最後の観測者
@Setsuna_Zero
第1話 沈黙の街
静寂が、世界を呑み込んでから三年が経った。
僕は今日も歩いている。苔むしたアスファルトを踏みしめ、錆びた車の列を縫うように進む。スニーカーの底が湿った落ち葉を踏むたび、しゃり、と小さな音が鳴る。この街で動くものは、僕と、風と、時折現れる野良猫だけだ。
渋谷のスクランブル交差点。かつて一日に数十万人が行き交ったこの場所に、今は誰もいない。
いや、正確には違う。
僕の周囲には、数え切れないほどの人々が立っている。
老人、子供、スーツ姿のサラリーマン、制服を着た女子高生。彼らは動かない。ただ、僕を見ている。透き通った瞳で、何かを訴えるように。
死者たちだ。
静寂病で亡くなった人々の魂が、この街のあちこちに佇んでいる。僕には彼らが見える。だが、彼らの声は聞こえない。口が動いているのは分かる。何かを伝えようとしているのも分かる。でも、音がない。まるで、分厚いガラス越しに会話を試みているような、もどかしい断絶。
「今日は、渋谷109の三階まで行く」
僕は誰に言うでもなく呟いた。声を出さないと、自分が生きていることを忘れそうになる。
リュックの中には、空のUSBメモリが五本、デジタルカメラ、それからスキャン用の小型機器。重さは約四キロ。三年間、毎日この装備を背負って歩いてきた。
人類アーカイブ計画。僕が勝手にそう名付けた、一人だけのプロジェクト。
死者たちが遺した記録を集め、デジタル化し、地下シェルターのサーバーに保存する。日記、手紙、写真、メモ書き。どんな些細なものでも構わない。誰かが生きていた証を、僕は残したい。
なぜそんなことをするのか、と問われたら、うまく答えられない。ただ、そうしなければならないという確信だけがある。鳩が帰巣するように、鮭が川を遡上するように、僕はこの行為に突き動かされている。
-----
109の入り口は、三年前のまま開け放たれていた。自動ドアが壊れ、ガラスが砕け散っている。僕はその破片を避けながら、暗い店内に足を踏み入れた。
懐中電灯を点ける。埃っぽい空気が光の筋の中で舞う。
エスカレーターは当然動かない。階段を使って三階へ。かつてはアクセサリーショップが並んでいたフロアだ。今は棚が倒れ、商品が床に散乱している。
目的の場所は、フロアの奥にある小さなカフェだった。
静寂病が本格的に広まる前、ここでアルバイトをしていた女子大学生がいたらしい。彼女のロッカーに私物が残されているかもしれない、と聞いたのは、もう何ヶ月も前のことだ。「聞いた」というのは正確ではない。別の場所で見つけた手紙に、そう書かれていたのだ。
カウンターの裏に回り込む。従業員用のロッカーが三つ並んでいた。名前が書かれたテープが貼られている。岡田、水野、佐々木。
佐々木さやか。手紙に書かれていた名前だ。
ロッカーの扉は、軽く引っ張るだけで開いた。鍵はとうに壊れている。
中には、エプロン、小さな化粧ポーチ、それから——日記帳。
表紙はピンク色で、銀色の星が散りばめられていた。子供っぽいデザインだが、中身は二十歳の女性が書いたものだ。丸みを帯びた、読みやすい字。
最初のページを開く。
-----
二〇八四年四月十日
今日からこのカフェでバイト始めた!店長さん優しいし、先輩の岡田さんもめっちゃ面白い人。水野さんは無口だけど、ラテアート上手すぎてびっくりした。私も早く覚えたい。
-----
何でもない日常の記録だった。僕はページをめくり続けた。
四月、五月、六月。バイトの話、大学の話、友達との遊び、好きな人の話。彼女の名前は何度も出てくる。「ゆうき」という男の子。同じ大学の先輩らしい。
七月になると、日記の雰囲気が変わり始めた。
-----
七月十五日
なんか最近、街が静かな気がする。電車も空いてるし。ニュースで言ってる「静寂病」ってやつ、本当にそんなにやばいのかな。
-----
八月二日
岡田さんが来なくなった。連絡つかない。店長さんも顔色悪い。営業時間短縮になった。
-----
八月二十日
お店、閉まることになった。街に人がいない。ゆうきからも連絡ない。怖い。
-----
九月以降、日記の頻度は激減した。数日おき、一週間おき。字も乱れていく。
僕は最後のページに辿り着いた。
-----
二〇八四年十月三日
もう誰もいない。外に出る気力もない。でも書く。誰かが読んでくれるかもしれないから。
ゆうきのこと、大好きだった。ちゃんと言えばよかった。
お母さん、お父さん、ありがとう。もっと電話すればよかった。
岡田さん、水野さん、短い間だったけど楽しかった。
明日、誰かがこれを読んでくれますように。
-----
日記は、そこで終わっていた。
僕は日記帳を閉じ、しばらく動けなかった。
