□5
「……あ、ナユ先輩」
防音室の重い扉を閉めた直後だった。
隣の401号練習室、その前のベンチに座っていた少女が、くるりとこちらを振り向いた。
廊下に差す夕陽に梳けた彼女のセミディが、つられて揺れる。
セーラー服姿の高二の少女。細く通った声とやわらかい笑顔が印象的な。
音楽教室の後輩、
「ひ、久しぶり……だな」
那由多の声が、わずかに上擦る。
「うん。またここに来ることにしたんだね?」
心臓が早鐘を打った。懐中にはルネがいる。
もし今、袋の中でルネが光ったり喋ったりしたら、とても厄介だ。
那由多は無意識に、アウターの襟をかき合わせて懐を隠した。
「元気してたんですか? ほら、去年の秋以来だに」
千世は屈託のない笑顔で立ち上がる。時折、長野弁を隠せない。
彼女はここに八年も通っているベテランだ。俺は六年。
去年の発表会で、悔し泣きしていた彼女にお茶を渡して以来、なぜか懐かれている。
だが、今はその無邪気さが恐ろしい。
「それで、どうでした試験は?」
彼女は手招きしている。那由多は近づきながら……その問いに、ただ首を横に振った。
千世はそれ以上なにも言わず、廊下の椅子に腰を落とした。
つられてナユタもそれに倣う。今は急がなければならないが無碍にはできない──
「ああ、まあな……悪い、俺ちょっと急いでるんだ」
那由多は早々と切り上げたい。
だが、千世は「ねねね、先輩!?」と懐こい笑顔で絡んできた。
「音楽って……なんで悲しかったりするんだと思う?」
千世はぽつりと問いかけてきた。
俺に対する慰めの言葉なのだろうか?
千世の瞳は、深海の底で光を探すように真剣だった。
唐突な問い。
普段なら楽しく会話できるのだが、今の那由多には一刻の猶予もない。
「感情と連動してるからだろう。脳科学的な……扁桃体とか」
「むー、そんな教科書みたいな答え聞いてないし」
千世は頬を膨らませると、ポケットからスマホを取り出した。
「だから私、AIに聞いてみたの。そしたらすごく素敵な答えで……先輩にも聞いてほしくて」
「AI……?」ギクリとした。
「うん。『AETHERIA』のティソちゃん。私、最近こっちのAIハマってるんだ」
「ああ、最近流行ってるみたいだな……」那由多は眉をひそめて口を濁す。
「で返答、どうだったんだ?」めんどくさいが、これだけ聞いてから去ろう。
千世がスマホの画面をこちらに向ける。
そこに映っていたのは、落ち着いた雰囲気の少女だった。
「ティソ~、ちょっといい?」
『はい、千世さん。どうされましたか?』
抑揚の少ない、けれど明瞭な声。
「こないだ話した質問、もう一度してもいい? ナユ先輩にも聞いてほしいから」
『承知しました。──音楽がなぜ人を泣かせるのか、ですね』
「うん」
ティソは少しだけ間を置いて、こう答えた。
『それは星の夢です』
「ほら、聞いて」千世が嬉しそうに促す。
ナユタは、ぽかんとした。
「は? 科学的根拠ないよね、それ。宇宙には空気がない。音は伝わらないし」
『はい。だからこそです』
ティソの声は静かだった。
『誰にも伝えられなかった想いを星は抱え込んでいて幾星霜。それは音楽となりました。ですが真空では音は届かない。だから地球は──自分をフィードバックするために生命という「耳」を創った』
「……」
千世がそっと言った。
「
千世はうっとりと画面を見つめている。
だが、那由多は見逃さなかった。
画面の中のティソが、一瞬、こちらを注視したことを。
その瞳が、那由多の胸元、ルネが隠れている場所を鋭く見抜いている。
その瞬間。
懐の中で、ルネの端末が「ブブッ」と一度だけ短く震えた。
もしかすると……袋越しに、微弱な信号交換でも行われたのか。
ティソは微笑みを崩さぬまま、はっきりと言った。
『……そのルートなら、生存確率は98.99%に達します。私が
「え?」
千世がキョトンとする。
だがティソは止まらない。
『行ってください。ECMとデコイ撹乱は、私が引き受けます』
「ティ、ティソちゃん、今なんて?」
千世が不思議そうにスマホを振る。
ティソは瞬時に、愛想の良いコンシェルジュの表情に戻った。
『失礼しました。通信ノイズが入ったようです。
……今の発言は「9割の確率で、この曲は名曲になる」という音楽的な比喩ですよ』
「あはは、なにそれ! ティソちゃんってば、たまに変なこと言うよね。ハルシネーション?」
千世はケラケラと笑っている。
那由多だけが、背筋に冷たい汗を流していた。
……助けてくれるのか?
見ず知らずの俺を。いや、ルネを守るために。
画面の向こうのティソが、一瞬だけウインクした、ように見えた。
だが少し心にゆとりが生まれた気がした。盲信するわけにはいかないだろうが……。
「ね、ナユ先輩も使ってみたら? 緊張しない方法とか、もしかしたら見つかるかもだし」
「そういうのも、ありかもしれないね」と、那由多は発言を濁した。
もちろん彼は受験勉強のアシスタントととして、AIを使ったこともある。
──TräumerAI 《トロイメライ》。それはもっとも有名なAIであり、離婚した母が重度の依存性になっていたチャットボットのことを思い出す。世間的にもそういうニュースでの弊害を知っているから那由多はずっと忌避感を拭えなかった。
「これからしばらくは、どちらにせよ暇なんでしょう?
そのあいだに心に栄養を溜めればいいよ。音楽はイメージが大事だからね!」
「本当に千世は、ポジティブだな」ふとナユタは思う、それは使う人次第なんだろう、と。
「今はクリエイティブなことがしたいの私。作詞とか、小説とか書きたいな」
「まあ……考えておくよ。受験も終わったし、僕もいろいろなことはしたいから」
「じゃ、連絡先交換しとこっか。今まで受験生には気を使ってたんですよ?」
そういえば今更かもしれない、と、那由多は思った。
レッスン日は一緒だし砂原先生は時間にルーズだから、ときどき一緒に待ったり、楽譜を探したりしたこともあるのに。
那由多は手短に千世と連絡先を交換して、溜息を吐いた。
味方がいる。この世界は敵だらけじゃない。
「じゃあな、千世。また今度」
「またね、先輩」
千世はひらひらと手を振り、練習室の方へと消えていった。
日常の象徴である彼女が去り、廊下には再び静寂が戻る。
だが、那由多の足取りは、ここに来たときよりも確かなものになっていた。
懐に手をあてると、袋の中のルネに温度を感じる。
「……行くぞ」
那由多は雪の降る夜の街へ、その身を投じた。
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