第9話― 疑念は静かに牙を剥く

黒川は、夜の署内で一人、机に向かっていた。

蛍光灯の光は弱く、資料の影が歪んで重なっている。

机の上には、複数のファイル。

失踪事件。

未解決の暴行。

夜間の目撃証言。

どれも決定的な証拠に欠けている。

しかし、奇妙な共通点だけが、執拗に黒川の神経を刺激していた。

「……偶然にしては、多すぎる」

黒川は指で資料をなぞる。

被害者の年齢。

場所。

時間帯。

そして、必ず近くにいた少女の名前。

――夢原ひかり。

彼女は、いつも“無関係”だった。

巻き込まれただけの被害者。

運が悪かっただけの一般人。

だが、黒川の経験は告げていた。

本当に無関係な人間は、事件の周囲をここまで正確になぞらない。

「感情の痕跡が、ない……」

現場には、怒りも憎悪も残っていなかった。

残っているのは、冷静すぎる判断の跡。

まるで、誰かが“役割”を果たしたあとだった。

黒川は、椅子に深く座り直す。

「……もし……」

仮説を口にした瞬間、それを自分で否定する。

理性が、ブレーキを踏む。

――証拠がない。

――動機がない。

それでも、疑念だけは消えなかった。


翌日。

黒川は、夢原ひかりの自宅を訪れていた。

インターホンを押す指先は、静かだった。

威圧も、強制もない。

「少し……話を聞かせてほしい」

ドアの向こうから、足音がする。

ためらい。

逡巡。

鍵が外れる音。

ひかりは、痩せた顔で現れた。

「……どうぞ……」

声は低く、覇気がない。

室内に入った瞬間、黒川は違和感を覚えた。

――誰か、いる。

そう感じた。

だが、視界にはひかりしかいない。

「眠れているか?」

黒川は、世間話のように尋ねる。

「……はい……」

嘘だと分かる。

部屋を見渡すと、壁に大きな跡があった。

かつて鏡があったであろう場所。

「……ここは?」

「……割れました……」

「血は?」

ひかりは一瞬、言葉に詰まる。

「……掃除、しました……」

黒川は頷き、何も言わない。

だが、心の中で警鐘が鳴る。

――不自然だ。

窓ガラスに、薄く反射する影。

黒川の背後で、誰かが立っているような錯覚。

振り返っても、何もいない。

だが、空気が“観察されている”。

「最近……誰かと話している?」

ひかりの肩が、わずかに跳ねる。

「……え?」

「独り言でもいい」

沈黙。

ひかりは、床を見つめる。

「……覚えていません……」

窓の反射に、もう一つの顔が映る。

黒川には、それが“錯覚”だと分かっていた。

だが、直感が否定しない。

――見えていない。

――だが、感じている。

りんは、ガラス越しに黒川を見つめ、微笑んでいた。

「面白い人」

その声は、ひかりにしか聞こえない。

「彼は、私に近い」

ひかりは、唇を噛みしめる。


黒川は、その日の夜、報告書を書かなかった。

代わりに、白紙のノートを開く。

証拠ではなく、“感覚”を書くため。

・夢原ひかりは、空間を共有している

・意識の分離、もしくは投影

・行動と記憶の不一致

「……非科学的だな」

だが、現実はいつも、理論より先に進む。

黒川はペンを置き、窓の外を見る。

夜の街は、何事もなかったように光っている。

「……もし……君が“器”なら……」

言葉にした瞬間、背筋が冷えた。

誰かに聞かれている気がした。


その頃。

ひかりは、ベッドに座り、膝を抱えていた。

「……黒川さん……気づいてる……」

「ええ」

りんは、平然と答える。

「でも、彼はまだ踏み込めない」

「……どうして……?」

「人は、理解できないものを“保留”するから」

ひかりは、恐怖よりも、疲労を感じていた。

「……終わりに……ならないの……?」

りんは、少し考える素振りを見せる。

「終わるとしたら……」

「誰かが、見すぎたとき」

その言葉が、重く落ちる。

夜は、まだ終わらない。

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