三 婚姻

 嘔吐き、涙に濡れた視界の奥で、唐突に幻聴が再生される。


 それは、目の前の冒涜的な肉塊とはあまりにも掛け離れた、鈴を転がすような、かつての彼女の声だった。


 ​『私ね、向日葵が一番好き! だって太陽みたいでしょ?』


 脳裏に明滅するのは、暴力的なまでに鮮やかな黄色と白だ。

 麦わら帽子。黒髪。汗ばんだ首筋。

 ​彼女は光そのものだった。

 影一つない、完璧な夏だった。


 けれど、記憶の中の彼女が笑えば笑うほど、私の胸は焼け付くように痛い。

 あぁ、あの笑顔は。

 眩しすぎる光の裏側で、彼女はずっと何かに怯え、震えていたのではなかったか。

 私に見えないところで、愛が日常へと摩耗していく恐怖と、一人で戦っていたのではなかったか。


 ​視線が、現実へと引き戻される。

 ドロドロに崩れ、茶色い液体を垂れ流す、かつての恋人。


 鼻孔を蹂躙する猛烈な腐臭。

 鼓膜を埋め尽くす蠅の羽音。

 熱い。臭い。眩しい。痛い。


 五感がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる中で、不意に、ストンと腑に落ちた。


 ――これが、答えだ。


 綺麗なまま死ねば、いつか私は忘れる。

 悲しみは薄まり、他の誰かを抱き、彼女を過去へと追いやる。

 彼女は何よりもそれを恐れた。


 だから、腐ったのだ。

 誰の目にも焼き付いて離れない、最も醜く、最も強烈な姿となって。

 私の脳髄に、その存在を杭のように打ち込むために。


「……あぁ」


 口から漏れたのは、言葉ですらなかった。


 酷い、匂いだ。

 けれどその腐臭が、どうしようもなく彼女の「体温」だった。

 どんな香水よりも濃厚で、逃げ場のない、生々しい愛の死骸。


 これが、彼女が私に残した永遠だ。

 私たちが一つになるための、唯一の方法だったのだ。


「……僕のことが、そんなに好きだったのか」

「僕の永遠になりたかったのか」


 震える手で口元を覆う。

 指の隙間から、引き攣った呼吸が漏れる。

 

 視界が滲む。

 黄色い花畑と、黒い死体が混ざり合い、世界が回る。


 私は、その場に崩れ落ちそうになりながら、酸っぱい胃液と共に噛み締めていた。

 

 この吐き気がするほどの醜さだけが、私と彼女を繋ぐ、絶対的な真実なのだと。

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