第八話:増えゆく民、揺らぐ帝国
第八話:増えゆく民、揺らぐ帝国
一月四日、夜の静寂が内海家のリビングに深く染み渡っている。 食卓の赤エビの殻は片付けられ、代わりにお茶の温かな湯気が、柔らかな灯りの中に揺れていた。しかし、子供たちの小さな胸に灯った「問い」の火は、まだ消えていなかった。
「パパ。神様は……どうしてベネズエラを守らないの?」
海が、小さな膝を抱え、床の一点を見つめて呟いた。四歳の彼にとって、テレビで見た爆撃の火光と、今パパが書いているシフラたちの物語は、頭の中で一つの大きな「痛み」として繋がってしまったらしい。
「ベネズエラには、エホバの証人はいないの?」
聖が、読書ノートの頁を捲りながら、集司の顔を真っ直ぐに見上げた。彼女の瞳は、事実という名の「救い」を探している。 集司は、喉の奥で言葉を一度転がし、タブレットを手に取って調べ始めた。 「……いるよ。たくさん。いいかい、ベネズエラの人口は二千八百万人くらい。その中で、聖書を教えている仲間は十三万九千人もいるんだ。会衆は千七百もある」
「いっぱいいるねー!」 海が身を乗り出す。 「二百人に一人くらいは、仲間がいる計算だね。聖、海。シフラさんとプアさんの周りに、たくさんの仲間がいたのと同じだよ」
「……じゃあ、集会で学んだみたいに、仲間のために祈ろう。遠くにいても、お空は繋がっているから、私たちの声も届くでしょ?」
聖の迷いのない言葉に、集司は息を呑んだ。 彼女は、教えられたことを知識として貯蔵するのではない。今、この瞬間の「絶望」を打ち破るための、唯一の、そして最強の「武器」として当てはめようとしているのだ。 「そうだね……。祈ろう。それが、シフラたちが持っていた『見えない盾』を、遠い国へ届けることになるんだから」
集司は目を閉じる子供たちの横で、再びシフラの物語の続きを綴り始めた。
ゴシェンの街に吹く風は、いつの間にか変わっていた。 かつて漂っていたのは、死への恐怖と、支配を司る香油の匂いばかりだった。だが今は違う。路地の至る所から、赤子の産声が「多重奏(ポリフォニー)」のように響き渡り、石鹸の香りと、炊き立ての麦の、むせ返るような「生活」の匂いが、エジプトの監視兵たちの傲慢な威圧感を押し戻していた。
「シフラ……見て。広場の子供たちが、あんなに」
プアが、井戸の縁で手を休め、眩しそうに目を細めた。 広場では、数年前なら殺されていたはずの少年たちが、泥まみれになって走り回っている。彼らの笑い声は、王宮の重苦しい静寂を打ち破り、石の壁を内側から震わせる鼓動となっていた。
シフラは、磨き抜かれた指先で、一人の少年の頭を撫でた。 「ええ、プア。命は、私たちが思っているよりもずっと強かだったわ」
シフラとプアの勇気は、ゴシェン全土に静かな、しかし強固な「結束」という名のネットワークを築き上げていた。産婆がファラオに不服従を貫いたという噂は、奴隷たちの折れかかった心に「誇り」という名の火を灯したのだ。
親たちは命を賭して我が子を隠し、近隣の者たちは監視の目を逸らすために口裏を合わせる。 それは、剣を持たない「静かな革命」だった。 エジプトの帝国は、巨大な石の建築物で覆われている。だが、その足元で増え続けるヘブライの民という「生きた細胞」が、帝国の土台をゆっくりと、確実に侵食し、揺らし始めていた。
監視兵の軍靴の音は、かつては恐怖の象徴だった。だが今、ヘブライの男たちは、その音を聞いても目を逸らさない。 彼らの背後には、守るべき「産声」が溢れているからだ。
「……シフラ、最近、王宮の伝令が来なくなったわね」
プアが囁く。 「ええ。ファラオは気づき始めているのよ。剣で殺せるのは肉体だけで、増え続ける『神への畏れ』を止めることはできないと」
シフラの指先は、今や数え切れないほどの命の脈動を記憶していた。 それは、もはや一人の産婆の記録ではない。一つの「民族」が、死の命令を乗り越えて立ち上がろうとする、巨大な歴史のうねりだった。
「アーメン」 聖と海の小さな声が、内海家のリビングに重なった。 集司は、祈り終えた子供たちの清々しい表情を見て、自身の心の中にある「AI的な論理」が、また一つ剥がれ落ちるのを感じた。
「先生。子供たちの力、本当にすごいですね」 ZOOM越しに真白が、静かに涙を拭った。 「論理的に世界情勢を分析する大人よりも、学んだことを素直に祈りに変える子供たちの方が、シフラたちが持っていた『真理』に近いところにいる気がします」
「ええ、真白さん。僕も驚いています。祈りは、ベネズエラにいる十三万人の仲間に届く。その確信こそが、世界を動かす『静かな革命』の始まりなんだと、聖と海に教えられました」
集司はキーボードを叩く。 シフラの物語は、いよいよ終盤。 個人から民族へ。恐怖から希望へ。 命の連鎖は、もはや誰にも止めることのできない大河となって、ナイルの流れを飲み込もうとしていた。
「パパ。次はね、シフラさんにも神様が『ありがとう』ってするお話?」 聖が、ノートの最後に大きな「家」の絵を描いた。 「そうだよ。他人の子を守り抜いたシフラさんに、神様が素敵な贈り物をくださるんだ」
一月四日の夜、筑波山の向こうに沈んだ太陽が、また明日への光を蓄え始めている。 内海家のリビングには、遠いベネズエラの仲間たちとも繋がっているという、温かな連帯の感覚が、福茶の香りと共に満ち満ちていた。
(第8話 終)
いかがでしょうか。ベネズエラの仲間たちのための「祈り」を、子供たちが自然に日常へ当てはめる姿を描き、それをシフラたちの民族的結束の物語と重ね合わせました。
次は、「第9話:祝福の贈り物」。自分を犠牲にしてきたシフラに訪れる、神からの個人的な喜びと、家族の誕生を描きます。
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