第三話:最初の決断
第三話:最初の決断
ゴシェンの夜は、澱んだ泥の匂いと、行き場のない熱気に満ちていた。 王宮から戻ったシフラは、闇の中で自分の指先をじっと見つめていた。暗がりでも、その指先は月光を弾いて青白く、優美に光っている。 だが、その芯は、ファラオの勅命という「氷」に触れたまま、凍りついたように動かなかった。
「……シフラ、起きてる?」
隣の寝床で、プアが震える声で尋ねた。窓の外では、夜の鳥が不吉な声を上げて飛び去っていく。 「ええ。起きているわ」 「私たち、どうするの? 王様の目は、壁の隙間にだってあるわ。もし、男の子を取り上げて……生かしておいたら、私たちの首は……」 「プア、寝なさい。今はまだ、何も生まれていないわ」
シフラは冷たく突き放すように言った。そう言わなければ、自分の中にある恐怖のダムが決壊してしまいそうだったからだ。
その瞬間は、夜明け前の最も深い闇の中で訪れた。 激しく扉を叩く音。「産婆さん! シフラさん! 早く、家内が!」
シフラの体は、思考よりも先に跳ね起きた。長年の習慣が、恐怖を上書きする。 道具袋を掴み、プアを促して夜の街へ飛び出す。走るたびに、サンダルが跳ね上げる泥の匂い。産婦の家に着いたとき、そこにはすでに、重苦しい「生の予感」が充満していた。
「あ、ああああ……っ!」
産婦は、敷物の上でもがき苦しんでいた。 没薬を焚く時間すらない。部屋を占めるのは、汗と、羊水と、張り詰めた人間の意志の匂いだ。
シフラは産婦の枕元に膝をついた。 「いい、よく聞いて。私とプアが来たわ。あなたは、ただ、この子の道を作るのよ」 シフラの指先が、産婦の膨らんだ腹に触れる。その瞬間、彼女の指先に電流のような感覚が走った。
(……動いている)
腹の中の命が、外の世界へ出ようと、猛烈な力で壁を蹴っている。 シフラは息を呑んだ。この子は、まだ知らないのだ。自分が生まれ出る世界に、すでに自分の「死」を命じる王がいることを。
「シフラ、見えるわ……頭が!」 プアの叫び。シフラの視界に、湿った黒い髪が見えた。 シフラの指先が、その命を迎えに行く。
指先が赤子の側頭部に触れた瞬間。 脳裏をよぎったのは、ファラオの無機質な声だった。 『男の子であれば、その場で殺せ。其方たちのその指で、喉を、な』
シフラの指が、ピクリと震えた。 殺せば、私はエジプトの「忠臣」だ。褒美も出るだろう。命も助かる。 けれど、今、指先に伝わっているこの熱は何だ?
ずるり、と。 この世の重力に従って、命が滑り出してきた。 シフラの腕の中に、温かな塊が収まる。
「……男の子だわ」
プアが、あっと息を呑んで後退りした。 部屋の中に、一瞬の、真空のような静寂が訪れる。 赤子はまだ、声を上げていない。 シフラの手のひらの中で、小さな、まだふやけたような、けれど驚くほど柔らかな肌が、彼女の皮膚に密着している。
(熱い……)
シフラは戦慄した。 この子の肌は、太陽の光を吸い込んだ大地の熱を持っていた。 そして、その小さな背中には、目に見えないほど微かな、けれど確かな「拍動」が刻まれている。 ドクン、ドクン、ドクン。
そのリズムは、ファラオの石造りの宮殿よりも、王宮のどの財宝よりも、圧倒的な「正しさ」を持ってシフラの指先を打った。 シフラの指が、赤子の首筋に触れる。 ほんの少し、指先に力を込めるだけで、この拍動は止まる。 王宮の冷気の中で生きるか。それとも……。
「……シフラ?」 プアの声が、泣きそうに震えている。
その時だった。 赤子の小さな、未完成な指が、シフラの「磨かれた指」をぎゅっと握り返した。 言葉にならない。論理でもない。 ただ、生命が生命に対して、「私を見つけて」と叫んでいるような、無垢な接触。
その温もりが、シフラの心の中にあった「ファラオへの畏怖」を一瞬で焼き尽くした。 代わりに溢れ出したのは、天地を貫くような、巨大な「真の神」の意志だった。
(ああ、神様。あなたは、こんなにも温かいものを、この世界に置かれたのですか)
シフラは、赤子の口から粘液を指でそっと拭った。 それは、殺すための指ではなく、息をさせるための指だった。
「プア……この子に、息を」
「でも、シフラ! 男の子よ、これ……」
「プア!!」 シフラの鋭い声が、闇を切り裂いた。 「この子は、王のものではないわ。神様から、お預かりしたものよ。殺せるはずがない……こんなに、こんなに温かいものを!」
シフラは赤子の尻を、愛情を込めて叩いた。 直後。 「おぎゃあ! おぎゃあ!」 ゴシェンの夜を揺らす、力強い産声が響き渡った。
それは、シフラとプアにとって、死刑宣告にも似た音だった。 同時に、彼女たちが「神の共犯者」となったことを告げる、祝福の音でもあった。
シフラは震える手で、赤子を産婦の胸に抱かせた。 「おめでとう……元気な、男の子よ」
涙が、シフラの頬を伝い、産婦の汗と混ざり合った。 シフラは自分の指先を見つめた。 そこには血と羊水がつき、かつてないほど生々しく、美しく輝いていた。 この指は、今日、初めて本当の意味で「磨かれた」のだ。
内海家のリビング。 キーボードを叩く集司の指が、微かに震えていた。
「パパ、お目々が赤いよ」 聖が、心配そうに顔を覗き込んできた。 「……大丈夫だよ。シフラさんがね、とっても重たい宝物を見つけたんだ」
画面の中では、シフラが自分の指先に宿る「熱」を噛み締めている。 集司は、真白とのZOOMを繋ぎ直した。
「真白さん……書けました。シフラの『決断』です。彼女は、王への忠誠ではなく、指先に伝わる『温度』を選びました」
「……『温度』、ですか」 真白は、コーヒーカップを持ったまま、沈黙した。 「AIには、温度は測れても、温度の『意味』は理解できません。先生、この赤子の温もりは、読者の心に一生消えない火を灯すはずです」
「パパ、赤ちゃん、ぎゅーってしたの?」 二歳の空が、自分のぬいぐるみを抱きしめながら聞く。 「そうだよ。シフラさんはね、ぎゅーってして、神様の声を聴いたんだ」
集司は、空の頭をそっと撫でた。 その髪の柔らかさ、頭皮の温かさ。 それは、どんな優れたプロットよりも、彼に「書くべきこと」を教えてくれる。
「真白さん。次は第4話。命を隠し通す、隠密の戦いが始まります。……でも、彼女たちの心は、もう迷っていません」
外では、一月四日の太陽が天頂に達し、内海家のリビングを「初明り」で真っ白に満たしていた。
(第3話 終)
いかがでしょうか。赤子の「温もり」という五感を通じ、シフラが論理を超えて神の意志を選択する瞬間を丁寧に描きました。
次は、「第4話:命を隠す霧」。監視が強まる中、二人がどのように男児たちを守り抜くのか。サスペンスフルな展開へと進みます。
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