机の中の宇宙
@d_kokucho
第1話 ポケットの中の特異点
五限目の数学教諭の声は、古びたテープのようなノイズ交じりの周波数で鼓膜を揺らす。
午後の日差しが窓際の席に容赦なく降り注ぎ、空気中の埃(ダスト)が煌めきながら漂っていた。カイは、その不規則なブラウン運動を目で追いながら、右手を制服のズボンのポケットに突っ込んでいた。
指先が、ひやりとした金属の感触に触れる。
塗装の剥げた、黒いカウンター。
もう何千回、何万回と触れたせいで、親指の当たる部分だけが滑らかに摩耗している。
『カイ、これは世界を止めるボタンだ』
祖父の遺言が、呪いのように脳裏でリフレインする。
『だが、押せばお前も止まる。だから誰も気づかないし、お前自身も気づけない。証明は何一つできない』
――馬鹿げている、とカイは思う。
そんなもの、壊れたオモチャと何の違いがある?
だが、祖父は嘘をつかない人だった。
厳格で、冗談を好まず、常に事実だけをこのカウンターのように積み重ねて生きてきた男だ。
そんな祖父が、死の床で、潤んだ瞳でこれを託したのだ。
「カイ、お前なら分かるはずだ」
その言葉が、カイの手を縛り付けている。
自分が止まったことに気づけない停止時間なんて、存在しないのと同義だ。
「シュレディンガーの猫」ですらない。箱を開けても閉めても、観測者は永遠に死んでいるのだから。
けれど、カイの親指は震えていた。
黒板の前でチョークが折れる乾いた音がした瞬間、カイは発作的にそのボタンを押し込んだ。
**カチッ。**
指先に、硬質な感触が返る。バネが縮み、歯車が噛み合い、数字が進む微かな振動。
それだけだった。
世界は、何も変わらなかった。
チョークの粉は空中で静止することなく床に落ち、教師は不機嫌そうに舌打ちをし、クラスメイトの欠伸は止まらなかった。
カイの視界に、一瞬のノイズが走ることもない。ワイヤーフレームの骨組みが見えるわけでもない。
ただ、すべてが滑らかに、残酷なほど連続的に続いていく。
カイはゆっくりとポケットから手を出し、机の下でこっそりとカウンターを確認した。
白い数字が、一つだけ減っている。
『8392』から、『8391』へ。
それだけが、唯一の痕跡だった。
もしかしたら、今この一瞬の間に、一億年が経過していたのかもしれない。
あるいは、一秒も経っていないのかもしれない。
カイが支払ったこの「1」というコストに対して、世界は何一つ対価を払わなかった。
「……詐欺だ」
カイは音にならない声で呟き、再びカウンターをポケットの奥底へと押し込んだ。
まるで、見えない罪を隠すように。
祖父はこれを「お守り」だと言った。
だがカイにとっては、これは自分の無力さをカウントダウンし続ける、悪意ある刑具でしかなかった。
「天野、ここを解いてみろ」
不意に名前を呼ばれ、カイは顔を上げた。
教師がチョークを突きつけている。
カイは立ち上がりながら、自分の中のエントロピーが、音もなく増大していくのを感じていた。
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