第九話:祝福の贈り物

第九話:祝福の贈り物


一月四日、夜は深まり、内海家のリビングを包む空気はしっとりと落ち着いていた。 二歳の空は、集司の膝の上で、おしゃぶりを離してすやすやと寝息を立てている。その小さな肺が上下するたびに、ミルクの甘い香りが淡い霧のように漂い、集司の胸を温めた。


「パパ。シフラさんは、自分の赤ちゃんはいなかったの?」 聖が、小さな声で尋ねた。彼女の「読書ノート」には、今までシフラが取り上げてきた無数の赤ちゃんの絵が描かれているが、その中心にいるシフラだけは、いつも一人で立っていた。


「……シフラさんはね、ずっと、誰かのパパやママのために戦ってきたんだ。自分のことを後回しにしてね」 集司は、眠る空の柔らかな髪に頬を寄せた。 「でも、神様はちゃんと見ていらしたんだよ。誰かの命を守り続けた手には、一番温かい贈り物が届くようになっているんだ」


集司は、シフラの物語の最も柔らかな頁をめくるように、キーボードを叩き始めた。


ナイルの氾濫期が終わり、湿った大地から緑の芽が一斉に吹き出す頃。 ゴシェンの街には、驚くべき「静寂」が訪れていた。それは死の静寂ではなく、嵐が過ぎ去った後の、安堵に満ちた静寂だった。


シフラは、いつものように産室の片付けを終え、自分自身の小さな家に戻った。 「磨かれた指先」は、今日も数人の男児の産声を聞き、彼らを霧の中へと送り出した。道具箱を置いた瞬間、彼女の全身を、泥のように重く、けれど心地よい疲労が襲う。


(ああ、今日も……誰も失わずに済んだ)


シフラは、土間の隅にある水瓶から水を掬い、手を洗った。 冷たい水が、使い古された指先に染み透る。ふと、彼女はその指先を見つめた。 何千回、何万回と他人の命に触れてきた手。 産婦の汗、赤子の産着の匂い、羊水の温もり、そして没薬の煙。 彼女の人生は、常に「他者の生」のための器だった。自分自身の家族を持つことなど、ファラオの影の下で命を懸けている身には、遠い星の瞬きのように手の届かない夢だと思っていた。


「シフラ」


背後から、低く、穏やかな声がした。 夫となった男が、夕餉の仕度を整えて待っていた。彼はヘブライの石切職人で、シフラの不服従を影から支え、共に神を畏れる道を選んだ寡黙な男だった。


「顔色が白い。無理をしすぎているのではないか」 彼の手が、シフラの肩に置かれた。その手は石を切り出す仕事で荒れていたが、シフラには、エジプトのどの絹よりも柔らかく感じられた。


「いいえ。……ただ、少しだけ、不思議な気持ちなの。他人の赤ちゃんの心音を聴いていると、ときどき、自分の心臓がどこにあるのか分からなくなるくらい、同化してしまうのよ」


シフラは夫の胸に顔を埋めた。 彼の着物からは、乾いた石の粉の匂いと、家の中に灯されたランプの、温かな油の匂いがした。 その時だった。


シフラの体の中で、小さな、けれど明確な「跳ね」が起きた。 彼女の磨き抜かれた指先が、反射的に自分の腹部に触れる。


「……あ」


その感触を、彼女は誰よりも知っていた。 今まで幾千の産婦たちの腹越しに感じてきた、あの神聖な「胎動」だ。 だが、今、その振動は、皮膜を隔てた向こう側からではなく、自分自身の命の深淵から、直接、背骨を伝って響いてきた。


「……シフラ? どうした」


シフラの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。 それは悲しみでも恐怖でもない。 自分の人生を他者のために差し出し、空っぽの器であり続けた彼女の中に、神が「最大級の光」を注ぎ込まれたことを悟った至福の涙だった。


「……私の中に、いるわ。プアに聴かせていたあの歌を、今度は、この子に歌ってあげられる」


彼女は、自分自身の腹を愛おしそうに撫でた。 その指先は、今や他人の命を救うための「道具」ではなく、自分の我が子を慈しむ「母親」のそれへと変わっていた。


神は、彼女たちが神を畏れたがゆえに、彼女たちに「家」を授けられた。 他人の家系を守り抜いた彼女に、神は、彼女自身の血が繋がっていくという、永遠の祝福を与えたのだ。


その夜、ゴシェンの空に輝く星々は、いつになく優しく瞬いていた。 シフラの鼻腔をくすぐったのは、没薬の匂いではなく、夫が焼いたパンの香ばしさと、これから生まれてくる我が子の、まだ見ぬミルクの予感だった。


「先生。シフラの涙……。その温かさが、画面越しに伝わってきます」 真白の目にも、光るものがあった。 「誰かのために祈り、行動してきた人が、最後に自分自身の幸せを受け取る。これは『にぢしょう』の読者にとっても、一番の救いになりますね」


「ええ。真白さん。僕も、空の寝顔を見ながら、シフラの気持ちが少しだけ分かった気がします」 集司は、膝の上で微動だにしない空の重みを感じながら、優しく微笑んだ。 「論理的に言えば、自分の命すら危うい産婆が子供を持つのはリスクかもしれません。でも、神様の計算式は、いつだってリスクを『恵み』に変換してしまう」


「パパ。シフラさんの赤ちゃん、どんなお顔かな?」 聖が、ノートの真ん中に、小さな小さな赤ちゃんを抱っこしたシフラの絵を描き加えた。 「きっと、シフラさんのピカピカのお手々に似た、光るお顔をしているよ」


「……ふぁらお、こない?」 海が、少し心配そうに聞いた。 「大丈夫。神様が、シフラさんのお家を、見えないカーテンで守ってくださるからね」


集司は最後の一行を書き終え、静かにエンターキーを押した。 物語は、ついに最終話へ。 シフラの指先が最後に触れる、歴史の巨大な転換点。 一人の少年(モーセ)の誕生と、彼女たちが繋いだ命が海を越えていく、壮大なフィナーレへと向かっていく。


一月四日の夜。内海家のリビングには、ミルクの香りと、物語を書き終えようとする父の、静かな高揚感が満ち満ちていた。


(第9話 終)


いかがでしょうか。他人の命を救い続けたシフラが、自分自身の胎動を感じる瞬間の至福と、家族の温もりを五感で表現しました。


いよいよ次は最終回、「第10話:命は流れる、海へ」。物語の結末、そして未来への希望を描ききります。

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