第2話 消す者、残す者
あの夜から三日が経った。
僕は毎晩、地上に出て耳を澄ませた。だが、あの足音は二度と聞こえなかった。幻聴だったのかもしれない。三年間の孤独が、存在しない音を作り出したのかもしれない。
それでも、僕は諦めきれなかった。
四日目の朝、僕はいつもと違うルートを選んだ。渋谷から南へ、恵比寿方面へと足を伸ばす。普段は行かないエリアだ。
理由は単純だった。あの夜、人影が消えたのは南側のビルの陰だった。もし本当に誰かがいるなら、その方角に手がかりがあるかもしれない。
恵比寿の街も、渋谷と変わらない風景だった。崩れかけたビル、錆びた車、割れたガラス。そして、至るところに佇む死者たち。
僕が歩くと、彼らは道を開けるように動く。生きている人間を避けているのか、それとも導いているのか。三年経っても、その意図は分からない。
駅前の広場を抜け、ガーデンプレイス方面へ。かつては洒落たレストランやショップが並んでいた場所だ。今は廃墟の迷路でしかない。
そのとき、煙が見えた。
細く、白い煙。建物の隙間から立ち上っている。
火だ。誰かが火を使っている。
僕は走った。瓦礫を越え、倒れた看板を避け、煙の出所へと向かう。
辿り着いたのは、元は高級レストランだったらしい建物だった。正面のガラスは全て割れ、看板は地面に落ちている。だが、中から確かに煙が漏れていた。
入り口で立ち止まる。心臓が激しく鳴っていた。
三年ぶりに、生きている人間に会えるかもしれない。
僕は深呼吸をして、中に足を踏み入れた。
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店内は薄暗かった。天井の一部が崩れ、そこから朝の光が差し込んでいる。テーブルや椅子は端に寄せられ、中央に空間が作られていた。
その中央で、小さな焚き火が燃えていた。
そして、火の前に人がいた。
女性だった。黒いコートを羽織り、短く切った髪が顔の横で揺れている。年齢は二十代後半だろうか。横顔は整っていたが、表情は険しい。
彼女は僕に気づいていた。振り向きもせず、ただ火を見つめている。その手には、紙の束が握られていた。
「誰だ」
低い声だった。敵意はないが、警戒している。
「深町蓮。この近くに住んでいる」
僕は両手を上げ、武器を持っていないことを示した。
「生きている人間に会うのは、三年ぶりだ」
女性はようやく顔を上げた。黒い瞳が僕を射抜く。
「三年。ということは、最初期からの生存者か」
「君は」
「氷室凛」
それだけ言うと、彼女は手に持った紙束を火の中に投げ入れた。
紙が燃える。炎が一瞬大きくなり、すぐに収まる。
僕は目を凝らした。燃えていく紙に、文字が見えた。手書きの文字。誰かの記録だ。
「何を燃やしている」
「カルテ」
凛は淡々と答えた。
「この近くに病院があった。そこに残されていた患者の記録」
「なぜ燃やす」
「必要ないからだ」
僕は理解できなかった。誰かの記録を、なぜわざわざ燃やすのか。
「必要ないって、どういう意味だ」
「そのままの意味だ。死んだ人間の記録など、誰も読まない。読む人間がいないなら、存在する意味がない」
凛は次の紙束を手に取った。また、カルテだ。名前が見える。山田、と書かれている。
「待ってくれ」
僕は思わず声を上げた。
「それは、誰かが生きていた証だ。燃やしていいものじゃない」
凛の手が止まった。彼女はゆっくりと振り向き、僕を見た。
「生きていた証。それを残して、何になる」
「何に、って」
「読む人間がいない記録に、何の価値がある」
僕は言葉に詰まった。
確かに、彼女の言うことには一理ある。人類が絶滅した世界で、記録を残す意味とは何だろう。誰も読まない本に、価値はあるのか。
だが、僕には反論があった。
「僕が読む」
凛の眉が微かに動いた。
「僕は記録を集めている。死んだ人たちの日記や手紙を、デジタル化して保存している。二万件以上、もう集めた」
「何のために」
「分からない。でも、残さなきゃいけないと思う。誰かが生きていたことを、忘れちゃいけないと思う」
凛は黙って僕を見つめていた。その瞳には、何か複雑な感情が浮かんでいた。軽蔑ではない。かといって共感でもない。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「あなたには、見えているのか」
「何が」
「死者が」
僕は驚いた。なぜ彼女がそれを知っているのか。
「ああ、見える。君にも見えるのか」
「見える。そして、聞こえる」
「聞こえる」
凛は頷いた。
