3

 久条家の本邸は、広大な敷地にそびえ立つ古風な洋館だった。


「……すごい。ここ、本当にお家なんですか?」

「ああ。呪われた伝統という名の、ただの巨大な牢獄だ」


 車のドアを開けた蓮の横顔は、いつにも増して険しい。

 今日、私たちがここへ来たのは、久条グループの最高権力者であり、蓮の祖父である久条宗一郎に「結婚の報告」をするためだ。


 豪華な応接間に通されると、そこには威圧感の塊のような老人が座っていた。


「……その女が、お前が選んだ『妻』か」


 宗一郎の鋭い眼光が私を射抜く。

 あまりの恐怖に足が震えそうになったその時、蓮が私の手を力強く握った。


「そうだ。佐藤凛花。俺が一生を添い遂げると決めた唯一の女性だ」


「一生だと? 蓮、お前も焼きが回ったな。身元調査の結果は聞いている。家柄も財産もなく、職すら失った、ただの路傍の石ではないか。そんな女が、久条の正妻にふさわしいと思うのか?」


 宗一郎の言葉は、氷の塊をぶつけられたように冷たく、残酷だった。


「身代わりなら白鳥家の娘でも、他にいくらでもいただろう。そんなゴミを拾ってきて、何のつもりだ。今すぐその女を追い出せ。さもなくば、次期社長の座はお前の従兄弟に譲る」


 頭の先から冷や水を浴びせられたような感覚だった。

 私のせいで、蓮さんが積み上げてきたすべてが壊れてしまう。


「……あの、おじい様、私は……っ」

 私が口を開こうとした瞬間、蓮の怒りが爆発した。


「ゴミだと? 二度とその口で彼女を侮辱するな!」


 蓮の低い声が部屋中に響き渡り、空気がピリリと張り詰める。

 彼は私の肩を抱き寄せ、祖父を真っ向から睨みつけた。


「社長の座? そんなもの、くれてやる。凛花のいない未来に、何の価値がある。俺が欲しいのは、久条の看板じゃない。……この女だけだ」


「……何だと?」


「彼女は、お前たちが求めるような『家柄』という名の虚飾を持っていない。だが、誰よりも優しく、真っ直ぐに俺を見てくれる。俺を『久条の跡取り』としてではなく、ただの『久条蓮』として必要としてくれたのは、世界中で彼女だけだ」


 蓮の言葉が、私の胸に熱く響く。

(……嘘。私はただ、契約に従っているだけなのに。どうしてそんなに、切なそうな声で……)


「行くぞ、凛花。ここにいると、心が腐る」


 蓮は驚愕する祖父を置き去りにし、私の手を引いて屋敷を飛び出した。




 夕暮れ時の庭園を、彼は一度も振り返らずに突き進んでいく。

 その大きな背中が、どこか泣いているように見えて、私はたまらず彼の腕を掴んだ。


「蓮さん、待ってください!」

「……離せ。今のお前には、俺の醜い感情を見せたくない」


「見せてください! 私だって、あなたの妻なんですから……っ、契約だとしても、今の言葉は嬉しかった。だから……一人で抱えないで」


 蓮の足が止まった。

 彼はゆっくりと振り返り、力なく私を抱き寄せた。

 彼の顔が私の肩に埋められ、熱い吐息が首筋にかかる。


「……怖かった。お前まで、俺の家柄や力だけを見て、俺自身を捨てていくんじゃないかと」

「そんなこと……」


「俺の両親は、家柄争いの末に互いを憎み合って死んだ。俺にとって『家族』とは、利用し合うだけの道具でしかなかった。だが……雨の中でお前に出会った時、ボロボロになっても母の形見を握りしめていたお前を見て、初めて『守りたい』と思ったんだ」


(……え? あの夜、彼は偶然私を見つけたわけじゃ……?)


「凛花。俺は、嘘をついていた」


 蓮が体を離し、私の両目をじっと見つめる。

 その瞳には、もう「氷の皇帝」の冷たさはなかった。


「『契約』なんて言えば、お前が逃げないと思った。居場所のないお前を縛り付けるための、卑怯な口実だったんだ。……俺は、最初からお前を愛していた」


 衝撃の告白だった。

 震える私の唇を、彼の長い指がそっとなぞる。

「一年経っても、お前を離すつもりなんて毛頭ない。お前を一生、俺の檻の中に閉じ込めて、愛し抜く。……これでも、俺と一緒にいてくれるか?」


「……っ」

 返事をする代わりに、私は彼のシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。

 自分でも気づかないうちに、私の心も、この孤独な王様に奪われていたのだ。


「……逃げません。どこにも。……蓮さん」


 その瞬間、彼は飢えた獣のような熱っぽさで、私の唇を奪った。

 先日の未遂とは違う、深く、熱く、こちらの理性を溶かしてしまうような、激しいキス。

 夕焼けに染まる庭園で、私たちは何度も何度も、愛を確かめ合うように唇を重ねた。




 マンションに戻ると、蓮はさらに甘く、独占欲を剥き出しにした。


「今日はもう、部屋には返さない」

 寝室のベッドに押し倒され、彼が私の上に覆い被さる。


「蓮さん、あの……っ、心の準備が……」

「ダメだ。さっきあんなに可愛い顔で俺を求めておいて、今さら逃げられると思うな」


 彼は私の首筋に顔を寄せ、吸い付くように痕をつけていく。


「ここに、俺の印をつけておく。誰が見ても、お前が俺のものだとわかるようにな」


 低い、熱を帯びた声。

 首筋に走る痺れるような快感。

 冷徹な彼が見せる、狂おしいほどの情熱。


 私はもう、彼の腕の中から逃げ出すことなんて、できそうになかった。

 しかし、幸せの絶頂にいる私たちに、さらなる影が忍び寄っていた。


 蓮のスマホに届いた一通のメッセージ。


『久条蓮の不正融資疑惑。証拠は手元にある。彼女を救いたければ、明日の夜、一人で指定の場所へ来い』


 差出人は、私を捨てたあの元婚約者、健二だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る