さやかさんは、最後の瞬間まで「誰か」を信じていた。自分の記録が読まれることを願っていた。その願いは三年後、こうして叶えられた。だが、彼女にそれを伝える術はない。
ふと、視界の端に動くものを感じた。
顔を上げる。
カフェのカウンター越しに、女性が立っていた。ピンク色のエプロンを身につけ、長い黒髪を後ろで束ねている。年齢は二十歳前後。顔立ちには幼さが残っていた。
佐々木さやかさん。
彼女は僕を見つめていた。透明な瞳に、何かの感情が浮かんでいる。悲しみ?喜び?それとも——。
口が動いた。何かを言っている。
僕は目を凝らし、唇の形を読み取ろうとした。
「あ」「り」「が」——。
ありがとう、だろうか。
それとも、「あなた」「誰」——あなた誰、だろうか。
分からない。どれだけ目を凝らしても、確信は持てない。
彼女は少し笑ったように見えた。それから、ふっと消えた。幽霊が消えるときはいつもそうだ。徐々に薄れていくのではなく、瞬きの間に、いなくなる。
僕は日記帳をリュックに入れ、立ち上がった。
「読んだよ」
誰もいないカフェに向かって、僕は言った。
「ちゃんと、残すからね」
-----
地下シェルターに戻ったのは、日が暮れてからだった。
ここは元々、政府の緊急避難施設だった。静寂病が蔓延し始めた頃、僕はここに逃げ込んだ。電力は地熱発電で賄われ、食料は備蓄と屋上菜園で何とかなる。水は浄化システムが生きている。一人で生きていくには十分な環境だ。
メインルームには、壁一面にサーバーが並んでいる。政府の重要データを保管するためのものだったらしいが、今は僕のアーカイブ専用だ。
僕はさやかさんの日記をスキャンし、デジタルデータに変換した。それからファイルを開き、メタデータを入力していく。
名前:佐々木さやか
推定年齢:二十歳(二〇八四年時点)
職業:大学生、カフェアルバイト
発見場所:渋谷109 三階 カフェ「ステラ」
記録形態:日記帳
期間:二〇八四年四月十日〜同年十月三日
備考:最終日の記録あり。「明日、誰かがこれを読んでくれますように」
僕はこのデータベースに、すでに二万件以上の記録を登録していた。手紙、日記、写真、動画、音声メモ。一人一人の人生が、ここに刻まれている。
誰のために?
分からない。でも、続けなければならない。
画面を閉じ、椅子にもたれかかる。天井を見つめながら、僕は自分の過去を思い出していた。
-----
僕の妹は、僕が十二歳のときに死んだ。
彼女の名前は深町ゆかり。享年七歳。交通事故だった。
ゆかりの写真は、一枚も残っていない。
事故の後、父と母は全てを処分した。写真も、おもちゃも、服も。「思い出すと辛いから」と言っていた。僕だけが反対したが、子供の声など届かなかった。
だから僕は、ゆかりの顔を思い出せない。
声は覚えている。笑い方も覚えている。手を繋いだときの、小さな指の感触も。でも、顔だけが、どうしても——。
記録が残っていれば、と何度思っただろう。
写真が一枚でもあれば。動画が数秒でもあれば。彼女の顔を、もう一度見ることができたのに。
だから僕は、記録を残す。
誰かの「ゆかり」が、忘れられないように。
-----
作業を終え、ベッドに横たわった。
シェルターの天井は灰色のコンクリートだ。味気ないが、慣れた。三年も暮らせば、どんな場所でも家になる。
目を閉じる。
さやかさんの日記が、頭の中で繰り返される。
「明日、誰かがこれを読んでくれますように」
読んだよ。僕が読んだ。君の言葉は、ちゃんと届いた。
そう思うと、少しだけ胸が温かくなった。
これが、僕の存在意義なのだ。最後の読者として、最後の観測者として、人々の記録を受け取ること。
眠りに落ちかけたとき、ふと、奇妙な感覚があった。
何か、聞こえる。
僕はベッドから起き上がり、耳を澄ませた。
シェルターの換気音。遠くで鳴る、機械の唸り。それだけ——いや、違う。
足音だ。
地上から、足音が聞こえる。
規則的で、確かな足音。僕のものではない。機械音でもない。
生きている人間の、足音。
心臓が跳ねた。
三年間、僕は一人だと思っていた。人類最後の生存者だと。でも、もし——。
僕は立ち上がり、地上への階段を駆け上がった。重い扉を押し開け、外に飛び出す。
月明かりの下、渋谷の廃墟が広がっていた。
足音は、もう聞こえなかった。
だが、遠くに——ビルの影に——何かが動いた気がした。
人影。
僕は叫んだ。
「誰かいるのか!」
声は虚しく響き、消えていった。
返事はない。
だが、僕は確かに見た。聞いた。
僕は、一人ではないのかもしれない。
その夜、僕は眠れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます