第8話― 共存できない二人
朝が来たことは、光ではなく音で知った。
カーテンの向こうを走る車の音。
遠くで鳴く鳥の声。
生活というものが、何事もなかったかのように再開している証拠。
だが、夢原ひかりの世界は、昨夜から一歩も進んでいなかった。
ベッドの上で、ひかりは身動き一つ取れずにいた。
目は開いている。
天井の小さな染みを、ただ見つめている。
――起きなきゃ。
――学校に、行かなきゃ。
そう思うだけで、胸の奥が締めつけられる。
部屋の空気が、重い。
「無理しなくていいよ」
その声は、耳ではなく頭の内側に直接響いた。
ひかりは、ゆっくりと視線を動かす。
机の椅子に、りんが座っていた。
足を組み、頬杖をつき、まるで昔からそこにいたかのような自然さ。
「……いつから……?」
「朝、あなたが目を覚ました瞬間から」
りんは微笑む。
悪意のない、穏やかな表情。
それが、何よりも恐ろしかった。
「……夢じゃない……」
「夢なら、こんなに疲れないでしょう?」
ひかりは喉を鳴らし、上半身を起こす。
頭が重く、視界が揺れる。
「お願い……」
「もう……出てきて……」
声は懇願に近かった。
りんは、首を傾げる。
「どこへ?」
「……私の中に……戻って……」
しばらくの沈黙のあと、りんは立ち上がり、ひかりの前に立つ。
距離は、ほんの一歩分。
「それは、もうできない」
断定だった。
「昨夜、あなたは選んだ」
「壊したのは鏡じゃない」
「境界よ」
ひかりの指先が、震える。
「……じゃあ……私は……」
「一人じゃない」
「でも、二人でもない」
りんはひかりの胸に、そっと指を当てた。
「ここにあるのは、“共存”」
その言葉が、牢獄の扉の音のように響いた。
インターホンが鳴ったのは、それから一時間後だった。
短く、ためらいがちに。
しかし、確かに人の意思を感じる音。
「ひかり……?」
「いるんでしょ……?」
あおいの声。
続いて、みかの声も重なる。
「学校、休むなら連絡しなよ……」
ひかりは立ち上がろうとして、足が止まる。
――開けたら。
――見られる。
りんが、背後から囁く。
「大丈夫」
「彼女たちには、私が見えない」
「……でも……」
「問題はそこじゃない」
りんの声が、少しだけ低くなる。
「あなたが、私の存在を“隠す”という選択をするかどうか」
インターホンが、もう一度鳴る。
心臓が跳ねる。
「……少し……体調悪くて……」
ドア越しに、ひかりは答えた。
声は震えていたが、なんとか言葉になった。
「今日は……休む……」
短い沈黙。
「……分かった」
「無理しないで」
足音が、遠ざかっていく。
その瞬間、ひかりの肩から力が抜ける。
同時に、罪悪感が押し寄せた。
――嘘をついた。
――守るために。
「今のが、共存よ」
りんは満足そうに言う。
「あなたは日常を守った」
「私は、沈黙した」
「……それって……」
「檻」
りんは、はっきりとそう言った。
「でも、檻がなければ、獣は外に出る」
ひかりは、反論できなかった。
その夜、ひかりは眠りについた。
否、眠りに“落とされた”。
夢の中で、彼女は鏡の底に沈んでいく。
水のような闇。
息ができないのに、苦しくない。
上から、光が差し込む。
りんが、こちらを見下ろしている。
「助けて……」
ひかりは口を動かす。
だが、泡しか出ない。
「助ける必要はない」
りんの声は、冷たい。
「ここは、安全だから」
夢原ひかりは、鏡の底で膝を抱える。
目を覚ましたとき、涙で枕が濡れていた。
りんは、部屋の隅で外を見ている。
「……夢を……見た……」
「ええ」
「これから、何度も見る」
「……私……消えるの……?」
その問いに、りんは答えなかった。
代わりに、こう言った。
「消えるより、曖昧になる」
朝日が差し込む。
二人分の影が、床に重なっていた。
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