第五話:ナイルの夕映え
第五話:ナイルの夕映え
ナイルの川面が、溶けた黄金を流したような輝きに染まっていた。 太陽が地平線の端にかかり、空を深い「初茜」から紫、そして藍色へと塗り替えていく。この夕映えの数刻だけは、エジプトの酷暑も和らぎ、代わりに川面を渡る風が、葦の茂みを「ざわざわ」と鳴らしながら、湿り気を帯びた涼しさを運んできた。
シフラとプアは、ゴシェンの喧騒を離れ、ナイルの土手に腰を下ろしていた。 足元の泥は日中の熱を吸い込んでいて、お尻の下でじんわりと温かい。風に乗って流れてくるのは、川水の生臭さと、遠くの集落で誰かが焼いている魚の香ばしい匂い、そして泥の中に咲く蓮の花の、わずかに甘い香りだ。
「……シフラ、見て。あんなに大きな船が」
プアが指差した先を、ファラオの徴税官を乗せた帆船がゆっくりと進んでいた。大きな帆が風を受けて「バタバタ」と鳴り、何十人もの漕ぎ手が櫂(かい)を漕ぐ音が「ギィ、ギィ」と規則正しく響く。その軍隊的な秩序は、彼女たちの日常に忍び寄る「影」そのものだった。
「船が通るたびに、王の目がゴシェンを覗き込んでいる気がするわ。……最近、広場の井戸端でも、誰も赤ちゃんの話をしようとしない。みんな、口を噤んで、お互いの顔色を窺っている」
プアは、膝を抱えて小さく呟いた。彼女の指先は、恐怖を紛らわせるように、土手の草を「ぷつ、ぷつ」と引き抜いている。
「ファラオの疑念は、もう隠しようがないところまで来ているわ」
シフラは自分の「磨かれた指先」を、夕闇の中にかざした。夕陽を透かした指先は、琥珀色に透き通り、その中に流れる血の赤が鮮明に見えた。
「昨日、産後の往診に行ったら、家の前に監視兵が立っていた。私が家に入る時、奴らは私の道具袋の中まで嗅ぎ回ったわ。……『男の赤子の死体はどこだ』と言わんばかりの目でね」
「……怖いわ、シフラ。いつまでこんなことが続けられるの? もし次に私たちが呼ばれたら、もう『死産でした』なんて言葉、通用しないかもしれない」
プアの瞳に、夕映えの光が涙となって溜まり、こぼれ落ちそうになる。 シフラは、プアの震える肩をそっと抱き寄せた。プアの体からは、連日の緊張で少し酸っぱくなった汗の匂いがしたが、それは彼女が必死に生き、命を守ってきた証だった。
「プア、怖がるのは当然よ。私たちだって、ただの人間だもの。……でもね、思い出して。私たちが昨日、あの小さな隠し部屋で出会った、あの男の子の瞳を。あの子は、あなたの歌を聞いて笑ったじゃない」
「……ええ。とっても、力強い声で笑ったわ」
「そう。あの子たちは、もう私たちの血の一部なの。……いい、よく聞いて、プア。私たちは、ただの産婆じゃないわ」
シフラの声は、川のせせらぎに混じり、静かに、けれど鋼のような強さを持って響いた。
「私たちは、神の庭で、新しい芽を摘ませないための番人なのよ」
「番人……?」
「そう。エジプトという巨大な冬が、すべての命を凍らせようとしても、私たちはその下で、小さな根っこを守る火を灯し続けるの。神様がこの地上に命を降ろしたとき、その『最初の一歩』を支える役目に、私たちを選ばれた。それはファラオの王冠よりも、ずっと重くて、ずっと光栄な任務だと思わない?」
シフラの言葉に、プアは息を呑んだ。 彼女は涙を拭い、夕闇に沈みゆくナイルの川面を見つめた。 「神様の、庭の番人。……そうね。私の歌が、その芽を守る風になるなら。……シフラ、私、もう逃げないわ。たとえ明日、どんな冷たい風が吹いても」
二人は、重なり合う影の中で、互いの手のひらを重ねた。 温かな体温が、指先を通じて心臓へと流れ込む。 空には、最初の一番星が、鋭い針のような光を放ち始めていた。
内海家のリビングでは、いつの間にか陽が落ち、部屋の隅に夜の気配が溜まっていた。
「……パパ。シフラおばさんの指、今、オレンジ色になってるね」 聖が、iPadの画面に描いたシフラの手に、夕焼けの色を塗っている。 「そうだね。シフラさんは、神様から預かった命を守るために、自分の心に火をつけたんだよ」
集司は、ノートPCのキーボードを静かに叩いた。 第5話。物語の折り返し地点。 論理的な正解は「逃亡」かもしれない。だが、シフラたちは「留まる」ことを選んだ。
「真白さん。シフラはここで、自分の社会的役割を超えて、『天職(コーリング)』に目覚めました。彼女にとって、産婆であることは単なる職業ではなく、神との契約になったんです」
真白は、画面越しに聖書を傍らに置き、神妙な面持ちで頷いた。 「……先生。その『番人』という言葉、心に響きました。今、内海家で子供たちが立てている『生活のノイズ』も、先生にとっては守るべき『庭の芽』なんですね」
「ええ。この喧騒を、一秒でも長く守り抜く。それが今の僕の不服従です」
「パパ、お腹すいた! 夕焼けが終わったら、ごはんだよ!」 海の元気な声が、神聖な静寂を鮮やかにぶち壊した。 集司は笑った。この無遠慮な、生命力に満ちたノイズこそが、シフラがナイルのほとりで誓った「未来」そのものなのだ。
「よし、海。今日のご飯は、シフラさんが食べたかもしれない、美味しい魚の香草焼きにしようか」
一月四日の夜が始まる。 シフラの物語は、次なる第6話、ついにファラオとの「言葉の決戦」へと進んでいく。命を守るための、最も美しく、最も大胆な「嘘」を携えて。
(第5話 終)
いかがでしょうか。中間点としての静かな決意と、ナイルの情景を五感でシンクロさせました。
次は、「第6話:再召喚と知恵の盾」。ついにファラオの怒りが爆発し、シフラが歴史に残る「あの嘘」を放つ名シーンです。
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