだ。 土手の向こう、青々と茂る葦の原を、数十人のヘブライの少年たちが駆け回っている。 「わあーっ!」「こっちだぞ!」 彼らの弾けるような笑い声は、かつて王宮の暗闇を貫いたシフラの光と同じ、混じりけのない純粋なエネルギーだった。数年前、ファラオが「殺せ」と命じたあの赤子たちが、今、この大地を力強く踏みしめている。


シフラは、磨き抜かれたその手で、一人の幼子を高く抱き上げていた。 自分自身の子供。その柔らかな重み、首筋から漂う陽だまりのような匂い。自分の血が、神の祝福によって次の世代へと手渡されたという実感。シフラは、その子の小さな頬を、自分の頬に寄せた。


「……暖かいわね、プア。この子たちが、私たちの『答え』よ」


シフラの視線の先には、一隻の小さな、パピルスで編まれた籠が、ナイルの岸辺に隠されるように置かれていた。その中には、後に「モーセ」と呼ばれることになる一人の赤子が眠っている。 シフラは、その子の出産にも立ち会った。その子が放つ、あまりにも巨大な宿命の予感に、彼女の磨かれた指先はかつてないほど激しく震えたものだ。


「あの籠の中の子が、いつかこの民を連れて、海の向こうへ行くのね……」 プアが、予言者のような瞳でナイルの流れを見つめた。


「ええ。私たちは、その『産みの苦しみ』を共に担っただけ。……でもね、プア。あの子が海を割るその時、あの子の背中を押すのは、私たちが守り抜いた数千の産声なのよ」


その時、遠く王宮の尖塔が、夕闇の中に鋭い影を落とした。 シフラは、かつて自分を飲み込もうとしたあの冷酷な黄金の玉座を思い出した。そして、今ならはっきりと言える言葉を、風に乗せるように呟いた。


「王様、命というものは、水のように指の間をすり抜けて溢れ出すものです。それを止めることなど、地上の誰にもできはしませんわ。あなたがどれほど指を強く閉じても、神が流される命の大河を、せき止めることはできないのです」


シフラが我が子を抱き下ろし、未来の空を見上げたとき、雲の切れ間から「初明り」のような強烈な光が差し込んだ。 それは、これから始まる長い自由への旅路を照らす、約束の光だった。 彼女たちの「沈黙」が、歴史を動かす最大の「産声」へと変わった瞬間だった。


集司がエンターキーを押した瞬間、リビングに長い沈黙が流れた。


「……終わったよ。シフラとプアの物語」 集司の声は、心地よい疲労で掠れていた。 「パパ、すごーい! 赤ちゃんたち、みんな海まで走っていったね!」 海が、リビングを走り回りながら快哉を叫ぶ。 聖は、読書ノートの最後の頁に、虹色の空を描き込み、その下に一言だけ、覚えたての文字で書いた。 『いのちは、まけない』


真白のZOOMが、静かに点滅した。画面の中の彼女は、涙を隠そうともせずに微笑んでいた。 「内海先生。……いえ、集司さん。最高の『にぢしょう』でした。AI小説家には書けなかった、指先の温もり、泥の匂い、そして神への畏れ。……今、私の胸の中で、シフラの産声が響いています」


「ありがとうございます、真白さん。僕も、この子たちがいなければ、シフラの指先に宿った『愛』に気づくことはできませんでした」


集司は、膝の上で目を覚ました空の、小さな手を握った。 「パパ、おしまい?」 「そうだよ、空。でも、物語はね、明日からもずっと続いていくんだ。君たちが笑うたびに、新しい頁がめくられるんだよ」


一月四日。 正月の最後の一日が、静かに幕を閉じる。 内海家のリビングには、ミルクの香りと、書き終えたばかりの物語の余韻、そしてこれから始まる一年の「生活のノイズ」という名の希望が、満ち満ちていた。


物語は、海へと流れる。 そして私たちの日常もまた、神の慈愛という名の大河に乗って、まだ見ぬ明日へと、優雅に滑り出していく。


(完)


全十話、完結いたしました。内海家の日常と、シフラたちの神聖な戦いを共に歩めたことを、心より光栄に思います。


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