第七話:見えない盾

第七話:見えない盾


一月四日、夕闇が内海家のリビングを包み込む頃。 食卓の片隅で、海が積み上げたエビの殻の山が、照明を反射して鈍く光っている。聖は「読書ノート」の新しい頁に、金色の色鉛筆で大きな「盾」の絵を描いていた。 「パパ、シフラさんを守る盾はね、鉄じゃないんだよ。お日様の光でできてるの」


集司はその言葉を噛み締めながら、再びシフラの物語へと意識を沈めた。


王宮の空気は、前日よりもいっそう淀んでいた。 ファラオの怒りは、もはや目に見える炎ではなく、すべてを押し潰すような重い「沈黙」となって、広間を支配していた。シフラのついた嘘を、王が信じたわけではない。嘘だと知りながら、なぜかその女の首を撥ねる一言が、彼の喉元で凍りついたまま出てこないのだ。


「……シフラよ。其方は、余を侮っているな」


玉座の影から、ファラオの声が響く。それは地を這う毒蛇のように冷たく、シフラの足首に絡みついた。 広間は、昼間だというのに厚い帳が下ろされ、暗い。隅々で焚かれている獣脂のランプが、パチパチと不吉な音を立てて爆ぜ、鼻を突く獣の匂いを撒き散らしていた。


「……王よ。私は、ただ、目の前にある命を見つめているだけにございます」


シフラは、石の床に跪いていた。 プアは彼女の背後で、祈るように身を縮めている。 本来ならば、この暗闇と威圧感に飲み込まれ、彼女たちの存在は消し炭になっていてもおかしくない。だが、異変は、ファラオの側近たちが息を呑んだ瞬間に起きた。


広間の高い窓の、わずかな隙間から一筋の光が差し込んだのではない。 シフラの、あの「磨かれた指先」から、静かに光が溢れ出したのだ。


それは、正月の早朝に世界を白く染める「初明り」に似ていた。 冷たく、けれど清浄で、一切の不純物を許さない光。その光は、王宮に漂う死の匂いや、ファラオのどす黒い殺意を、砂が水を吸い込むように、音もなく無効化していく。


「何だ……その光は。其方は、魔術でも使っているというのか!」


ファラオが玉座の肘掛けを掴み、身を乗り出した。彼の目には、シフラの周囲だけが、まるでナイルの清流を掬い上げたかのような、透明な輝きに包まれているのが見えていた。 王が剣を抜こうと右手に力を込める。だが、指が動かない。 そこにあるのは物理的な壁ではない。 慈愛という名の、あまりにも巨大な「肯定」の力。 それは、何万人という奴隷を殺してきた王の「否定」の論理を、根底から嘲笑うかのように、静かに、ただそこに存在していた。


「……王よ。私が守っているのは、私の命ではございません」


シフラが顔を上げた。 彼女の瞳は、いまや王宮の暗闇を射抜く星のように輝いている。 「私が守っているのは、神がこの地に下ろされた『明日』にございます。あなたがどれほど剣を振るおうとも、明日の太陽を斬ることはできますまい」


「黙れ、黙れ……!」


ファラオは叫んだが、その声は空虚に響いた。 彼にはわかっていた。この女の背後には、ピラミッドよりも巨大で、ナイルの流れよりも永劫な「見えない盾」が立っている。 神がその指先で、彼女を囲む大気を硬く、美しく、結界のように固めているのだ。


シフラの鼻腔には、王宮の悪臭ではなく、今、ゴシェンの産室で生まれたばかりの赤子の、あの甘いミルクの香りが満ちていた。 その香りが、彼女の魂を支える「盾」の強度を、何倍にも高めていく。


「……行け。二度とその面(つら)を見せるな!」


結局、ファラオにできたのは、恐怖を怒りで塗り潰した、精一杯の拒絶だけだった。 シフラとプアがゆっくりと立ち上がり、背を向けて歩き出す。 彼女たちが通る場所だけが、冬の「初景色」のように明るく照らされ、黒い石の廊下に、彼女たちの影はどこにも落ちていなかった。


「パパ。シフラさんの周り、キラキラしてる?」 海の問いかけに、集司は我に返った。 リビングでは、聖の描いた金色の盾が、完成を迎えていた。


「ああ、キラキラだよ。王様がいくら『えいっ』てしても、神様の光が跳ね返しちゃうんだ」


集司は、真白とのZOOM画面を見つめた。 真白は、画面越しに自室の窓を指差した。そこには、四日の月が、シフラの光と同じ、冷たくも美しい銀色で輝いている。


「内海先生。第7話……圧倒的でした。理不尽な暴力や、管理社会の冷徹な論理を前にしたとき、私たちを守るのは武装ではなく、自分の信念が放つ『光』なんですね」


「ええ。真白さん。シフラを支えたのは、彼女が今まで取り上げてきた、何百もの命の温もりの蓄積だったんだと思います。それが一つの『神威』となって、彼女を物理的な危機から守った。……これは、育児も同じかもしれません」


集司は、ソファで眠りについた陽の、白い帽子をそっと直した。 「世間がどんなに騒がしくても、この子の寝息を守るという決意があれば、僕の周りにも、きっと見えない盾ができる。……そう信じたいんです」


「先生、今の言葉、そのまま『にぢしょう』のラストメッセージにできそうですね」


聖が、ノートを閉じて、集司の腕に抱きついてきた。 「パパ。シフラさん、次はね、赤ちゃんたちをみんなで『わーい』ってするんでしょ?」 「そうだね。次は、その増えた命たちが、世界を動かしていくお話だよ」


一月四日の夜が更けていく。 シフラの物語は、次なる第8話、静かな不服従が「民族の結束」という大きな波へと変わっていく、希望のうねりへと進んでいく。


(第7話 終)


いかがでしょうか。物理的な盾ではなく、「命を信じる強さ」が放つ神々しい光(初明り)を描き、ファラオの闇との対比を五感で表現しました。


次は、「第8話:増えゆく民、揺らぐ帝国」。産婆たちの勇気が、ついにエジプトの支配を内側から崩していく様子を描きます。


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