第5話 泳ぐ者と、名を呼ばれた者
アークスは、湯に身を沈めながら、ゆっくりと息を吐いた。
(長かった。実に二週間だ)
行きに四日。
浄化に五日。
その間は、森の中での野営。
帰りも四日。
……正直に言って、地獄だった。
身体の疲れもあるが、それ以上に精神が削られる。
(聖女活動、とは名ばかりだ)
浄化中の野営テント。
その配置が、致命的にまずかった。
誰が決めたのか。
――俺だ。
「聖女様のテントは、安全のため、私の隣がよろしいでしょう」
過去の自分の発言を思い出し、
アークスは湯の中で目を閉じた。
(今すぐ殴りたい)
王子のテントもあった。
護衛もいた。
それなのに、なぜ聖女の隣を選んだのか。
(判断ミスだ)
完全な。
毎晩毎晩、
布一枚隔てた向こうから聞こえる声。
(……あれの、どこが聖女だ)
王子の見る目のなさには、
もはや呆れる気力すら湧かない。
(あれを選んで、
シルヴィア公爵令嬢を切るとは)
あの令嬢は、
王妃になるための教育を受け、
礼節も知性も備えていた。
少なくとも、
「国の顔」になる器ではあった。
それに比べて――
(王妃になる資格など、
欠片もない)
病気の件もそうだ。
実際に治療した神官が四人。
噂では、まだ増える可能性がある。
もし貴族の令息たちにまで広がっていたら――
その時は、
口止め料込みで金額調整が必要だ。
(……神官まで、か)
アークスは眉間を押さえた。
(俺の管理不足だな)
処罰するか。
それとも、物理的に聖女の部屋に鍵をかけるか。
どちらにしても、
聖職者として考える内容ではない。
(馬鹿の後始末ほど、
不毛な仕事はない)
王子は、
国王から逃げているつもりだろう。
だが、どうせ戻る場所は決まっている。
(泳がされているだけだ)
戻ってくる。
必ず。
その時に、
捕まえればいい。
(……次も同行しろと言い出すんだろうな)
「次の浄化の旅にも、一緒に」
想像するだけで、
肩が重くなる。
(面倒だ)
心の底から、そう思った。
◆
レオンハルト公爵邸。
執務室で、
カール公爵は腕を組んでいた。
「ガブリエル。
そろそろ王子は神殿に戻っているはずだ」
ガブリエルは、静かに頷く。
「明日から、護衛に回れ」
わずかに、
カール公爵は渋い顔をした。
「どうせ、また浄化の旅について行く」
「……捕まえて、
国王陛下のもとへ送るのでは?」
その問いに、
カールはすぐには答えなかった。
「その予定だった」
一拍置いてから、
低い声で続ける。
「だがな……」
視線を落とし、
机上の報告書を指で叩く。
「聖女の浄化を見た者から、報告があった」
「祈りの際に、“札”を使っていたそうだ」
ガブリエルの眉が、わずかに動く。
「札……ですか?」
「西の国の聖女が作ったものだ」
カールは、淡々と告げた。
「天野静音。
浄化を促す祈りを込めた札らしい」
その名を聞いた瞬間、
ガブリエルの胸に、
微かな――だが、はっきりとした違和感が走った。
(……綺麗な響きだ)
理由は分からない。
ただ、
名を聞いただけなのに。
「あまの……しずね……」
思わず、小さく反芻する。
「どうした?」
「いえ……」
自分でも不思議だった。
なぜ、
その名が、
こんなにも耳に残るのか。
カール公爵は、息を吐いた。
「札を使っているということは、
聖女自身では浄化できていない可能性が高い」
「……なるほど」
「だから、今はまだ捕まえない」
カールは、静かに言った。
「護衛として近くで見ろ。
何をしているか。
何が足りないのか」
ガブリエルは、はっきりと頷いた。
「承知しました」
だがその胸の内では、
先ほど聞いた名が、
不思議と離れずにいた。
天野静音。
まだ会ったこともない。
声も知らない。
それなのに。
(……妙だな)
ガブリエルは、
自分の鼓動が、
ほんの少し速くなっていることに気づいていた。
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