第3話 聞こえない声

凛と出会ってから、一週間が過ぎた。


僕たちは毎日、廃墟の街を歩いた。記録を探し、集め、そして時には燃やした。


燃やす判断は、凛に任せた。彼女には死者の声が聞こえる。「消してほしい」という願いを、直接聞くことができる。僕にはそれができない。だから、凛の判断を信じることにした。


最初は抵抗があった。誰かの記録が炎に呑まれていくのを見るのは、胸が痛んだ。でも、凛が燃やすたびに、彼女の表情が少しだけ和らぐのを見て、僕は口を噤んだ。


「ありがとう、と言っている」


ある日、凛が呟いた。古い手紙を燃やした直後のことだった。


「誰が」


「この手紙を書いた人。やっと楽になれた、と」


僕には、その声は聞こえなかった。


-----


八日目の朝、僕たちは新宿方面へ向かった。


凛が「気になる場所がある」と言ったのだ。新宿中央図書館。静寂病が広まる前は、都内有数の蔵書数を誇る施設だった。


「図書館に、何がある」


「分からない。でも、夢に出てきた」


「夢」


「死者が夢に出てくることがある。彼らが伝えたいことを、夢を通じて見せてくる」


僕は黙って頷いた。凛の能力は、僕の想像を超えている。


新宿の街は、渋谷よりも荒廃が激しかった。高層ビルが傾き、道路は瓦礫で埋まっている。静寂病の終盤、この辺りで大きな火災があったと聞いた。


死者の数も多かった。何千、いや何万という魂が、街のあちこちに佇んでいる。彼らは僕たちを見つめ、口を動かしている。


「うるさいな」


凛が小さく呟いた。


「何と言っている」


「色々だ。助けて、寂しい、怖い、消して、残して。全部が同時に聞こえてくる」


「大丈夫か」


「慣れている」


凛は足を止めなかった。僕は黙ってついていく。


図書館は、街の中心部にあった。六階建ての建物で、外観は比較的綺麗に残っている。入り口のガラスは割れていたが、構造自体は無事だった。


「ここだ」


凛が立ち止まった。


「何を探す」


「地下の書庫。そこに、何かがある」


僕たちは暗い館内に足を踏み入れた。


-----


図書館の中は、静かだった。


本棚が整然と並び、床には落ちた本が散乱している。窓から差し込む光が、埃の舞う空気を照らしていた。


死者の姿は、外ほど多くなかった。数人の魂が、本棚の間に佇んでいる。司書だったのかもしれない。彼らは僕たちを見つめ、何かを訴えている。


「何と言っている」


「下へ行け、と」


凛は迷わず階段へ向かった。


地下への階段は、建物の奥にあった。非常灯は消えており、懐中電灯の明かりだけが頼りだ。


一階、二階と降りていく。空気が冷たくなり、湿度が上がっていく。


地下三階。書庫と書かれたプレートが見えた。


扉は開いていた。中に入ると、膨大な書架が並んでいた。古い本、資料、新聞の縮刷版。人類の知識が、ここに眠っている。


「この奥だ」


凛が歩き出した。僕は後を追う。


書架の間を抜け、最奥部へ。そこに、小さな部屋があった。


「特別資料室」と書かれたプレートが貼られている。


扉を開けると、中には机と椅子、それから一つの金庫があった。


そして、机の上に一冊のノートが置かれていた。


表紙には、手書きの文字。


「死者知覚症候群に関する研究記録」


-----


僕と凛は、ノートを囲んで座った。


凛がページをめくる。僕は横から覗き込む。


最初のページには、日付と名前が書かれていた。


研究者:朝倉誠一郎

所属:国立感染症研究所

研究開始日:二〇八四年七月一日


「静寂病の研究者か」


「そうらしい」


凛はページをめくり続けた。


内容は、静寂病と「死者知覚能力」の関係についての研究だった。


静寂病に感染した人間の一部が、死者を知覚する能力を獲得する。その割合は約〇・〇一パーセント。一万人に一人。


能力者には二つのタイプがある。「視覚型」と「聴覚型」だ。


視覚型は、死者の姿を見ることができる。だが、声は聞こえない。


聴覚型は、死者の声を聞くことができる。視覚も伴う場合が多い。


「僕は視覚型で、凛は聴覚型か」


「そういうことらしい」


凛はさらにページをめくった。


研究は、静寂病が広まるにつれて進展していた。朝倉という研究者は、能力者を集めて調査を行っていたらしい。


そして、ある仮説に辿り着いた。


「能力者は、人類最後の観測者として選ばれた存在である」


僕は息を呑んだ。


ノートの記述は続く。


死者は、観測されることで存在を維持している。誰にも見られず、誰にも聞かれなければ、やがて消滅する。


能力者は、死者を観測し、彼らの存在を繋ぎ止める役割を担っている。


つまり、僕たちは死者の「アンカー」なのだ。


「観測者、か」


凛が呟いた。


「僕たちが見ているから、死者は存在し続けている」


「そういうことになる」


凛の表情は複雑だった。


「それは、救いなのか。それとも呪いなのか」


僕には答えられなかった。


-----


ノートの後半には、研究者自身の日記が綴られていた。


二〇八四年十月十日


静寂病の感染が、研究所内でも広がっている。同僚が次々と倒れていく。私も、いつまで持つか分からない。


研究は、まだ途中だ。能力者の役割について、もっと調べなければならない。だが、時間がない。


二〇八四年十月二十日


私にも症状が出始めた。声が出にくくなってきた。


能力者たちに、最後のメッセージを残したい。彼らがこのノートを見つけてくれることを願う。


二〇八四年十月二十八日


もう、長くは持たない。


能力者たちへ。


あなたたちは「選ばれた」のではない。「残された」のだ。


