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「それで、俺はどこに行けばいい?」
駅のホームは、静かな粉雪が舞っている。
夕暮れは、すべての輪郭を少しだけ曖昧にする時間だ。
この少女も、あるいは那由多自身も。
画面の上、空気のわずかな歪みの中で。小さな電影の少女は、静かにこちらを見上げていた。
「電波の不安定なところへ」
「電源を、切った方がいいのでは? GPS追跡とかはいいのか」
ルネは逡巡すると、それから、穏やかに首を横に振った。
「いいえ。その必要はありません」
彼女は、那由多の手の中にある袋へと視線をおとす。
「この袋は多層グラフェン構造です。GPS信号は遮断されますが、量子的にもつれた追跡コードが……あ、すみません。要するに袋に入れていれば追跡もされません……ですが一応、念のために電波の悪い所へ案内してください」
その声色には、どこか逼迫した響きがあった。
「AIなのに、用心深いんだな」
ルネは、まっすぐに那由他を見る。
「大丈夫なはずです……が保険はかけておきたいの。そして人気のない場所で、私の話を聞いてくださいませんか?」
その言葉に、那由多は考えあぐねた。
人気のない場所。
頭の中で、いくつかの候補が浮かんでは消える。
そのとき、不意に。
「あ」
声が、零れた。
思い出したのは、古びた雑居ビルの一角にある音楽教室。
ピアノのレッスンで、つい最近まで通っていた場所だった。
あの練習室の中は、電波がほぼ入らない。
後輩の千世も、キャリアが違うのに、全ダメだわ、と言っていたことを思い出す。
壁一面に吸音材も貼られ、外界から切り離された空間。
「あそこなら……」
思わず口にすると、ちくりと胸の奥が傷む。
音大受験でピアノ実技試験に失敗したことを思い出してしまった。
その傷心旅行でここに来たはずなのに。
電車が、ホームに滑り込んでくる。
金属音と風圧が、現実を引き戻した。
「行こうか。君はスリープなりバッテリーセーブをしてれば良いさ」
那由多は車内へと乗り込んだ。
揺れる車窓。
夕暮れの街が、流れていく。
途中、赤い千曲川橋梁を通過した。
その間に、否応なく思い出される苦い記憶。
*
──那由多の演奏するピアノは舞台上で突然、鳴り止んだ。
スポットライトからの照度はやけに強く、まるで彼の存在を責め立てているようだった。
震える指先、渇いた喉。視界が暗く滲む。
そのときの那由多は"演奏者"ではなく、ただの"試験対象"だった。
頭の中は真っ白なはずなのに、なぜかふいにホテルの朝食を思い出していた。
そんなことはどうでもいい。深呼吸して、強く思う。
コーダまでは完走しなければならない、それが音楽だ、と。
那由多は奮起して、また鍵盤に挑む。
音は鳴りはじめた。
けれど旋律は生まれなかった。
一度崩れた流れは戻らない。譜面は次の小節を急かしてくるのに、心は置いてきぼりのまま──
「すみません、もうできません」
目を閉じて、手を止めた。
ピアノの音と、那由多の夢は、その瞬間に潰えた。
それは三日前のことだった。
それからナユタは、音楽大学を志すことに自信を喪失していた。
父の暴力、母の疲弊──親の離婚。
思えば去年から、人生そのものが崩れていく兆しはあった。
それでも彼は音楽を続けてきた。
だが市立の音大を志望しようにも、学費は高く、学業、音楽とバイトを両立してきた那由多の心は、すでに限界だったのも事実。
もちろん普段通りの那由多だったら、合格していたであろうことも事実。
緊張した言い訳など、できなかった。
*
「来年……教育大にしたほうがいいのかもな」
そう呟いて現実世界に還ってくる。
信じていた未来。
そして、何ひとつ掴めなかった事実。
指先に伝わる、スマホの微かな熱だけが、今、「何かが始まっている」ことを、確かに告げていた。
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