第5話 悪化
大丈夫。これは、いつもの夢だ。
耳にこびりつく子供の泣き声から逃げるよう、自分にそう言い聞かせる。
怖い。
けれど、夢なら目覚めれば終わる。
――そう、信じていた。
「マ、マぁ……アァ」
腹の奥から響いた声に、思考が弾けた。
「いやぁああああああ!」
自分の悲鳴で、私は跳ね起きる。
日も出ていない中での、最悪の目覚め。
私にとっては、いつものこと。
だけど、今回はいつもと違うことがあった。
もう、目は覚めているはず。
なのに……。
視界いっぱいに、巨大な赤子の顔があった。
半透明の青白い肌で、眼窩にはなにもなく、空洞が広がる。
そんな化物でしかない外見なのに、私には不思議と、それが赤ん坊だと、はっきり分かった。
そして――それが、私の中にいると。
「――っ」
声が出なかった。
恐怖で、息さえ止まった。
赤子の姿は、静かに消える。
けれど、泣き声だけが耳に残り続けた。
もう、悪夢は去っているのに。
時間は、 まだ夜中の一時。
私は、ほとんど寝ていない。
夜は、まだこれからだ。
ぽたりと、雫に落ちる。
それは、私の目から。
涙が溢れ、止まらなかった。
理由も、対処も、何も考えられない。
ただ一つ……このままでは、駄目だということだけは分かる。
今の私は、危うい。
だから私は……縋ってしまった。
頼ったらいけないと言われたのに。
わかっているのに……心が、限界だった。
「お願い。助けて」
泣きながら、スマホを通じ繋がる相手に、私は心をぶちまけた。
それから三十分後。
私は顔を真っ赤にして、俯いていた。
いわゆる、穴があったら入りたい状態である。
「嬢ちゃん、大丈夫か? 何か欲しいもんあるか?」
おろおろしながら手を握る雅さん。
それはもはや父親を通り越し、孫を甘やかす祖父のようである。
「いえ……もう、大丈夫です」
「いや無理したらあかん! 我儘言うんは子供の特権や。ほら、何して欲しいか――」
その、ヤクザとは思えない甘々態度に、私は何も申せない。
なにせ、こうなった原因が完全に私側にあるのだから。
いきなり夜中に呼び出して泣き叫び。
『手を握って』
『お腹見て、膨らんでない!?』
『傍にいて! ずっといて!』
などと無茶を言い続けた結果がこれ。
雅さんが“不安で仕方のないお爺ちゃん”状態となってしまった。
本当に申し訳ない。
だからそろそろ、手を離してほしかった。
赤面が、限界だった。
だけど、手を離して貰えたのは、そこからさらに十分ほどして。
時刻は深夜三時過ぎ。
つまり、二時間近く、手を握ってもらっていた計算になる。
我ながら、本当に情けない。
「……まあ、色々言いたいことはあるけどな。無事で良かったわ」
「はい。ご迷惑をおかけしました……」
「未婚の嬢ちゃんが、夜中に男――しかも極道もんを家に入れたらあかんよ。……今回は特例や。次は、呼ぶ相手を選びや」
「はい……」
しおらしく謝っているけれど、たぶんあまり意味はない。
申し訳ないけれど、きっと次も私は雅さんを呼ぶ。
私にとって雅さんは、誰よりも頼りになるから――。
「でな。その前に一つ聞いてええか」
「はい」
「さきちゃんのお母さんは?」
私は思わず、目を逸らした。
「……今、少し出てます」
「はぁ? この時間に?」
雅さんの顔が、険しくなる。
ここでようやく、私は自分のやらかしに気付いた。
「……父がいなくなってから、少し不安定で」
それ以上は、言えなかった。
家族の恥部を雅さんに知られたくないという気持ちと、オカルトと無関係な迷惑ごとに巻き込みたくないという気持ち。
その二つが、私の口を噤んだ。
離婚が決まってから、母はどこかおかしくなった。
普段は変わらないのに、ふと虚空を見つめたり、父の使っていた食器を、名残惜しそうに撫でたりする。
最初は、気落ちしているのかと思い家族としてサポートしていた。
気付けば、母の出かける頻度が急増した。
食事の買い物などは、もう私がやっていたのに。
夜中に出て行き、酒や香水の匂いをまとって帰ってくることもあった。
何をしているのか、わからない。
ただ――止める勇気もなかった。
「……大変やったな」
何かを察したのか、それだけ言って雅さんは私の頭をぽんと撫でた。
「……子供扱いですね」
「そういうつもりやないで」
一拍置いて。
「……いや、せやったら余計失礼か。すまん」
そう言って、手を引っ込める。
ほんの一瞬だけ……その手が惜しいと思ってしまった自分が、ひどく恥ずかしかった。
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