-6- 水面の月

森下さんは、時間ぴったりに来る。


一分早くも、一分遅くもない。

橋の詰め所の窓から外を見ていると、霧の中から当然のように姿が現れる。


「おはよう」


声は低くも高くもなく、感情の起伏もない。

常連だからだろうか、挨拶に意味を感じられない。確かに、通行日誌を見るに、この森下正弘さんはここ10年毎月一回来ている。

深く考えてみると、毎月一回2万×10年..........。とてつもない金額を前に、驚きを隠せなかった。

ともあれ、俺は淡々と仕事をしなければならない。

だから、俺は何も聞かず、蝋燭とマッチを差し出す。


「この蝋燭を、橋の両端の灯籠に......。」


言いかけて、やめる。

森下さんは常連さんだ。

言う必要もないと思った。

だから、一言だけ。


「いってらっしゃい」


森下さんは、さっきまで無表情の顔だったのに、ほんの少しだけ、明るさを見せて言った。


「あぁ、いってくるよ」


そして、蝋燭とマッチを受け取り、橋へ向かう背中を見送る。

観光客とは少し違う気がした。

足音が、やけに川に吸われているような不思議な感覚だった。


橋の中央あたりで、霧が少し濃くなる。

姿が薄れたところで、俺は窓から離れた。


待ち時間は、いつもきっかり一時間。


通行日誌を開く。

名前はもう、入力されている。


森下 正弘

それ以上は、書かれていない。


時計を見る。

秒針の音が、


カチッカチッカチッ


詰め所の中ではやけに大きい。


橋の方を見ると、灯籠に火が入っているのがわかる。

二つとも、同じ明るさで。


途中で消えたことは、一度もない。


一時間後、森下さんは戻ってくる。


服は濡れていない。

息も乱れていない。



森下さんは、マッチを返すとき、

いつもとは違って、今回は意味のあった「ありがとう」を言って、机に2万円を置いていく。


ただ、それだけだった。

特別な言葉も、深い礼もない。


2万円を受け取った俺は見送る。

ただ、それだけの仕事だ。

森下さんを見ると、その顔つきが違った。


いつもは、どこか橋の向こうを見ているような目をしているのに、

その日は、こちらを見ていた。


達成感、という言葉が一番近い。

何かを終えた人の顔だった。


――あれ?


そう思った瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。



理由はわからない。

俺は、ただ蝋燭とマッチを渡しただけだ。


それなのに、

森下さんは、もう用のない人みたいな顔をしていた。


その日、森下さんが立ち止まった。


橋を渡り切る前、月を見上げていた。

ただ、それだけ。


やがて


後片付けの時間になる。


灯籠から蝋燭を回収しに行く。

両端とも、やはりない。


中央へ向かう。


月が、橋の真上にあった。


川面に映る光を見ながら、俺は思う。


——森下さんは、何を置いてきたんだろう。


答えは、いらない。


この橋の仕事は、

知りすぎないことだからだ。

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