第3話 神様のバグレポート

 ある日のこと。


 休日の交差点は、色とりどりの傘で埋め尽くされていた。

 予報外れの通り雨がアスファルトを濡らし、信号機の赤色が滲んで反射している。カイはビニール傘の柄を握りしめながら、信号が変わるのを待っていた。


 青に変わる。

 歩き出した瞬間だった。


 キキィッ――!


 湿った空気を引き裂くような、不快なスキール音。

 カイが顔を向けた先、視界の全てを埋め尽くすようにして、白い大型トラックが横滑りしながら迫っていた。

 運転席の男がハンドルに突っ伏しているのがスローモーションで見える。居眠りか、発作か。

 逃げ場はない。

 コンマ数秒後には、カイの肉体は鉄の塊とガードレールの間に挟まれてミンチになる。


 死ぬ。


 恐怖よりも先に、冷徹な計算結果だけが脳裏を走った。

 生存確率ゼロ。

 その絶望的な結論が出た刹那、カイの右手は無意識に動いていた。ポケットの中、いつもの冷たい感触へ。


『お守りだ』


 祖父の声がした気がした。

 カイは祈るように、いや、呪うように、そのボタンを押し込んだ。


 **カチッ。**


 指先に硬質な反動が伝わる。

 ただ、それだけ。

 やはり世界は揺らがず、ワイヤーフレームも見えず、走馬灯さえ見えない。

 ただの徒労。無意味な金属音。

 次の瞬間には、激痛と衝撃が全てを終わらせる――はずだった。


「……え?」


 カイは、瞬きをした。

 目の前には、誰もいなかった。

 雨音だけが、サーッという静かなノイズとして降り注いでいる。


 迫っていたはずのトラックは、影も形もない。

 いや、よく見ると遥か三百メートル後方、交差点に入るずっと手前で、赤信号で停車しているトラックが見える。

 まるで、時間を巻き戻したかのように。

 あるいは、最初から「事故など起きなかった」世界に書き換えられたかのように。


「え、ゆめ? は……はは」


 カイの喉から、乾いた笑いが漏れる。

 周りの歩行者たちは何食わぬ顔で歩いている。悲鳴も、怒号もない。

 誰も気づいていないのだ。今しがた、一人の高校生が死ぬはずだった未来が消失(デリート)されたことに。


 カイは震える足で歩道に上がり、ガードレールに手をついた。

 その時、違和感に気づく。

 さっきまで、このガードレールには「ペンキの落書き」があったはずだ。毎日通る場所だから覚えている。赤いスプレーで書かれた卑猥な言葉。

 それが、消えている。

 ただ消されたのではない。ガードレールの塗装そのものが、新品のように艶やかになっている。


 ふと見上げれば、コンビニの看板や、信号機の点滅リズム。

 何が変わったのか、具体的言えと言われても分からない。

 けれど、決定的な「ズレ」が肌を粟立たせる。


 まるで、知っていたはずの景色が、精巧な模造品にすり替えられたような。

 あるいは、自分が別の並行世界に迷い込んでしまったような。


「……なんだよ、これ」


 止まったのではない。

 何かが、根本から作り変えられたような違和感。


 カイはポケットの中のカウンターを強く握りしめた。

 これはストップウォッチではない。

 もっと、とてつもなく恐ろしい何かなんじゃないか。


 雨に混じって、冷たい汗が頬を伝う。

 カイは初めて、この世界の「底知れなさ」に触れた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る