第3話 怪異か、悲劇か

 始まりは、ただの夢だった。

 夢の中で、おぎゃあおぎゃあと赤子の泣き声が響いていた。


 私は、子供が好きだ。

 だれかの子供を見るだけで幸せな気持ちになって、いつか、自分の子供を抱きたいとも思っている。


 けれど、その泣き声にはそうした感情が一切湧かない。

 不協和音のように、ただ耳障りで、不快だった。


 心を削る泣き声の夢が、毎晩続いた。


 正直言えば、今私の生活は少しだけ揺らいでいる。

 思春期の若者が不安を抱え、悪夢を見るというのは良くあることだろう。


 だけど――これはただの悪夢ではない。


 その声は、もっと近く――悍ましく、這い寄ってくる。


 声は次第に大きくなり、そしてある日――私は気づいてしまった。


「赤ちゃんの声が……私のお腹の中から、聞こえていたんです……」


 雅さんは、私の話を最後まで真剣な表情で聞いてくれている。

 だが、少し困ったように眉を寄せていた。


「うーん……。正直言うけど、これだけやと判断がつかんな。本人の感覚だけやと、ちょっち確認が難しゅうて……」


 雅さんの言葉は最もだ。

 私だって、自分の変化が精神的不安の幻聴か疑っていたくらいなのだから。


 だから私は、テーブルの上に“ある物”をそっと置いた。

 周りから見えないように隠し、雅さんにだけ見える位置で。


 それを見た瞬間、雅さんの目が大きく見開かれた。


 私は静かに、それを引き戻す。

 それは――陽性反応の出た、妊娠検査薬だった。


「私には……そういう経験がありません。妊娠なんて、するはずがないんです……」

 体を抱え、震えながらそう告げた。


 お腹の中に"何か"がいる。

 それに気づいてからずっと、身体の震えが止まらなかった。


「あー……。さきちゃん。苦しんでる君には悪いけど、残酷なこと言うで?」

「はい……どうぞ」

「俺はオカルトの専門家やない。せやけど、暴の専門家ではある。その俺から見ると……」


 言葉を探すように、彼は一瞬だけ視線を落とした。


「……君が気づかんうちに、何かされとった可能性もある」

「誰かに……睡眠薬とか盛られて、そういうことをされた、と?」


 雅さんは答えなかった。

 だが、その沈黙が、答えだった。


「せやから、まずはそれを調べへんか? 検査薬っちゅーのは、誤反応が出ることもあるしな……」

「えと……それは、ありがたいんですけど。どうやって?」

「その前に一つ聞くけど。なんで、親御さんに相談せぇへんかった?」


 私は俯き、小さな声で答えた。


「父が離婚して出て行ってから……まだ三か月も経ってません。母は……まだ、落ち込んでて」

 言葉を選ぶように、一度息を整える。


「そんな母に、相談なんて出来なくて……」

「……堪忍な」

「いえ、大丈夫です。……友達も、みんな忙しくて」

 そこで、私は小さく首を振った。

「だから、相談できる人は……もう、雅さんしか……」


 雅さんは困ったように後頭部を掻いた。


「……本来は良くない話やけどな。せやけど、緊急事態や」

 一拍置いて、言い切る。

「わかった。何とかしたる」


 そう言って、雅さんはどこかへ電話をかけた。


 ほどなくして、店の入り口に黒塗りの高級車が横付けされた。

 最初に見た、あの車だ。


「……っち。あの馬鹿……。もう少し、女子供が喜ぶ乗りもん選べや」

 雅さんは小さく舌打ちしてから、こちらを見た。

「さきちゃん。怖いやろ。タクシーで行こか?」


「いえ、大丈夫です」

 そう答えて、私は微笑んだ。

「雅さんのこと、信用してますから」


 一瞬だけ、雅さんは言葉に詰まったように見えた。

 それから、困ったような、怒ったような、呆れたような――

 そんな、どれともつかない表情で笑った。

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