2

 豪華なパーティーから一夜明け、私の生活は一変した。


 都心の超高層マンションの最上階。

 久条蓮の邸宅は、生活感という言葉を排除したような、無機質で洗練された空間だった。


「今日からここがお前の家だ。必要なものはすべて揃えてあるが、足りないものがあれば秘書に言え」


 朝食のテーブルで、新聞に目を落としたまま蓮が言う。

 目の前には、一流シェフが作ったようなエッグベネディクトと、香りの高いコーヒー。

 昨日までの私が、コンビニの半額パンをかじっていたのが嘘のようだ。


「あの……久条さん。私、ただ養ってもらうだけなのは心苦しいです。何か、私にできる仕事はありませんか?」


 私が恐る恐る尋ねると、彼は初めて新聞から顔を上げた。

 その鋭い眼差しに射すくめられ、思わず背筋が伸びる。


「仕事、か。……なら、俺の『癒やし』になれ」

「えっ……?」

「冗談だ。そんな顔をするな」


 彼はわずかに口角を上げると、立ち上がって私のそばに歩み寄った。

 そして、私の耳元で低く囁く。


「お前の仕事は、俺の妻として美しく、幸せそうにしていることだ。お前がやつれた顔をしていれば、俺の経営能力が疑われる。……わかったか?」


 強引な物言い。けれど、その言葉の裏に「守られている」という安心感を感じてしまうのは、私が弱っているせいだろうか。




 数日後、私は彼に連れられて、最高級デパートの外商顧客専用フロアにいた。


「これと、これ。あと、あの列のドレスをすべて彼女のサイズで用意しろ」


 蓮は迷うことなく、次々と指をさしていく。

 タグに刻まれた信じられないような金額に、私の心臓はバクバクと鳴りっぱなしだ。


「久条さん、こんなにたくさん……! 着ていく場所もありません」

「場所なら俺が作る。お前はただ、俺に飾られていればいい」


 彼は私の手首を掴み、自分の方へと引き寄せた。

「いいか、凛花。お前はもう、誰にも見下される必要のない『久条蓮の妻』だ。堂々としていろ」


 その時だった。

「あら、蓮様。こんなところでお会いするなんて奇遇ですわね」


 甲高い、けれど鈴を転がすような美しい声が響いた。

 振り返ると、そこにはモデルのようにスタイル抜群で、気品溢れる女性が立っていた。

 彼女は私を一瞥すると、露骨に蔑むような笑みを浮かべた。


「そちらが例の……『身代わり』の方かしら? もっと素敵な方かと思っていましたけれど、ずいぶんと地味なんですのね」


 彼女は白鳥沙織(しらとり さおり)。

 久条グループの重要な取引先である白鳥財閥の令嬢で、以前から蓮の婚約者候補と目されていた女性だ。


「沙織か。勝手に俺のプライベートに踏み込むなと言ったはずだ」

 蓮の声が、一瞬で温度を失う。


「あら、心配しているんですのよ? こんな出所もわからないような女を隣に置いて、蓮様の格が下がるのではないかと。ねえ、あなた? いくらで雇われたのかしら。倍払ってあげるから、今すぐ消えてくださる?」


 沙織の言葉が、鋭いナイフのように私の胸に突き刺さる。

 やっぱり、私みたいな人間がここにいるのは間違いなんじゃないか。そう思って俯きかけたその時――


 ガシッ、と。

 蓮の強い腕が私の肩を抱き寄せ、彼女の胸に私の体を深く沈めさせた。


「……沙織。二度と俺の妻を侮辱するな。次にその無礼な口を開けば、白鳥家との契約をすべて白紙に戻す」

「え……っ、蓮様!? 本気でおっしゃっているのですか!?」

「俺は、お前のような不躾な女に興味はない。凛花は俺が選んだ、唯一の女だ。……失せろ」


 蓮から放たれる圧倒的な殺気に、沙織は顔を真っ青にして逃げるように去っていった。

 嵐が去った後の静寂。私は、蓮の腕の中で震えていた。


「……すみません、私のせいで、大事なお仕事に影響が……」

「大丈夫だ」


 蓮は私の顎を強引に持ち上げ、自分の方を向かせた。その瞳は、怒りで燃えているようにも、あるいは別の情熱を孕んでいるようにも見えた。


「お前が謝る必要はない。俺の所有物に手を出そうとした奴に、報いを受けさせただけだ」


「所有物……」


 その言葉に、胸の奥が熱くなる。

 自由を奪われるはずのその言葉が、今の私にはどんな甘い愛の言葉よりも甘美に響いた。




 その夜。

 マンションに帰宅した後、私は緊張で眠れずにいた。

 というのも、今日から「夫婦」としての信憑性を高めるため、寝室も一緒にするよう蓮に命じられたからだ。


(いくら契約結婚とはいえ、あんな素敵な人と一つ屋根の下、しかも同じ部屋なんて……)


 お風呂上がり、バスローブ姿でリビングのソファに座っていると、仕事の手を休めた蓮が部屋に入ってきた。


 濡れた髪、はだけた胸元から覗く逞しい筋肉。

 昼間のスーツ姿とは違う、あまりにも無防備な色気に、私は目のやり場に困る。


「……何を赤くなっている」

「い、いえ! なんでもありません!」

 慌てて立ち上がろうとした瞬間、足がもつれて、私はソファに倒れ込んでしまった。


「危ない」

 蓮が瞬時に手を伸ばし、私を受け止める。

 結果として、私はソファに押し倒されるような形になり、蓮がその上に覆い被さっていた。


 鼻先が触れ合うほどの距離。

 彼の体温と、スパイシーで都会的な香水の匂いが全身を包み込む。

「凛花……。お前、自分が今、どんな顔をしているか自覚があるのか?」


 蓮の声が、いつになく掠れている。

「……っ、久条、さん……」

「蓮、と呼べと言っただろう」


 彼の大きな手が、私の頬を包み込む。

 親指でそっと唇をなぞられ、脳が痺れるような快感に襲われる。

「契約にはなかったが……。お前がそんな顔で俺を誘うなら、俺もいつまで『契約』を言い訳に理性を保てるかわからない」


「誘ってなんて……っ」

「いいや、誘っている。その潤んだ瞳も、震える肩も……すべて俺に、壊してほしいと言っているようにしか見えない」


 蓮の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 拒絶しようと思えばできたはずなのに、私の体は磁石に吸い寄せられるように、彼を求めてしまっていた。


 唇が重なる、その寸前。

 彼のスマートフォンの着信音が、静寂を切り裂いた。


「……チッ、空気を読めない奴だ」

 蓮は忌々しそうに舌打ちをすると、私から体を離した。

 一気に冷たい空気が入り込み、私は名残惜しさと恥ずかしさで顔が爆発しそうになる。


「……今日はもう寝ろ。明日は朝から、俺の実家へ行く。……『俺たちの結婚』を認めさせるためにな」


 蓮は背を向けて部屋を出ていったが、その耳たぶが少しだけ赤くなっているのを、私は見逃さなかった。

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