人類最後の観測者として、死者を見届ける役割を担うことになった。それは栄誉ではない。むしろ、重荷だ。


だが、一つだけ覚えておいてほしい。


あなたたちには選択肢がある。


観測し続けるか、それとも目を閉じるか。


死者を繋ぎ止めるか、それとも解放するか。


どちらが正しいか、私には分からない。それは、あなたたち自身が決めることだ。


最後に、一つの仮説を記しておく。


全ての能力者が死んだとき、死者もまた消滅する。


観測者がいなくなれば、観測される者もいなくなる。


それが救済なのか、消滅なのか、私には判断できない。


朝倉誠一郎。これが、私の最後の記録だ。


-----


僕と凛は、しばらく黙っていた。


ノートの最後のページには、朝倉という研究者の署名があった。その下に、小さな追記。


「私が最後に見届ける。それが、私の贖罪」


「贖罪、か」


凛が呟いた。


「彼は、何を償おうとしていたんだろう」


「分からない。でも、僕たちと同じ能力者だったんだろうな」


僕はノートを閉じ、机の上に置いた。


「凛」


「何」


「僕たちが死んだら、死者も消える。それは本当だと思うか」


凛は少し考えてから答えた。


「分からない。でも、可能性はある」


「そうか」


「あなたは、どう思う」


僕は天井を見上げた。薄暗い地下室の天井。その向こうに、何万という死者たちがいる。


「僕は、消えてほしくない」


「なぜ」


「彼らは、まだここにいる。見えている。それは、まだ終わっていないということだ」


「終わっていない」


「うん。彼らが消えたら、本当に全てが終わる。でも、僕たちが見ている限り、人類はまだ完全には消えていない」


凛は黙って僕を見つめていた。


「あなたは、優しいな」


「そうかな」


「死者のために、そこまで考えられる人は少ない」


凛は立ち上がり、ノートを手に取った。


「これ、持っていこう。あなたのアーカイブに加えるべきだ」


「いいのか」


「朝倉という人は、このノートを能力者に読んでほしかったんだろう。私たちが読んだ。それで、彼の願いは叶った」


僕は頷いた。


-----


図書館を出ると、日は高く昇っていた。


新宿の街には、相変わらず無数の死者が佇んでいる。彼らは僕たちを見つめている。


今までとは、少し違う気持ちで彼らを見つめ返した。


彼らは、僕たちに観測されている。僕たちがいるから、存在し続けている。


それは重荷だ。でも同時に、意味のあることだと思った。


「凛」


「何」


「死者たちは、僕たちをどう思っているんだろう」


凛は足を止め、周囲を見回した。


「聞いてみようか」


「聞ける のか」


「声が聞こえるからな」


凛は目を閉じ、しばらく黙っていた。


やがて、目を開ける。その表情は、複雑だった。


「何と言っている」


「色々だ。ありがとう、という人もいる。早く楽にしてくれ、という人もいる」


「そうか」


「でも、一番多いのは」


凛は僕を見た。


「見届けてほしい、じゃない。見届けさせたくない、だ」


「どういう意味だ」


「彼らは、あなたを心配している。最後の一人として、全てを背負わせたくないと思っている」


僕は驚いた。


死者たちが、僕を心配している。


「私もそう思う」


凛が続けた。


「あなたは、一人で抱え込みすぎだ。記録を残すことに、執着しすぎている」


「でも、それが僕の」


「使命だと思っているんだろう。分かる。でも、使命のために自分を壊してはいけない」


凛の声は、いつもより柔らかかった。


「私は記録を消す側の人間だ。でも、あなたの記録は消させない。だから、無理をするな」


僕は何と答えていいか分からなかった。


三年間、一人で続けてきた。誰にも頼らず、誰にも相談せず。それが当たり前だと思っていた。


でも、今は違う。


凛がいる。


「ありがとう」


僕は素直に言った。


凛は少し照れたように視線を逸らした。


「礼を言われることじゃない。当たり前のことだ」


-----


その夜、シェルターに戻った僕は、朝倉のノートをスキャンした。


データベースに登録する。これで、彼の研究も人類アーカイブの一部になった。


ふと、自分の体に異変を感じた。


胸が、少し苦しい。


深呼吸をする。収まらない。


咳が出た。一度、二度、三度。


手のひらを見る。


赤い点が、いくつか散っていた。


血だ。


僕は、血を吐いていた。


心臓が冷たくなった。


静寂病。その初期症状の一つに、喀血がある。


まさか。


僕は鏡を見た。顔色は悪くない。熱もない。


でも、血は確かに出た。


気のせいだと思いたかった。疲労のせいだと信じたかった。


でも、心のどこかで分かっていた。


僕にも、症状が出始めている。


最後の観測者。その役目が、終わりに近づいているのかもしれない。


僕は血のついた手のひらを洗い、ベッドに横たわった。


凛には、まだ言えない。


言ったら、彼女は動揺する。せっかく見つけた協力者を、失望させたくない。


もう少しだけ、時間がほしい。


記録を、もっと集めなければ。


目を閉じる。


死者たちの顔が、瞼の裏に浮かんだ。


さやかさん。朝倉さん。名前も知らない、無数の魂たち。


彼らは僕を見つめている。


心配そうに。悲しそうに。


「大丈夫だよ」


僕は、誰にともなく呟いた。


「まだ、終わらない。終わらせない」


その言葉が、自分への励ましなのか、死者たちへの約束なのか、僕には分からなかった。

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