第7話 ― 鏡の向こう側

黒金あゆみは、翌朝早く病院に運ばれた。

発見されたとき、彼女は衰弱していたが、意識はあった。

医師の診断は簡潔だった。

――命に別状はない。

その言葉だけが、夢原ひかりの意識を現実につなぎ止めていた。

白い廊下。

消毒液の匂い。

蛍光灯の無機質な光。

ひかりは壁に背を預け、床の一点を見つめていた。

足に力が入らず、立っていることすら不自然に感じる。

胸の奥が、空洞のようだった。

――助けた。

――確かに、助けたはず。

だが、その過程が、完全に欠落している。

思い出そうとすると、頭の中に霧がかかる。

映像は途切れ、音は歪み、感情だけが残る。

恐怖。

焦燥。

そして、奇妙な静けさ。

「……私……」

唇が動くが、声は出なかった。

少し離れた場所で、黒川がひかりを見ていた。

腕を組み、視線を逸らさず、沈黙のまま観察している。

疑っている。

だが、断定していない。

その“保留”が、ひかりの心を最も追い詰めた。

――見られている。

――でも、何も言われない。

それは、裁かれるよりも怖い。

黒川は小さく息を吐き、独り言のように呟いた。

「……証拠が、足りない」

その一言で、ひかりの背筋が冷たくなる。


その夜。

ひかりは自室で、鏡の前から動けずにいた。

時計の針が進んでいるのは分かる。

だが、時間が流れている感覚がない。

部屋は静まり返り、呼吸の音だけがやけに大きく響く。

鏡の中には、自分の顔。

見慣れたはずの、夢原ひかりの顔。

――なのに。

違和感が、はっきりと存在していた。

瞬きをする。

反射が、わずかに遅れる。

ほんの一瞬。

だが、確実に“ズレ”ている。

口元が、意思とは無関係に歪む。

視線が、自分を“評価する側”になる。

「……あなたは……誰?」

問いは震え、頼りない。

鏡の奥で、もう一人の少女がゆっくりと微笑んだ。

同じ顔。

同じ声。

同じ存在。

――りん。

「もう、分かっているでしょう」

声は空気を震わせない。

直接、ひかりの思考に触れてくる。

「私に……何を望んでるの……?」

喉が締めつけられる。

「望みは一つだけ」

「あなたが、一人じゃないと認めること」

「……あなたは……私が作った……」

その言葉を口にした瞬間、胸の奥が軋む。

「壊れないために……」

「生き残るために……」

「ええ」

りんは、即座に肯定した。

「あなたは弱かった」

「逃げ場がなかった」

「誰も助けなかった」

「だから、私が必要だった」

「でも……もう……」

ひかりの声が崩れる。

「もう嫌……」

「誰も傷つけたくない……!」

涙が頬を伝う。

「裁くなんて……」

「正義なんて……そんな……」

りんの表情が、わずかに変わる。

微笑みが消え、冷静な瞳だけが残る。

「それは、あなたの役割じゃない」

「……え?」

「傷つけているのは、私」

「あなたは、ただ見ているだけ」

「でも……私が……!」

ひかりは衝動的に拳を振り上げ、鏡を殴った。

一度。

二度。

三度。

ガラスが悲鳴のような音を立て、蜘蛛の巣状にひび割れる。

拳が痛い。

皮膚が裂け、血が滲む。

それでも、止められない。

「壊せばいいのよ」

りんの声は、驚くほど優しかった。

「あなたが作ったのなら」

「あなたが壊せるでしょう?」

次の瞬間。

鏡は、音を立てて崩れ落ちた。

床に散らばる無数の破片。

その一つ一つに、りんの笑顔が映っている。

そして――

影が、鏡の向こうからこちら側へ、確かに踏み出した。

足音はない。

だが、存在だけが圧倒的だった。

「もう戻れない」

りんは、部屋の中に“立って”いた。

「今は、私の番」

そのとき、ドアの向こうで声がする。

「ひかり!」

「あけて!」

あおいとみかの声。

必死で、焦っている。

けれど、彼女たちの目に映るのは、ひかり一人だけ。

りんは、誰にも見えない。

後に黒川は、床に残された一枚の大きな鏡の破片を拾い上げる。

その反射の中で――

りんは、彼を見つめ、静かに微笑んでいた。

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