「私には、死者の声が聞こえる。あなたと違って」
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焚き火の炎が揺れる。僕と凛は、向かい合って座っていた。
「声が聞こえるというのは、どういう感覚だ」
僕は尋ねた。死者の姿は見えても、声は聞こえない。それが僕の能力の限界だった。
「そのままの意味だ。彼らが何を言っているか、分かる」
凛は火を見つめながら答えた。
「最初は気が狂いそうだった。何百、何千という声が、頭の中に響いてくる。助けて、寂しい、会いたい、忘れないで。そんな言葉が、途切れることなく」
僕は黙って聞いていた。
「でも、しばらくすると、別の声も聞こえるようになった」
「別の声」
「消してほしい、という声だ」
凛は僕の目を見た。
「苦しみながら死んだ人たち。病気で、事故で、絶望の中で息を引き取った人たち。彼らの多くは、自分の記録が残ることを望んでいない」
「そんなことが」
「あなたは聞こえないから分からないんだ」
凛の声には、責めるような響きはなかった。ただ、事実を述べているだけ。
「人は誰でも、見られたくない部分がある。恥ずかしい過去、後悔している選択、誰にも言えなかった秘密。そういうものが記録に残っていることを、死者たちは恐れている」
「でも、それも含めてその人の人生だろう。隠したい部分があっても、それが生きていた証だ」
「生きていた証」
凛は小さく笑った。笑みには苦さが滲んでいた。
「私も昔は、そう思っていた」
「昔は」
「私は医者だった。緩和ケアの」
緩和ケア。末期患者の苦痛を和らげ、穏やかな最期を迎えさせる医療。
「多くの患者を看取った。静寂病が広まる前から、そして広まった後も。何百人という人たちの最期に立ち会った」
凛は火の中から、燃え残った紙の切れ端を拾い上げた。
「彼らの多くは、最後にこう言った。私のことは忘れてくれ、と」
「忘れてくれ」
「苦しんでいる姿を覚えていてほしくない。弱っていく自分を記憶に残してほしくない。元気だった頃の自分だけを、覚えていてほしい」
凛は紙切れを火に戻した。炎がそれを呑み込む。
「記録を残すということは、その人の全てを残すということだ。見せたかった部分も、隠したかった部分も。それが本当に、死者のためになるのか」
僕は反論しようとした。だが、言葉が出てこなかった。
さやかさんの日記を思い出す。彼女は「読んでほしい」と願っていた。でも、全ての死者がそう思っているわけではないのかもしれない。
「あなたの考えは分かった」
凛は立ち上がった。
「でも、私は続ける。苦しみの記録を消すことが、死者への救いだと信じているから」
「待ってくれ」
僕も立ち上がった。
「せめて、全部燃やす前に見せてくれないか。僕が判断する。残すべきものと、消すべきものを」
「判断する権利が、あなたにあるのか」
「ないかもしれない。でも、一方的に消されるよりはましだ」
凛は僕を見つめた。長い沈黙が流れた。
やがて、彼女は小さく頷いた。
「いいだろう。ただし、一つ条件がある」
「何だ」
「一緒に来い。私がこれから向かう場所に」
「どこへ」
「この病院の、地下にある記録保管室だ。そこに、私の母のカルテがある」
凛の声が、微かに震えた。
「私は母の記録を消しに来た。それを見届けてほしい」
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病院は、レストランから歩いて十分ほどの場所にあった。
恵比寿総合病院。十階建ての大きな建物だ。静寂病の患者を多く受け入れていた施設らしい。今は廃墟と化している。
正面玄関は封鎖されていたが、凛は裏口から入る道を知っていた。
「ここで働いていたのか」
「いや、別の病院だ。でも、母がここに入院していた」
地下への階段を降りる。非常灯はとうに消えており、懐中電灯の明かりだけが頼りだった。
死者の姿が、そこかしこに見えた。白衣を着た医者、ナース服の看護師、患者服の老人たち。彼らは僕たちを見つめ、何かを訴えている。凛には、その声が聞こえているはずだ。
「何と言っている」
僕は尋ねた。
「色々だ。助けてくれ、という人もいる。消してくれ、という人もいる」
「苦しそうだな」
「慣れた」
凛の声は平坦だった。だが、その横顔には疲労の色が滲んでいた。
地下一階の記録保管室は、分厚い扉の奥にあった。凛が暗証番号を入力すると、ロックが外れる音がした。電子錠ではなく、機械式のものだ。
「番号を知っているのか」
「母の誕生日だ。偶然だけど」
