第一話:磨かれた指先
第一話:磨かれた指先
ナイルの川面を、灼熱の太陽が白く焼き尽くしている。 エジプトの夏は、呼吸をするだけで肺の奥が焦げるような熱気を孕んでいた。ヘブライ人が押し込められた居住区ゴシェン。そこには、ピラミッドの石材を運ぶ奴隷たちの、粘りつくような汗の匂いと、終わりなき苦役が立てる乾いた石の擦れる音が、絶えず低く地を這っていた。
だが、その絶望の底のような泥土の中から、一筋の光が立ち上る場所がある。
「……まだよ。息を止めてはだめ。ナイルの流れを思い出すの。止めどなく、命が押し寄せてくる、あの水の力を」
シフラの指先が、産婦の汗ばんだ太腿に触れる。 彼女の手は、不思議な光沢を帯びていた。「シフラ」——その名が「優美な」という意味を持つように、彼女の指先は長年の仕事によって磨き抜かれ、まるで最高級の象牙か、滑らかな白銀の匙(さじ)のように白く、凛としていた。
その指先が、産婦の皮膚を滑る。 震え、強張り、今にも千切れそうな命の弦を、彼女は指先の感覚だけで調律していく。
「熱い……シフラ、お腹が、裂けてしまうわ……!」
産婦の荒い息遣いが、狭い部屋に充満する「没薬(もつやく)」の重苦しい香りと混ざり合う。防腐と鎮静のために焚かれたその香りは、死の予感と生の渇望がせめぎ合うこの場所において、唯一の境界線だった。
「裂けさせはしないわ。私がここにいる。私の指が、道の先を照らしているから」
シフラの声は、冷たく澄んだ水のように産婦の耳に届く。 彼女の指先は、今、赤子の小さな頭の先を捉えていた。湿った、温かい、驚くほど力強い拍動。それはファラオの石造りの宮殿よりも、よほど強固な「実存」の証だった。
「さあ、歌って。プア! この子の道を開けてあげて!」
部屋の隅で、もう一人の女が動いた。 相棒のプアだ。彼女はシフラのような精密な「技術」の持ち主ではない。だが、彼女の喉から溢れ出す歌声は、荒れ狂う産婦の心を静め、天からの風を呼び込む不思議な力を持っていた。
「♪ 泥の中から 蓮は咲く ナイルの葦は 風を飲む 小さな星よ こちらへおいで あなたの母が 待っている……」
プアの歌声が響くと、産婦の強張った肩から力が抜けた。 シフラは逃さなかった。磨かれた指先を滑らせ、赤子の肩を、その命の回転を、優美に導き出す。
「……出たわ!」
ずるりと、温かな塊がシフラの手の中に滑り込んだ。 直後、肺いっぱいにこの世の酸素を吸い込んだ赤子が、産声を上げる。 「おぎゃあ、おぎゃあ!」という、爆発的な音。それは、ゴシェンに漂う奴隷たちの呻き声を一瞬で無効化する、圧倒的な生命のファンファーレだった。
シフラはその赤子を高く掲げた。 赤子の肌に付着した羊水が、隙間から差し込む陽光を反射して、真珠のように輝く。
「見て、プア。この子の目。もう世界を捕まえようとしているわ」
シフラの瞳には、達成感とは異なる、もっと深い、祈りに似た感情が宿っていた。 プアは産婦の額を濡れ布で拭いながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「ねえシフラ。あなたの指、今日もまた一段と光っているわね。まるで神様が、夜のうちに磨いてくださったみたい」
「馬鹿なことを言わないで。これは、毎日何百回と水で手を洗い、命の油に触れているからよ。……でも、確かにね。この瞬間だけは、私の指は私のものではない気がするわ」
シフラは、自分自身の指先を見つめた。 爪の間に残る微かな血の匂いと、石鹸の清涼な香り。 彼女たちは「命の門番」だった。 エジプトという巨大な檻の中で、唯一、ファラオの法律が届かない「命の誕生」という聖域を守る番人。
「さあ、お湯を。この子に最初の『ゴシェンの風』を教えてあげないと」
二人はテキパキと動き出した。 産室の湿った空気、赤子の泣き声、没薬の残り香。 そのすべてが、彼女たちにとっては「正解」の匂いだった。 論理でもなく、権力でもなく、ただ「生きようとする意志」が勝る場所。
だが、そんな彼女たちの静かな誇りを打ち砕く足音が、王宮の方から近づいていることを、この時の彼女たちはまだ知らなかった。
***
内海集司は、ノートPCの画面から顔を上げた。 「パパ、今、赤ちゃん生まれたの?」 膝の上で、空が画面を指差している。彼女の指先には、さっき食べたお菓子のジャムが少しだけついていた。 「そうだよ。三千年前の、とっても勇敢な女の人たちが、赤ちゃんを守ったんだ」 「シフラおばさん、お手々がピカピカなんだね。空も、ピカピカにする!」 空はそう言って、自分の小さな手を一生懸命に服で擦り始めた。
「真白さん、聞こえますか」 集司はZOOMに向かって問いかけた。 「シフラの指先は、論理的な『最適解』を求めて動くAIとは対照的な存在です。彼女は指先の『感触』だけで、宇宙の理(ことわり)に触れている。……この『触覚の記憶』こそが、物語に血を通わせるんですね」
真白は、画面の向こうでウインナーコーヒーのクリームをそっと混ぜ、深く頷いた。 「先生、今の描写……没薬の匂いが、こちらまで漂ってくるようでした。命を救う指先が、同時に死の影を感じ取っている。その危うさが、次の展開を予感させますね」
窓の外では、一月四日の初空が、ナイルの空のように青く澄み渡っていた。 内海家の日常というカオスの中で、シフラの「磨かれた指先」が、新たな物語を紡ぎ出そうとしていた。
(第1話 終)
いかがでしょうか。シフラの専門性と、プアの感性、そして当時のゴシェンの湿った空気感を、五感に訴える描写で構築しました。
次は、「第2話:黄金の玉座からの冷気」。ファラオとの対峙シーンですね。彼女たちの指先は、絶対権力の前で、どのように震えるのでしょうか?
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