第六話:再召喚と知恵の盾
第六話:再召喚と知恵の盾
一月四日、夕餉(ゆうげ)の食卓。 内海家のリビングには、香ばしく焼き上げられた赤エビの匂いが充満していた。 「パパ、これ、シフラさんが食べたお魚と同じくらい美味しい?」 海が、小さな指をエビの殻に突き立て、無邪気に剥き始める。パキッ、パキッという小気味よい音が響き、エビの身から弾ける潮の香りが、冬の乾燥した空気に溶け込んでいく。
「……そうだね、シフラさんたちも、ナイルで獲れたエビや魚を食べて、元気を出したかもしれないね」 集司は、赤エビの殻の硬さを指先に感じながら、脳内のスイッチを切り替えようとしていた。だが、子供たちの「物語への侵食」は、想像を絶する角度からやってくる。
「パパ」 海が、赤い汁のついた手で空を指差した。 「どうしてアメリカは、どっかーんてしたの?」
集司は、箸を止めた。テレビのニュースで流れていたベネズエラ空爆の映像を、海は見ていたのだ。四歳の瞳には、火を噴く爆撃機も、ファラオの冷酷な命令も、同じ「得体の知れない暴力」として映っている。
「ロシアも、どっかーん。お家が壊れちゃうの、悲しいね」 聖が、剥いたエビの身を口に運びながら、静かに、けれど鋭いバグを投げ込む。 「……ふぁらおも、どっかーん!」 海が、さらに声を張り上げた。「パパの書いている悪い王様も、どっかーんてしてやっつけるの?」
「……海、聖。それはね……」 集司は喉の奥に、エビの殻が引っかかったような乾きを覚えた。 彼にとって、ファラオの命令は「古代の物語」であり、空爆は「現代の情勢」だ。しかし、子供たちにとっては、どちらも等しく、平和な「食卓」を脅かす、巨大で黒い影なのだ。
シフラたちが守ろうとしたのは、まさにこの、無防備にエビを剥く手の温もりだった。
物語の世界では、ナイルの霧よりも冷たい呼び出しが、シフラとプアに届いていた。
「……行きましょう、プア。逃げれば、ゴシェン中の男の子が、もっとひどい『どっかーん』に遭うわ」
二人は再び、エジプトの王宮へと足を踏み入れた。 前回よりも監視は厳しく、廊下には抜き身の剣を持った兵士たちが並んでいる。金属の擦れる冷ややかな音と、重苦しい香油の匂い。 謁見の間に入った瞬間、爆発的な殺気が、二人をなぎ倒さんばかりに吹き荒れた。
「シフラ、プア!!」
玉座から立ち上がったファラオの咆哮は、まさに雷鳴のようだった。 「余を愚弄するつもりか! ヘブライの男児は減るどころか、増え続けているではないか! なぜ、余が命じた通りに殺さなかった!」
ファラオの瞳は、ベネズエラの空を焼き尽くすミサイルの光と同じ、冷徹な破壊の光を宿していた。 プアは、あまりの恐怖にガチガチと歯を鳴らした。シフラは彼女の手を強く握り、その「磨かれた指先」に、神から預かった勇気を一点に集中させた。
「王よ……恐れながら申し上げます」
シフラの声は、震えていなかった。 彼女は、食卓でエビを剥く子供たちの、あの無邪気な「問い」を思い浮かべていた。暴力に対して、暴力で返さないための、最も優雅な不服従。
「ヘブライの女性は、エジプトの女性とは違うのです。……彼女たちは、まるで野の獣のように元気があって、私たち助産婦が辿り着く前に、もう産み終えてしまっているのです」
静寂。 宮殿の中に、一瞬、ナイルの泥の匂いと、生命の圧倒的な躍動が吹き込んだような気がした。 シフラのついた嘘は、単なる逃げ口上ではない。それは「命は王の命令よりも速く、強く、溢れ出すものだ」という、究極の真理の宣言だった。
「……何だと?」
「王がどれほど殺せと命じても、命はそれよりも速く、この地に産声を響かせるのです。私たちには、それを止める術はございません」
ファラオの指先が、怒りで震える。だが、シフラの瞳に宿る、自分への恐怖を通り越した「別の存在(神)」への畏れに、彼は一瞬、気圧された。 物理的な「どっかーん」という力では、この女たちの奥底にある「命を信じる心」を破壊することはできない。
「……下がれ! 二度と余の前に、その醜い言い訳を運んでくるな!」
ファラオは忌々しげにマントを翻した。 王宮を出るとき、プアは腰が抜けたように崩れ落ちた。 「シフラ……私たち、勝ったの?」
「いいえ、プア。勝ったのは私たちじゃない。……あの子たちの、生きようとする力が、死の命令を追い越したのよ」
「パパ、シフラさん、どっかーんされなかった?」 海が、エビの殻を積み上げた山を見つめながら、心配そうに聞いた。 「されなかったよ。シフラさんはね、言葉でお盾を作ったんだ。それで、みんなを守ったんだよ」
集司は、真白とのZOOMを開いた。 真白は、画面の向こうで日曜日の集会のノートを見直していたが、集司の顔を見て、微笑んだ。
「先生……第6話、素晴らしいですね。子供たちの『戦争』への問いと、シフラの『嘘』が、一つのテーマで繋がりました。暴力という大きな力に対して、私たちはどう立ち向かうべきか。シフラはそれを、最も平和的で、機知に富んだやり方で示したんですね」
「ええ、真白さん。子供たちが言った『どっかーん』は、大人が世界を管理しようとする論理の極致です。でも、シフラの指先が守ったのは、その論理では測れない、エビを剥くような、お絵描きをするような、無秩序で愛おしい日常なんです」
聖が、ノートの端にシフラの似顔絵を描き、その周りにたくさんの「赤ちゃん」と「エビ」の絵を描いた。 「パパ、神様はね、どっかーんしないよ。神様は、みんなに『よしよし』するんだよ」
その言葉に、集司は今度こそ、心からの安堵を覚えた。 一月四日。日常が動き出すこの夜。 内海家のリビングには、ファラオの冷気も、遠い国の火薬の匂いも届かない、ミルクと、潮の香りと、家族の笑い声という名の「聖域」が完成していた。
「さあ、みんな。残りのエビも食べちゃおう。シフラさんに負けないくらい、元気になるためにね」
集司はキーボードを閉じ、子供たちの「命のノイズ」の中に、自分自身を深く沈めた。 物語は、次なる第7話、さらに強まる弾圧と、それを見えない力で守り抜く「神の盾」の描写へと進んでいく。
(第6話 終)
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