第四話:命を隠す霧
第四話:命を隠す霧
ゴシェンの朝は、ナイルから這い上がる濃い霧に包まれていた。 湿った空気は重く、人々の肌にまとわりつき、鉄錆のような泥の匂いを運んでくる。だが、この不自由な視界こそが、今のシフラたちにとっては唯一の味方だった。
「……シフラ、あっちの長屋、三人目の男の子よ。昨夜、無事に『霧』の中に消えたわ」
プアが、井戸端で洗濯物を絞りながら低く囁いた。バシャリ、という水の音が、彼女の声を覆い隠す。 シフラは黙って頷き、磨き抜かれた指先で麦の殻を剥いていた。指先は相変わらず優美だが、爪の生え際には、連日の極限状態がもたらした深い疲労が刻まれている。
「これで、今月だけで十人。……私たちの嘘が、ゴシェンの街を覆う霧になっているわね」
あの日、最初の決断を下してからというもの、シフラとプアは「命の運び屋」となっていた。男の子が生まれれば、産声を上げる前に口を塞ぎ、家族には「死産だった」と偽るよう指示する。そして、夜の帳と霧に紛れ、子供を隠し部屋や、遠く離れた親類のもとへ運ぶのだ。
その日の午後。シフラが産後の検診を終えて路地を歩いていると、背後から「カツッ、カツッ」という硬い音が響いた。
エジプト兵の軍靴の音だ。
シフラの背筋を、冷たい蛇が這い上がるような戦慄が走った。彼女は足を止めず、しかし呼吸を整えた。 「……おい、そこの産婆」
低い、濁った声。シフラが振り返ると、青銅の胸当てをつけた二人の兵士が立っていた。彼らからは、強すぎる香油の匂いと、汗、そして「支配」という名の傲慢な匂いが立ち上っている。
「はい、何用でしょうか」 シフラは深々と頭を下げた。視界の端で、彼女の指先が微かに震える。 「最近、この界隈では女ばかりが生まれるという噂だ。死産も妙に多い。……ファラオの慈悲を、裏切ってはいないだろうな?」
一人の兵士が、腰の短剣を弄びながらシフラに近づく。金属が擦れる不吉な音が、彼女の鼓動を早めた。 「……命を司るのは神様です。私たち人間は、ただ、流れるままを受け入れることしかできません」
「ふん、屁理屈を。……もし、隠している者がいれば、産婆もろともナイルの餌食になると思え」
兵士が去った後、シフラは近くの壁に手をついた。石壁のざらついた感触が、手のひらに痛いほど食い込む。 恐怖。それは喉の奥を締め付け、胃を酸っぱい液で満たす、黒い影だ。
「……シフラ!」
物陰からプアが飛び出してきた。彼女の顔は紙のように白い。 「見たわ。あの兵士たち、すぐそこまで来ている。もう、限界よ。いつか誰かが密告するわ。そうなったら、私たちは……」
「プア、こっちへ」 シフラはプアを狭い裏路地へ引き込んだ。そこはゴミの臭いとカビの匂いが混じる場所だったが、人目は遮れる。 シフラはプアの、震える両手を自分の手で包み込んだ。
「怖いのは、私だって同じ。夜、風の音がするたびに、王宮の処刑人が来たんじゃないかって飛び起きる。……でもね、プア。あの子たちの温もりを思い出して」
「温もり……」
「そう。私の指先には、まだ残っているの。生きたいと願って私の手を握り返した、あの小さな、熱い指の感触が。……あの子たちの未来を殺すことは、神様の息吹を止めることなのよ」
シフラの指が、プアの手のひらを強く圧した。 「私たちは、ただの産婆じゃない。神様がこの地上に遣わした、命の防波堤よ。あなたが歌を歌い、私が手を取り上げる。……一人が折れれば、堤は崩れる。でも、二人で支え合えば、この霧はどんな嵐にも消されないわ」
プアは、大きな瞳に涙を溜めながら、シフラを見つめ返した。 彼女の手の震えが、少しずつ収まっていく。 「……わかったわ。私、もっと大きな声で歌う。監視の耳を惑わすくらい、綺麗な歌を。赤ちゃんの泣き声を、全部私の歌の中に隠してあげる」
二人は、その腐敗した匂いのする路地裏で、固い抱擁を交わした。 それは、死を覚悟した戦友の誓いだった。 彼女たちの周囲には、再びナイルの霧が立ち込め始めていた。その霧は、冷たいはずなのに、どこか母の胎内のような、不思議な安らぎを湛えていた。
「パパ……悪い人が来るの?」 内海家のリビング。物語に没頭していた海が、不安そうに集司の裾を掴んだ。 「大丈夫だよ、海。シフラさんとプアさんは、とっても仲良しだから。二人の力は、悪い人の剣よりも強いんだ」
集司はキーボードを叩きながら、ふと、真白の言葉を思い出していた。 『生活のノイズこそが、インクになる』
今、内海家には「陽」のミルクの甘い匂いと、聖の鉛筆が走る音、海のミニカーが立てる音、そして空がキーボードを叩こうとする「カチャカチャ」というノイズが溢れている。 かつての集司なら、これらを不快な「バグ」として排除していただろう。 だが、今の彼にはわかる。 この無秩序な音の重なりこそが、生きていることの証であり、シフラたちが命がけで守ろうとした「産声」の連なりなのだと。
「真白さん。シフラたちは今、恐怖という霧の中にいます。でも、その中でお互いの手を取ることで、彼女たちは『個』から『ネットワーク』へと進化した。……神の意志は、一人のカリスマではなく、こうした小さな連帯の中に宿るんですね」
真白は、画面の向こうで深く頷いた。 「先生、その『結束の手触り』が、文章から熱を持って伝わってきます。……次は、ついにファラオに疑念を抱かれるシーンですね」
窓の外、四日の陽光が西に傾き、リビングに長い影を落としていた。 シフラの物語は、いよいよ中盤、命がけの「嘘」を構築する局面へと向かっていく。
(第4話 終)
いかがでしょうか。監視の足音という聴覚的恐怖と、シフラとプアの肉体的な接触を通じた「結束」を対比させて描きました。
次は、「第5話:ナイルの夕映え」。束の間の休息と、ファラオの追及が迫る予感を、美しい情景と共に描きます。
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