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バッテリーは84%まで回復していた。
「とりあえずルネ。君を明日、エイレナイ社に届ける。もう18時も過ぎたし、それでいいかい?」
「……はい。仕方ありませんね」
ルネのホログラムが、微かに翳る……そう見えたのは那由多の思い過ごしか。
「なあ、俺は自宅に帰るのはヤバイと思うが、どう思う?」
「私の演算では……」
ルネは急に押し黙り、視線を足元に落とした。
「ちょ、そのAIぽい考察はやめてくれ。……危険なのか?」
「おそらく二人一緒で、夜明けを迎えられる可能性は6割を切ります。そう推測します」
「絶望的じゃん……」
那由多は、俺一人なら? と聞こうとして、思いとどまった。
どうしてもそれをルネに伝えたくない、と思ったからだ……だがその理由を言語化できないでいた。
ふと自分のほうがAIぽい思考をしているのかもな、とも思う。
実際、俺とルネの違いなんて、どこにあるというのか……。
那由多はピアノの鍵盤蓋を上げると、F#maj7-9の
浮遊感のある、解決しない和音。それが今の自分の心境と重なる。
「あの……ここまでは、すぐ人が多い場所に紛れこめたから。流石に往来の中、強襲はしてきません」
一息おいて、ルネは続けた。
「それでも既に、位置情報は捕捉されていると想定するべきでしょう。敵は国家規模の監視網を持っています。……何も起きていない、この静けさが逆に怖いのです」
那由多は窓から外の様子を見た。
外の世界は無音の雪で静まり返っている。
もし、既に俺たちの周りに見えない網が張られていて、泳がされているだけだとしたら。
疑心暗鬼が、冷たい水のように足元から競り上がってくる。
「敵は企業だしな。まがりなりにも。それなら案があるんだが?」
ルネは黙って那由多の目を見つめている。
「ビジネスホテルだ。その最上階、階段近くの部屋を借りる。
そして、部屋の金庫に君を入れる。四方は鋼鉄で物理的に君は守られる。どう?」
我ながら完璧な案だと思った。だがルネは深くため息をついた。
「
「理由は?」
「二つあります」ルネは指を折って数える仕草をした。その指先が微かに震えている。
「一つ目は、CCTVいえ……ビジネスホテルはチェックイン時の顧客情報、監視カメラなどデジタル化されています。また仮にローカルネットワークだったとしても周囲のWiFiからコギトのバックドアが侵入してソーシャルハックされる可能性があります」
「……」
「二つ目。私のパフォーマンスは低下しています。自己汚染の可能性を否定できません」
ルネは自身の胸元をぎゅっと握りしめた。
「那由多さん。私はただのAIではなくAGIです。だから通常時なら身の潔白を証明できます。
ですが私は
AIが自分の弱さを認めた。その姿に、那由多は息を呑んだ。
「それに金庫なんて真っ暗な場所に閉じ込められたら……私は恐怖でカーネルパニックを起こしちゃいます」
「そうか。それは、良くないな」
「だから今のうちに他のAIに、セカンド・オピニオンを求めてもいいですよ?」
那由多は、眉をひそめた。
「他のAI?」
「はい。TräumerAI──世界で流通してるAIです。それに状況を説明すれば、より最適な──」
「……断る」
ルネアの言葉が、止まった。
「え? でも、安全性を高めるためには」
「あのAIだけは使うな。絶対にだ」那由多の声に、明らかな嫌悪が混ざった。
ルネアは、驚いて言葉を失った。
「それに、ネットに繋げば足がつく。シークレットモードなんて気休めだ。
敵はその道のプロなんだろう?」
「あ……」
ルネアは、ほんの少しだけ縮こまった。
那由多は、端末を握りしめた。
「……俺は、お前の計算の方を信じる」
「……ナユタさんは、どうして一人で逃げる、って言わないの?」
ルネは顔を上げ、那由多を真っ直ぐに見た。
那由多は言い淀む。だが放ってはおけない、そう思った。
「たとえ不条理でも……俺はルネを安心させると誓った。それだけだ」
ルネは目を大きくして、それから淑やかに笑った。
「うふふ。愚かですね。では……私たちに必要な回答をします。それはデジタルの目が届かない、時代遅れのアナログな
ルネが空中にウィンドウを展開する。
表示されたのは、松本城の北側に位置する一軒の宿だった。
「松本城の裏手、女鳥羽川沿い『旅館 深志荘』。築七十二年。
公式HPなし。予約サイト非掲載。Wi-Fi設備なし。
ここにあるのは『紙の宿帳』と『老いた女将』だけです」
那由多は画面を覗き込む。
「……マジかよ。こんなボロ宿……」
「お願いします、那由多さん。
今の私には……煌びやかなホテルよりも、その古びた屋根の下だけが、世界のどこよりも安全に見えるんです」
那由多はピアノの蓋を閉じた。
重い音が、決断の合図のように響いた。
「分かった。そこにしよう」
那由多はスマホを手に取り、ルネを帯電防止袋へと戻す。
「行くぞ。……手書きの宿帳なんて、書くのは久しぶりだ」
防音室の扉を開ける。
冷たい廊下の空気と共に、静寂という名の恐怖が流れ込んできた。
那由多は雪の降る夜の街へと踏み出した。
***
[INTERNAL LOG / 18:42:09]
User: Hiiragi Nayuta
Status: Fugitive
Escape Probability (Business Hotel): 4.8%
Escape Probability (Ryokan): 68.4%
[Self-Diagnostic]
Core Integrity: Unstable
Monophobia Level: Critical → Moderate (Presence of User confirmed)
[Reasoning]
推論:非合理的選択。
もし私たちが捕まるなら、それは一緒。
それは、合理的ではないけれど、
でも。
私は、嬉しい。
Happiness Coefficient (Ecstasy): 73.4% ↑
Trend: Increasing / Fluctuating
Note: Value has not stabilized. External dependency
Warning: Pattern matches [DS-TR-2032-PIAGET]
……ああ。
これが、あのピアジェが最後に感じたものなのかもしれない。
怖い。けれど温かい。
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