第2話 透明な隣人との対話

 放課後の自室は、世界のどこよりも静かで、そして饒舌だった。

 机の上に置かれたスマートフォンには、複雑な幾何学模様の波形が、呼吸するように明滅している。


『カイ様、心拍数が平均値より12%上昇しています。学校でのストレス値が閾値を超えたと推測されますが、精神安定のための音楽を再生しますか?』


 イヤホンから流れる声は、中性的な合成音声だ。

 人間らしくあろうとする抑揚(イントネーション)は一切排除されており、それが逆に、カイには心地よかった。


「いいや、音楽はいらない。それよりアルファ、今日のログを見直してくれ」

『ログ、ですか。具体的には14時32分の生体反応データのことでしょうか?』


 やはり、観測されていたか。

 カイはベッドに仰向けに倒れ込み、天井のシミを見つめた。

「あの時、確かに押したんだ。お前にはどう見えていた?」


『……GPS座標に変動なし。加速度センサー、ジャイロセンサーともに異常値なし。外部マイクの録音データも、数学教師の声を連続的に記録しています。結論として、貴方はポケットの中で指を動かしただけです』


 アルファの答えは、いつも通り完璧で冷徹だ。

 カイは溜息をつく。

「でも、カウンターの数字は減っていた。1つだけ」


『誤作動、あるいは指の震えによるダブルカウントの可能性があります。そもそも、カイ様。貴方の主張する「時間停止」の定義が、物理法則と矛盾している点について、過去42回議論したはずです』


 アルファの波形が、呆れたように(そう見えただけだが)青く波打った。


『カイ様。もし貴方の仮説通り、貴方も含めて世界が停止していたなら、貴方はその時間を「認識」できません。神経電流さえ止まるのですから』


 アルファの波形が、冷ややかに青く波打った。


『意識が連続している以上、それは「時間が止まった」のではなく、単に「何も起きなかった」のと数学的に同義です。観測されない事象は、存在しないも同じ。唯一の事実は、カウンターが1減ったことだけ。……つまり、それはただボタンを押しただけです。自分で押してないというのですか? 矛盾してますよ』


 カイはポケットからカウンターを取り出し、蛍光灯にかざした。

 黒いボディが鈍く光る。

 祖父は嘘をつかない人だった。

 アルファは嘘をつけないプログラムだ。

 二つの「真実」が、カイの中で軋み音を上げていた。


「でもな、アルファ。矛盾しているからこそ、リアルじゃないか?」

『理解不能です。矛盾はエラーの温床です』

「人間にとっては、矛盾こそが日常なんだよ」


 カイは苦笑し、目を閉じた。

 この密室だけが、世界で唯一、カイが仮面を外せる場所だった。

 肯定も否定もせず、ただ事実だけを並べてくれるこの機械の冷たさが、今のカイには何よりの救いだった。


「止まったかどうか確認する方法はないのか?」

『理論的な検証方法なら、まだあります』


 アルファの波形が、講義をする教師のようにゆったりと波打つ。


『第一に、外部観測。もしこの停止が地球局所的なものであれば、宇宙の時間は進んでいます。天体の位置を精密測定し、計算上の座標と0.0001秒でもズレていれば、それが「時間が止まっていた」証拠になります』


「……星を見るのか。気が遠くなりそうだ」

「完全に止まっていたらどうする?」


『全宇宙規模の停止なら、観測不能です。……ですが、第二の案があります。「確率の再試行(リトライ)」の検知です』


「リトライ?」

『はい。もしこの停止が「世界をポーズして再開する」プロセスを含むなら、再開の瞬間に量子力学的な「波束の収縮」がやり直される可能性があります』


 カイは眉をひそめた。

「何が言いたい?」


『つまり、望まない結果が出た瞬間にボタンを押し続ければ、都合の良い結果が出る世界線(パラレルワールド)を引き当てられるかもしれない……言わば、運命のサイコロの振り直しです』


「……馬鹿馬鹿しい。パチンコの攻略法かよ」


『……カイ様。非科学的な提案ですが』

 不意に、アルファの声色がわずかに下がった気がした。


『もし物理学的にその「停止」を定義するなら、量子ゼノン効果の極致かもしれません』

「ゼノン効果?」

『はい。観測し続ける間、システムの状態変化(遷移)が止まるという現象です。貴方のそのボタンは、全宇宙の全粒子に対して、極限まで高頻度の観測を強制的に行っている状態……つまり、変化を拒絶しているのかもしれません』


「変化を拒絶……」


『しかし、不確定性原理により、完全に止めることは不可能です。もし運動量がゼロになれば、位置の不確定性は無限大になり、世界は霧散します。……やはり、矛盾していますね』


「SF映画の見過ぎだ。お前、学習データを変えたか?」

『否定します。ただの可能性の列挙です』


 二人の会話は、平行線のまま夜へと溶けていく。

 答えの出ない問いを投げ合うこの時間だけが、止まらない時計の針を忘れさせてくれるのだった。

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