第2話「音にならない歌を、妹は知っていた」
静かな部屋は、ずっと静かなままだったわけではない。
ある日、その沈黙に、別の音が混じった。
とても小さな音だった。
ドアの向こうで、何かが床に触れる気配。
それから、ためらうような足音。
慶太はテレビから目を離さなかった。
けれど、耳は正確にそれを捉えていた。
「……おにいちゃん?」
声は、まだ定まっていなかった。
言葉の形を探す途中の、柔らかい音。
振り返ると、そこに妹がいた。
詩音。
自分より少し小さくて、目だけがやけに大きい。
彼女は、慶太を見ていなかった。
正確には、画面と、音と、空気の全部を見ているようだった。
「それ、なに?」
ニュース番組のことを聞いているのだと分かるまで、
慶太は少し時間がかかった。
「……世界の話」
思ったまま答えると、
詩音はしばらく黙って、それから頷いた。
「ふうん。せかい、しゃべるんだね」
その言い方が、妙に正しい気がして、
慶太は何も訂正しなかった。
⸻
それから、彼女は時々そこにいた。
同じ番組を見て、
同じ音を聞いて、
同じ本のページをめくる。
けれど、見え方は明らかに違っていた。
詩音は、意味よりも先に、感触を受け取る。
音楽が流れると、肩が揺れた。
ニュースの重たい話題になると、眉をひそめた。
「この音、つめたい」
ある日、ビートルズを指して、彼女はそう言った。
慶太は、少し考えた。
音に温度があるとは思ったことがなかった。
「……たぶん、短調だから」
それは後から知った言葉だったが、
そのときは、ただそう言えばいい気がした。
詩音は首をかしげた。
「でも、きらきらもしてるよ」
同じ音を聞いて、
違う世界を見ている。
そのことが、慶太には不思議で、
同時に、少しだけ安心できた。
⸻
成長するにつれて、
二人の距離は、少しずつ変わっていった。
学校では、慶太は浮いていた。
頭がいいからではない。
話が合わなかったからだ。
冗談が遅れて聞こえる。
怒りや悲しみの理由が、論理として先に理解できてしまう。
感情が、説明の後にやってくる。
その順序のズレを、
誰も待ってはくれなかった。
家に帰ると、詩音はノートに何かを書いていた。
歌詞のような、詩のような、意味の途中の言葉。
「それ、なに?」
慶太が聞くと、彼女は少し困った顔をする。
「まだ、わかんない」
その答えが、妙に正確だった。
⸻
夜になると、
詩音は時々、奇妙な話をした。
「ねえ、おにいちゃん」
布団の中から、囁くような声。
「しらないうた、きいた」
「夢?」
「ううん。ゆめじゃない」
彼女は、確信を持って言った。
知らない歌。
存在しないはずの旋律。
慶太は、それを否定しなかった。
オカルト雑誌で読んだ話を思い出しただけだ。
予知夢。
集合無意識。
並行世界。
父の本棚には、そういう言葉が並んでいた。
「忘れないで」
慶太は言った。
「そういうのは、忘れないでおくと、あとで役に立つ」
詩音は、嬉しそうに笑った。
⸻
ギターを弾き始めてから、
世界は少しだけ、うるさくなった。
音が、意味を持ちすぎる。
フレーズが、勝手に続いていく。
慶太は、それを楽しいとも、怖いとも思わなかった。
ただ、
「これは一人でやるものじゃない」
という感覚だけが、はっきりしていた。
だから彼は、
自分が前に出ることを選ばなかった。
誰かの音を、
誰かの才能を、
形にする側に回った。
それが自然だった。
⸻
まだその頃、
Sound Universeという名前はなかった。
けれど、
世界はすでに、
彼の中で二重に鳴り始めていた。
そして、
その最初の共鳴を聞いていたのは、
いつも妹だった。
彼女だけが、
まだ誰も知らない歌を、
当たり前のように口ずさんでいた。
静かな部屋で始まった世界は、
もう、静かではいられなくなっていた。
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