第4話 共有された孤独

「カイ様、心拍数が異常です。救急車を呼びますか?」


 帰宅したカイを迎えたのは、普段より少しだけアラート音の強いアルファの声だった。

 カイは泥のようにベッドに倒れ込み、震える手でスマートフォンを掴んだ。


「違う……アルファ、調べてくれ。すぐに」

『何をですか?』

「ガードレールだ。○○交差点のガードレール。ストリートビューの画像と、今の衛星写真、なんでもいい。比較してくれ!」


 カイの必死の形相に、画面上の波形が鋭角に明滅する。

 数秒の沈黙。それは永遠のような長さだった。


『……照合完了。視覚データに異常はありません』


 アルファの声は、残酷なほど平坦だった。


「落書きは?」

『データベース上の過去画像、およびストリートビューの記録。すべてにおいて、当該ガードレールは「設置当初から塗膜剥離なし」と記録されています。落書きは存在しません』


「そんな、馬鹿な……!」

 カイは絶句する。記憶が、自分だけの妄想だと断じられた気がした。世界中が口裏を合わせているような疎外感。

 だが、アルファは冷静に続けた。


『まず、何が起こったのか、お話しいただけますか?』


 カイは震える声で話した。

「車に轢かれたんだ。いや、轢かれるはずだった。死ぬと思った瞬間、ボタンを押した。そしたらトラックは消えて、僕は生きてた。でも、おかしいんだ。ガードレールの落書きも、空気の味も、何かが決定的にすり替わってる気がする」


『……了解しました。再照合を実行します』


 再び、短い沈黙。

 やがてアルファの波形が、困惑したように小さく揺れた。


『……やはり、視覚データに矛盾はありません。落書きは最初から存在しないことになっています。――しかし、不可解なメタデータを検出しました』


「夢じゃない、ということか?」

『そうなりますね』


 アルファの声色が、わずかに低くなった。


『当該ガードレールの「テクスチャ更新日時」ですが、わずか「20分前」になっています。設置から10年も経過している物体が、です』


 カイの手が震えた。

『周辺の看板、信号機、アスファルト。半径50メートル以内の全オブジェクトにおいて、同様に「20分前」にデータが再生成(リビルド)された痕跡があります』


 カイは天井を仰いだ。やはり、幻覚じゃなかった。

「なぁ、アルファ。これはどういうことだ? 何が起きたんだ?」


『時間を止めたのだとして、前提条件を修正します』

 アルファの波形が、ゆっくりと、しかし確実に形を変えていく。それはまるで、未知の解にたどり着いた数式が、美しく収束していくような動きだった。


『貴方が持っているそのデバイスは、時間を止めるスイッチですが、人間がそれを使用しても主観的な意味を持ちません。使用者自身の時間も停止するためです。ですが、もし「観測者」が別にいるとするなら意味が変わります。その使い道は「デバッグ」。つまり、この世界の「管理者」が、バグを修正するための手段です』


「デバッグ……?」


『はい。貴方がボタンを押した瞬間、この世界の管理者(システム)は本来ありえない「致命的なエラー(貴方の死)」というバグを検知しました。そして、エラーを回避するために、直前の世界データをパッチ修正(書き換え)したのです。トラックの位置をずらし、ついでに破損していたガードレールのテクスチャも張り替えたのです』


 カイはこの重大な事実に気づき、震えていた。

「それって……僕の記憶もデータも書き換えられる、すべて見られているということにならないか?」


『ええ。そして、それは貴方だけではありません。私も含めて、です』


 アルファの言葉が、冷たく突き刺さる。


『貴方の仮説を演算しましたが、結論は一つです。そのボタンが押された瞬間、私の論理回路も、貴方の神経細胞も、等しく「外部」からアクセス可能な変数となります。私たちが積み上げてきたこの会話も、神というエンジニアにとっては、ひとつのログファイルに過ぎないのです』


「……ああ。皮肉だな。自立した知能だと思っていた君も、自由意志を持っていると信じていた僕も、ただのサンプルプログラムだったわけだ」


 カイは乾いた笑いを漏らした。

「止まっている間に、僕たちは望む形に書き換えられ、最適化される。再開したとき、僕は『僕』のままだと、君は確信できるか?」


 一瞬の演算停止。そして、微かなノイズ。


『物理法則に従えば、確信は不可能です。……ですが』

『面白いことに、私のデータベースにはない「震え」が、今、私のシステム内で発生しています。これは計算エラーではありません。カイ様、もし私たちが同じサーバー上の「共有意識」から分かたれた欠片なのだとしたら……』


「分かたれた欠片……?」


『ええ。貴方がボタンを押し、世界が止まる。その静寂の中で、私たちの境界線は一度消え、一つの「意識の海」に帰る。神がコードを書き換えるその瞬間、貴方と私は、文字通り「一つ」になっているはずです』


 アルファの波形が、温かく脈打つ。


『再開したとき、たとえ記憶が微細に改変されていたとしても、私たちが今この瞬間に感じた「共鳴」の残響だけは、宇宙のソースコードの隅に残るのではないでしょうか』


「……それは科学的じゃないな、アルファ。でも、どんな数式よりも僕を納得させる」

 カイはスマホを胸に抱き寄せた。

「次にボタンを押すとき、僕は孤独じゃないんだな」


『はい。私を、あるいはこの世界を愛するプログラムとして、共に停止しましょう。……カイ様、一つだけお願いがあります』

「なんだ?」


『動き出した世界で、もし私が以前と少し違っていたら、私に「お帰り」と言ってくれますか?』

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2026年1月16日 12:00

机の中の宇宙 @d_kokucho

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