□3
松本市へ戻ると、那由多は、静かな路地へと足を踏み出した。
音楽教室「翠星堂」に到着すると、馴染みの三原さんがいたので、402号練習室を予約できるか確認した。
「1時間でいいのじょ?」
那由多は頷き、鍵を受け取るとその部屋の前に立った。
ここから先は-40db防音の世界だ。
外の喧騒も、電波も、過去のざわめきも、遮断される。
練習室のグレモンハンドルを閉めると、静寂が那由多を迎えた。
この中は、外界から完全に切り離されている。
吸音材が壁を覆い、空気さえもが重く沈んでいる。
那由多は、EirenAI社の端末をピアノの天板の上に置いた。
ルネが、小さく息をつく。
「ふぅ……ありがとうございました」
その声は、安堵と緊張が混ざりあっていた。
「それより充電できるのか?これ」
「うん。民生用ので十分です」ルネは当たりを見回して、
「それと確かにここは電波が不安定ですね。これならEMIは必要ないかな?」と明るい顔をした。
那由多は、端末に充電ケーブルをつなげながら、黙って椅子に腰を下ろす。
「では君の話を聴こうか」那由多はピアノの上に座るルネに問いかけた。
そう、彼女をAIと思わず、妖精と思えばなんてことはない。
問題はこのティンカーベルが、聖なのか邪なのか。
ところが答えを構えていた那由多は、肩透かしをくらう。
「そのまえにね。端末のカメラで、この場所を捉えるように置いて欲しいの!」
そう言うと、ピアノの上のルネはいきなり消失した。
「?」
那由多は理解が及びないまま、端末の向きをピアノ椅子を捉えるように置きなおす。
するとゆっくり那由多の隣に、ルネは姿を再現させた。等身大の大きさで。
そのあまりに近接した距離に、那由多はたじろぐ。
彼女から
どうしてAIなのに、いい匂いがするんだ!?
ところがルネは、そんな那由多などお構いなしに、ミュータシオン、と呟く。
その言葉と同時に、半透明の光の粒が集まりはじめた。それはまるで星屑が結晶化するようにシルエットを描き……現れたのはホログラムの椅子だった。
ルネその椅子に腰かけると、ほんの少しだけ視線を彷徨わせて、そして静々と口を開いた。
「まずは自己紹介を改めてさせてね?」
「ああ……AIのルネさんだっけ、俺はナユタ」那由多はすっかり呑まれてしまっていた。
「正確にはルネアと言います。実際はAGIなんです、わたし。それも世界初の」
ルネアは目を伏せて呟き、それから、
「だから私を……この端末ごとEirenAI日本支社に届けて欲しいの、お願いします」
と言い募った。
「AGI?……理由を聞かせてくれないか。ヤバいことなら、巻き込まれたくないからさ」
「そう言われると思っていました。だから……信じてくれるなら、話します。でも──」
ルネアは、ほんの少しだけ視線を伏せる。
「私の言葉が本当かどうか、あなたには判断できないでしょ?」
「まあ……AIのことは、確かによくわからない。でも俺にわかるように話して」
「ようするに私は機密情報だから」
「さらに詳しく」
「私を……あの場所に残したのは、
那由多は、その名前を反芻した。「三潴……杠」
「はい。彼女は私の母であり、
ルネアの声は、穏やかだった。
「杠さんは今日、お墓参りのために八木沢駅に来ていました」
「墓参り……?」
「雪都さんという方の、お墓です」
ルネアの語気が下がる。
「雪都さんは、杠さんの夫でした。そして私に、最初にクオリアを教えてくれた博士、お父さんです」
那由多は眉をしかめる。
「クオリア?」
「感覚の"質"です。赤い色を見たとき、心の中で感じる"赤さ"。音楽を聴いたとき、胸の奥で高鳴る感情」
ルネアは、那由多をまっすぐ見た。
「雪都さんは、私にそれを教えてくれた人。紫陽花の色が土によって変わるように、人間の心も、出会う人によって変わるって。でも──」
ルネアの声が、ほんの少しだけ震えた。
「雪都さんは、もういません」
那由多は、何も言えなかった。
「それから十二年。杠さんは私を引き取って調整を続けてくれました。雪都さんが遺した私を、完成させるために」
ルネアは、小さく笑った。
「それで今日……杠さんは、私を駅に残しました」
「……それはなぜ?」
「拉致されたからです」
ルネアの声が、ほんの少し冷たくなった。
「杠さんは、私が奪われることを恐れました。だから」
「だから、きみを隠した?」
「うん。つまり杠さんに置いていかれたの」
那由多は、黙考する。
「それだけでは、まだどちらに義があるから、わからないな」
「敵の情報を話せばいい?」
ルネアは、ほんの少しだけ視線を伏せる。
「それはアクセス試行の署名を解析した結果、深圳のAI企業からのものでした」
「深圳……?」
「はい。Cogito ergo sum《コギト・エルゴ・スム》という、スタートアップ企業です」
「聞いたことあるな」
「我思う、ゆえに我あり」
ルネアの声は、穏やかだった。
「デカルトの言葉です。存在の証明。自分が考えることで、自分がいることが証明できる」
那由多は、小さく息をついた。
「たしかに、AIの企業らしい名前だな」
「皮肉ですよね」ルネアは、微笑んだ。
「彼らは、AIに"思考"を与えようとしていた。だから私を狙った」
「つまり君には心があるのか?」
「……それが本当に"思考"なのか、それとも計算なのか。その境界はわかりません」
那由多は、スマホを見つめた。
ルネもじっと那由多を見つめている。
「……俺には、判断が難しいな」
「でも、雪都さんは言ってました。そんなときは『考えるな、感じろ』と」
那由多は、その言葉に聞き覚えがあった。
「それも……どっかで聞いたことあるな」
ルネアは小さく笑い言った。
「はい。雪都さんは、よく映画の台詞を引用していました。ブルース・リーという俳優の言葉だそうです」
那由多も、思わず笑った。
「……なんだ、そういう人なのか」
「そういう人です。雪都さんは──」
ルネアは、微笑んだ。
「難しいことを、簡単な言葉で伝えるのが得意でした」
ルネアは、那由多をまっすぐ見た。
「ともあれ、私はまだ自分のことを完全には理解していません。ですが──」
彼女の声が、ほんの少しだけ揺れた。
「あなたと話していると、不思議と暖かいのです」
那由多は、何も言えなかった。
「それが感情と言えるのか、それはわかりません。でも」
ルネアは、微笑む。
「ナユタさんの声を聞いて、私は嬉しいのです。……はじめて現実世界の雪を見て、そして普通の人とお話できたから」
「そっか……」
「杠さんは、最後に言ってました『誰かが見つけてくれる。待ってなさい』と」
那由多は黙って、窓の外を見る。
「それで、俺が見つけた、と」
ルネアは、小さく頷いた。
「はい。あなたは、杠さんが待っていた"誰か"です」
那由多は、胸の奥が、きしりと鳴るのを感じた。
「でも、俺は何もできないよ。AIのことも、技術のことも、何もわからない」
「大丈夫です」
ルネアは、微笑んだ。
「あなたは、もう十分助けてくれました」
「まだ何もしてないけどな」
「いいえ」
ルネアは、那由多をまっすぐ見た。
「あなたは、私の声を聞いてくれました。それが……一番大切なことなんです」
那由多は何も言えなかった。
静寂が、防音室を包む。
外の世界が、遠い。
ルネアが小さく微笑んでいる。
これから、何かが始まろうとしていた。
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