扉を開けると、膨大な棚が並んでいた。紙のカルテが、びっしりと収められている。電子化される前の、古い記録だ。
凛は迷わず棚の間を進み、一つのファイルを抜き出した。
表紙に名前が書かれている。
氷室美咲。
「母だ」
凛はファイルを開いた。僕は横から覗き込む。
診断名:静寂病(第一種)
発症日:二〇八四年六月三日
死亡日:二〇八四年九月十五日
その下に、詳細な経過記録が続いていた。
「母は、静寂病の初期患者だった」
凛の声は静かだった。
「最初は軽い症状だった。声が出にくくなる程度。でも、三ヶ月で全ての機能が停止した」
僕は黙ってカルテを見つめた。
最後のページに、看護師のメモが残されていた。
「九月十五日、午前三時四十二分。患者、永眠。最期まで意識あり。娘の名前を呼ぼうとしていたが、声が出ず。」
「母は、私の名前を呼べないまま死んだ」
凛の声が震えた。
「私は間に合わなかった。別の患者の処置をしていて、母の最期に立ち会えなかった」
僕は何も言えなかった。
凛はカルテを閉じ、胸に抱いた。
「母は、苦しんで死んだ。その記録が、ここに残っている。私はそれを消したい」
「消して、どうなる」
「分からない。でも、母の苦しみを誰かに見られたくない。それだけは確かだ」
凛は僕を見た。その目には涙が光っていた。
「あなたは、それでも残すべきだと言うのか」
僕は答えられなかった。
妹のことを思い出していた。ゆかりの写真を全て処分した両親のことを。あの時、僕は両親を恨んだ。記録を残してほしかった。でも、両親にとっては、消すことが救いだったのかもしれない。
「分からない」
僕は正直に答えた。
「君の気持ちは分かる。消したいという願いも、理解できる。でも、僕はやっぱり、残したいと思ってしまう」
「なぜ」
「妹がいた。七歳で死んだ。写真が一枚も残っていない。顔を思い出せないんだ、もう」
凛の表情が変わった。
「記録がないことが、こんなに苦しいとは思わなかった。だから僕は、他の人の記録を残したい。誰かが覚えていてくれることが、死者への救いだと信じている」
「私とは、正反対だな」
「ああ」
沈黙が流れた。
やがて、凛はカルテをゆっくりと棚に戻した。
「焼かないのか」
「今日は、やめておく」
凛は僕を見た。その目には、さっきまでとは違う光があった。
「あなたの話を聞いて、少し考えが変わった。全てを消すのは、間違いかもしれない」
「凛」
「でも、全てを残すのも間違いだ。だから、一緒に考えよう。何を残し、何を消すべきか」
それは、僕にとって予想外の提案だった。
三年間、一人で続けてきたアーカイブ計画。それを、誰かと共有できるかもしれない。
「分かった」
僕は頷いた。
「一緒に考えよう」
凛は微かに笑った。初めて見る笑顔だった。
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病院を出ると、日は傾きかけていた。
「シェルターに来るか。食料も寝る場所もある」
僕は凛に提案した。
「いや、今日は遠慮する。自分の拠点に戻る」
「拠点」
「青山に、安全な場所を見つけた。また明日、ここで会おう」
凛は歩き出し、数歩進んだところで振り返った。
「深町」
「何だ」
「あなたにも、いつか分かる」
「何が」
「消すことの意味が」
それだけ言うと、凛は夕暮れの街に消えていった。
僕は一人、廃墟の中に立ち尽くしていた。
周囲には、相変わらず死者たちが佇んでいる。老人、子供、サラリーマン、看護師。彼らは僕を見つめている。
彼らは何を願っているのだろう。
残してほしいのか。消してほしいのか。
僕には、まだ分からなかった。
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その夜、シェルターに戻った僕は、データベースを開いた。
二万件以上の記録。そのうち、本人が「残してほしい」と明言しているものは、どれくらいあるだろう。
さやかさんの日記。彼女は「読んでほしい」と書いていた。
でも、他の記録は。手紙も、日記も、僕が勝手に集めたものだ。本人の同意など、得ようがない。
凛の言葉が頭から離れなかった。
「あなたにも、いつか分かる。消すことの意味が」
消すことの意味。
それは、まだ僕には分からない。
でも、少なくとも一つ、分かったことがある。
僕は、一人ではなくなった。
それだけで、今夜は十分だった。
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