第二話:黄金の玉座からの冷気
第二話:黄金の玉座からの冷気
ゴシェンの泥の匂いが、遠い夢のように思えた。 王宮の廊下は、鏡のように磨き抜かれた黒い石材で敷き詰められ、シフラとプアが歩くたびに、サンダルが立てる「ペタ、ペタ」という乾いた音が、高すぎる天井へと虚しく吸い込まれていった。
「シフラ、心臓の音がうるさくて、歌が歌えないわ……」
隣を歩くプアが、震える声で囁いた。彼女の肌からは、いつもの快活な花の香りは消え、冷や汗による鉄のような匂いが漂っている。
「前だけを見て、プア。私たちは、命を運ぶ器にすぎない。空(から)の器なら、何も恐れることはないわ」
シフラは前を見据えた。だが、彼女の「磨かれた指先」は、着物の袖の中で固く握りしめられていた。 廊下の両脇には、巨大なアヌビス神の石像が並び、その漆黒の瞳が、生者の魂を量るかのように二人を凝視している。ここにあるのは、ゴシェンの産室にあるような「湿った生の熱」ではない。すべてを凍らせ、永遠に固定しようとする「死の秩序」だった。
巨大な扉が開かれた瞬間、肌を刺したのは物理的な冷気だった。 「謁見の間」は、外の灼熱が嘘のようにひんやりとしている。柱の一本一本に刻まれたヒエログリフが、青白いランプの光を受けて蠢いているように見えた。
その奥、一段高い黄金の玉座に、エジプトの神、ファラオが座していた。
「……近う寄れ。ヘブライの産婆たちよ」
その声は、重く、低い。まるで地底を流れる砂が擦れ合うような響きだった。 シフラとプアは、冷たい床に額を擦りつけるようにしてひれ伏した。石の床からは、太古の墓所のようなカビ臭い、ひんやりとした匂いが上がってくる。
「シフラと、プアにございます。……王よ、御前へ」
シフラが言葉を発した瞬間、玉座から放たれる圧倒的な「圧力」が彼女の肩を押し潰した。それは肉体的な重さではない。一言で数万の命を消し去ることのできる、絶大な権威という名の魔力だった。
「其方たちは、日々、ヘブライの女たちの股から生まれる、あの忌々しい『増殖』を助けているそうだな」
ファラオの指先が、玉座の肘掛けを「ト、ト、ト」と規則正しく叩く。その音が、処刑までの秒読みのように聞こえた。
「はい。私たちは、命がこの世に滑り出るのを……お手伝いしております」
「滑り出る、か。……ならば、その滑り出たものを、元に戻してやれ」
ファラオが身を乗り出した。彼の首にかけられたラピスラズリの装飾が、カチリと音を立てた。 「命じた。これより、ヘブライの女の出産を助ける際、よく見定めよ。男の子であれば、その場で殺せ。女の子であれば、生かしておけ」
静寂。 部屋の隅で焚かれている香炉から、一筋の煙が立ち上る。その煙は、まるで逃げ場を失った赤子の魂のように、天井の闇へと消えていった。
「……王よ。それは、あまりに……」
プアが声を漏らそうとした。シフラは反射的にプアの手を、床の上で強く握った。シフラの指先は、今や氷のように冷たくなっていたが、その芯には、今まで感じたことのない異質な「熱」が灯り始めていた。
それは、権力を前にした恐怖ではない。 もっと巨大な、天地を創り出した「真の神」に対する畏れだった。
「聞こえぬか? これはエジプトの法、すなわち神の言葉である」
ファラオの瞳は、感情を排した宝石のように無機質だった。 「男は兵となり、叛乱の種となる。その種を、芽吹く前に摘み取る。……其方たちのその『磨かれた指』で、絞め殺せというのだ。赤子の喉を、な」
シフラの脳裏に、さっき取り上げたばかりの赤子の、あの温かな脈動が蘇った。 あのアンスラサイトのように黒く澄んだ瞳。自分を信頼しきって、初めての空気を吸い込もうとしていた、あの小さな肺。 ファラオの言葉は、そのすべてを「ノイズ」として消去せよと言っている。
「……かしこまりました。王の、仰せのままに」
シフラは、自分でも驚くほど落ち着いた声で答えた。 プアが目を見開いて自分を見るのを感じたが、彼女は顔を上げなかった。
王宮を出るまで、二人は一言も交わさなかった。 再び廊下を歩くとき、シフラの指先には、ファラオの放った冷気がこびりついて離れなかった。だが、胸の奥では、冷たい風に煽られて燃え上がる熾火のように、ひとつの確信が形を成していた。
「先生。シフラは、嘘をついたのでしょうか」
内海家のリビング。 真白の問いが、ZOOMのスピーカーから響いた。
「いいえ。彼女はまだ嘘すらついていません。ただ、地上の王よりも、もっと恐ろしく、もっと慈愛深い存在の前に立ってしまったんです」
集司は、画面越しに聖の横顔を見た。 聖はノートに、大きな目をしたライオン(ファラオの象徴だろうか)と、その足元で咲いている小さな花(シフラたちだろうか)を描いている。
「真白さん。AIなら、ファラオの命令の『生存確率』と『リスク』を計算して、従うことを選ぶでしょう。でも、シフラは計算を捨てた。彼女の指先は、ファラオの玉座から漂う死の冷気よりも、赤子の産声が持つ『光の重さ』を信じてしまったんです」
「……霊的な不服従、ですね」
「パパ、このライオンさん、お顔が怖いよ」 海が画面を覗き込む。 「そうだね。でもね、海。この小さな花さんは、ライオンさんよりも強いんだよ。だって、神様が水をあげているからね」
集司はキーボードを叩いた。 シフラの物語は、今、王宮の冷気という「死の論理」を突きつけられた。 しかし、彼女の磨かれた指先は、すでに次の「命」を取り上げるための準備を始めていた。たとえそれが、死罪を意味するとしても。
「真白さん。次回の第3話では、彼女たちが直面する『最初の決断』を書きます。産室で、彼女たちが何を見たのか。その手触りを、余すことなく」
窓の外では、夕暮れの「初茜」が、筑波山の稜線を燃やすように輝いていた。それはまるで、シフラの胸の中で燃え始めた、静かな不服従の炎のようだった。
(第2話 終)
いかがでしょうか。王宮の冷徹な雰囲気と、シフラの中に芽生える「神への畏れ」を対比させて描きました。
次は、「第3話:最初の決断」。実際に男の子が生まれた時、シフラの指先はどう動くのか。緊迫の出産シーンへ移ります。
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